これが最後の一つだというのに、デスクトップ型パソコンの筐体の蓋が最後の最後で閉まらない。指に痛みを感じながら、それでも強引に金属板を叩くと、少し歪んだ蓋はそれでも何とか元の場所に収まった。
これが最後の一つだというのに、デスクトップ型パソコンの筐体の蓋が最後の最後で閉まらない。指に痛みを感じながら、それでも強引に金属板を叩くと、少し歪んだ蓋はそれでも何とか元の場所に収まった。
これで、全部動くはずですよ
いたずらで筐体を開ける人間対策として螺子でしっかりと蓋を留める香花の耳に、落ち着いた声が響く。香花がお世話になっている小さな修理工房の社長、矢代の声だ。蓋を閉める際に切ったのだろう、血の滲む指に溜息をつくと、香花は着ているつなぎの端で指を拭った。精密機械に水気は禁物。
サーバの方は異常ありませんでしたから、おそらく端末の扱い方の問題でしょうね
雑に扱ってるからよ
大学の事務方に説明する矢代の言葉に、誰にも聞こえないように小さく舌打ちする。
帝華大学理工科学部の四階にある情報端末室は、帝華大学に所属する者ならば誰でも出入りでき、そこにあるデスクトップ型パソコンを自由に使うことができる。それを知っているのか知らないのか、勝手に持ち込んだ大学のトイレットペーパーをマウスに巻いて使用する者も居れば、『飲食禁止』の掲示を無視して飲み食いしながらネットサーフィンで怪しい頁を閲覧する者も居る。ゴミの放置は日常茶飯事。こんな扱いでは、情報端末が故障しない方が奇跡だ。
いっそのこと、学生に自前のパソコンの持ち込みを許して、情報端末室など無くしてしまえば講義スペースがもう一つ増え、学生の自習に役立つのに。教員側も、一部屋しかない『パソコンが使える部屋』を授業の為に争奪せずに済む。尊敬する人物の一人である雨宮准教授のぼやきが聞こえてきたような気がして、香花は少しだけ口の端を上げた。一斉授業をスムーズに行う為には、条件が全て同じ情報端末が揃っている場所が必要であるとも、雨宮先生はぼやいていたが。
それはともかく。情報端末室が正常に戻ったと、知らせなければならない人が一人居る。香花は事務員の隣に居る矢代に会釈すると、情報端末室の扉に手を掛けた。
雨宮先生のところに行くんなら、着替えた方が良いぞ
その香花の背中に、矢代の声が響く。
そのつなぎじゃ、大学生だと分からない
別に何を着ていても良いじゃない
言いかけた言葉を飲み込む。
矢代も、香花がこの街でお世話になっている舞子さんも亮さんも、香花が服装に頓着しないことをしばしば嘆く。それに香花が反論しないのは、三人とも、香花のことを心配して服装のことを言うのだということを、理解しているから。だが。少しぶかぶかの、紺色のつなぎを眺めて息を吐く。大学の裏手に停めてある修理工房のライトバンの中には一応、つなぎに着替える前に着ていた、舞子さんが見立ててくれた大学通学用のブラウスとスカートが置いてあるが、今着ているつなぎは特に汚れた風にはみえない。どうせ矢代の車に乗って帰るのだから着替える必要は無い。そう考えた香花はもう一度矢代に会釈すると、つなぎのまま、十四階、数理工学科のフロアにある雨宮准教授の研究室へと向かった。
予想通り、放課後の雨宮准教授の研究室には、雨宮先生の他に三人の学生が、入り口近くのテーブルに陣取って待機していた。おそらく勉強していたのであろう、自習用のテーブルの上には本やノートが散乱している。だが、そのノートがほぼ真っ白なのも、予想通り。
直ったわ
挨拶抜きに、真っ白なノートを見詰めて俯いている短髪の少女、怜子が掛けているすっきりとした眼鏡に声を掛ける。
ほ、本当ですか?
香花の声に驚きの声を上げた怜子を、香花は好ましく感じていた。
香花が飛び級で帝華大学に入学している為、二学年離れている怜子と香花だが、実際は二ヶ月しか年が離れていない。それでも、怜子を妹のように感じてしまうのは、やはり自分の学年の方が上だからだろう。香花はそう、理解していた。
ほら、三森が居るから大丈夫だって言ったろ
その怜子の肩を、雨宮先生の弟であり、数理工学科所属ではないにも拘わらずこの研究室に入り浸っている勇太が叩く。馴れ馴れしい。勇太を強く睨むと、勇太は香花にだけ分かるように肩を竦めた。
しかしよく復旧しましたね
その勇太の声の後から、静かな声が耳に響く。
ま、私に掛かれば
勁次郎の言葉に、香花はゆったりと笑った。
だろうな
その後から響いてきたのは、自分のデスクトップパソコンで書類と格闘する後ろ姿しか見えない雨宮先生の声。
情報端末室で行われている、初年次必須の情報の授業中に端末の殆どが動かなくなったと、大学のコンピュータ修理を請け負っている矢代経由で香花に連絡が有ったのが今日の昼頃。端末の問題だけだったとはいえ、半日情報端末室を閉鎖するだけで済んだのだから早い方だろう。香花はもう一度、にこりと笑った。
そして。
もう一度、怜子の方を見る。
……
情報の授業の指導補助に入っている勁次郎の話によると、今日の端末の故障も、怜子が操作していたパソコンが最初に動かなくなったところから連鎖して起こった、らしい。
先週も、先々週も、怜子は情報端末室のパソコンを一回以上ブルースクリーンにしている。壊れない方が奇跡の端末とはいえ、頻繁に壊しすぎる。それが、香花の正直な感想。しかし、香花が丁寧にメンテナンスを施し、かつ飲み食いしながら操作しないよう目を光らせている雨宮研究室のパソコン端末に関しては、怜子は壊したことはない。情報端末室のパソコンと、相性が悪い、ただそれだけなのだろう。怜子には見えないように、香花はふっと笑った。
しかし情報端末室のパソコンが使えないのでは、怜子が困ることにならないだろうか。この研究室のノートパソコンは二台しかない。勇太と勁次郎が同時に使えば怜子は使えない。かといって、研究室設置の香花自身のデスクトップ端末は誰にも使わせたくはないし、准教授として機密書類も扱う可能性がある雨宮先生も自分のメイン筐体を他の人に使わせるわけにはいかないだろう。雨宮先生に、性能の良いノートパソコンを買う研究費の余分は、多分無い。と、すると。……この方法が良いだろう。
よし
一人頷き、勇太を押しのけるように怜子の横の椅子に座る。
怜子ちゃん用に、新しいノートパソコンを誂えてあげる
持ち歩けてさくさく動いて絶対壊れないやつ
え?
唐突だったのだろう、香花の言葉に、怜子の目は綺麗に丸くなった。
で、でも、パソコンって、お金、が
あ、それは大丈夫
怜子と、香花が冗談を言ったと思っている瞳で見詰める男三人に、香花は今度は大きく、微笑んだ。