次の土曜日。
次の土曜日。
香花が棲んでいる電気街のど真ん中にある駅まで、怜子を迎えに行く。
……
駅前にぽつりと立ち止まったままの怜子は明らかに、電気街の賑やかすぎる雰囲気に戸惑っていた。
あ、香花さん
香花を見て、明らかにほっとした声を上げた怜子に、口の端を上げる。
目の前の怜子は大学に来るときと同じ服装で、駅から吐き出される人々とは明らかに異質にみえる。その異質さに、香花は好感を持っていた。それはともかく。
こっち
手招きして、電気街の路地裏を進む。
香花が居候をしている、矢代が経営する修理工房の拠点となる建物は、機械やら部品やら模型やらの店が並ぶ、ごみごみとした路地裏の一角に有る。その建物の二階に、香花は怜子を案内した。
ここ
香花には慣れた、少し饐えた匂いが、鼻を突く。
地下は工房、一階は受付と事務室、そして二階は休憩室になっているのだが、使い方が悪い所為か、はたまた香花を始めとする修理工房の面々が皆掃除嫌いだからか、ミニキッチンが付いている休憩室は常に雑然としていた。随所にゴミが散らばり、ミニキッチンの流しは何時食べたのか分からない食べ物のかすで埋まっている。
ここの掃除と引き替え
え……?
香花の言葉に、怜子が戸惑いの声を上げる。
怜子の、家事全般の巧みさを、香花は怜子が時々作って持ってくるお弁当から推測していた。だが、そうは言っても、ノートパソコンと引き替えに汚い部屋の掃除なんて、香花だったら割に合わないと感じるだろう。
やっぱり、当惑するよね
怜子の顔を横目で見て、香花は少しだけ諦めの笑みを浮かべた。
だが。
や、やってみます
良いの?
香花の方を見て、こくんと頷く怜子に、正直驚く。
あ、ありがとう
月並みな言葉しか、出て来ない。それでも何とか、掃除道具が埋まっているであろう場所を、香花は怜子に教えた。
と、その時。
香花!
切羽詰まった矢代の声が、香花の耳を叩く。
緊急で修理依頼だ!
一緒に来てくれ!
分かった
とりあえず掃除宜しく。それだけ、怜子に声を掛けた次の瞬間、香花は階段を駆け下り、矢代のライトバンに乗り込んだ。
午前中に生じた緊急の修理依頼が終わったのは、夏至近い陽がすっかり落ちてしまった頃。
疲れた
修理道具満載のライトバンの後部座席に、作業着であるつなぎを着たままの小さな身体を押し込み、香花は何時に無い溜息をついた。
流れる車窓の景色は、普段通り。暗闇に様々な色のネオンが昂然と光っている。いつ見ても、変わらない、都会の夜の景色。その、ある意味けばけばしい光景に、心が静まるのは、昔から見慣れている光景だからだろう。
香花は、電気街で慎ましく暮らす両親の許に産まれ、七歳の時まで電気街で育った。
両親が病気で相次いで亡くなった後、母方の親戚が暮らす田舎に連れて行かれたが、優しくしてくれた祖母以外に馴染むことができず、大所帯の家で常に扱き使われ、虐げられて大きくなった。義務教育であるはずの中学校も、寝たきりになった祖母の世話を押しつけられたが故に殆ど行くことができていない。それでも、親戚の目を盗んで独学し、大恩ある祖母が亡くなった後に僅かなお金を握りしめてこの電気街に舞い戻った理由は、どんな物でも直してしまう伝説の修理工として尊敬されていた父と同じことをしたかったから。
幸い、父の友人であった矢代に拾ってもらい、仕事を手伝いながら矢代の知り合いの娘である舞子さんと、その友人であった亮さんと雨宮先生に勉強を見てもらうことができ、高校に行っていないにも拘わらず帝華大学に飛び級で入学することができた。
人手が少ない矢代の修理工房を手伝うのも、雨宮先生が守ろうとしている帝華大学理工科学部の建物の『歪み』を直す仕事を手伝うのも、香花にとっては当たり前の行為。
修理工房の看板が見えて、はっと夢想から覚める。
あ、怜子ちゃん
そういえば、工房の受付に一人人員を置いているとはいえ、二階の休憩室に怜子を独りおいてきぼりにしていた。もう夜なのに、怜子が下宿先に帰っていなかったら、下宿先の人が心配する。
矢代が運転する車が止まるや否や、香花はスライドドアを広く開け、工房の二階に向かって階段を駆け上がった。
休憩室の扉を、大急ぎで大きく開く。
……え?
何時に無い、暗いが涼しげな気配に、香花は落ち着かない気持ちになった。
無意識に震える手で、扉横の電灯のスイッチを押す。明るくなった室内は、朝見たごちゃごちゃした光景とは打って変わっていた。床にも、部屋の何処にも、ゴミ一つ落ちていない。椅子もテーブルもミニキッチンも冷蔵庫も戸棚も、まるで光っているかのように見える。そして。
……これ、は?
テーブルの上に乗った小さな山に、香花は震えながら近付いた。
山に被せてあった布巾を、そっと取り除ける。台所用透明ラップの下に、白いこんもりとした三角おにぎりの山が、見えた。
まさか、怜子ちゃん?
炊飯器使いました
海苔は冷蔵庫の中にあります
怜子らしい、きちんとした文字のメモが、おにぎりの乗った皿の横にある。
ラップを外し、一つだけ、おにぎりをかじってみる。
何も具が入っていない塩味のおにぎりは、何故か、昔、父が適当に握ってくれたおにぎりと同じ味が、した。