……あ、れ?

 ほんの僅かの間、目を閉じていただけなのに、もう辺りは暗くなっている。

 勇太はふっと息を吐くと、寝転がっていた居間のソファから身を起こし、大きく伸びをした。

 節電を心掛けてタイマーをセットしていたクーラーが切れて部屋が暑くなってしまった所為か着ているくたくたのTシャツが汗でべとべとになっている。

 この暗さなら、もうそろそろ父も母も、天敵の兄も仕事から帰ってくる。今日は素麺にすると母は朝言っていたから、炊飯器をセットする必要は無い。しかしこの格好でソファに座っていると、おそらく兄が皮肉を言う。とりあえず着替えよう。そう思い、立ち上がった勇太の爪先に、先程まで読んでいた音波に関する本の、硬い表紙がこつんと当たった。

 勇太が通う大学が夏休みに入ってから、既に二週間が経過しようとしていた。勿論、勇太も勇太なりに夏休みを楽しんではいる。アルバイトに精を出したり、高校時代からの仲間と組んでいるバンドの練習をしたり、物理工学科の学生らしく必要な本を読んだり。共働きの両親を助けるために家事も少しやっている。それでも、何故か充実感を感じることができないのは、おそらく。

暇そうだな


 Tシャツを着替えて居間に戻った勇太の背中に、予想された声が響く。振り向くと、帰ってきたばかりの兄が勇太を見てにやりとした笑みを浮かべているのが、見えた。

煩い


 その兄のにやけた顔を、鋭く睨む。

全く、学生は良いよなぁ


 その勇太を総無視するように、兄、秀一は先程まで勇太が昼寝をしていたソファにどっかと座ってテレビを点けた。

俺も夏休み欲しい。涼しい部屋で本読んで計算したい


 勇太にとっては天敵にも等しい、年が十六離れた兄は、勇太が通っている帝華大学理工科学部の准教授をやっている。

 本もコンピュータも充実し、空調を全部自動管理している大学の研究室なら、兄の願いはすべて叶うはずでは? と、学生である勇太は思うのだが、兄の言によると、学生は夏休みでも教員は会議や一般の人相手の公開講座、研究などで忙しいらしい。だから兄は毎日のようにこの家から四駅離れた都会の中の大学へ通っている。しかしそれでも勇太に対する皮肉は余計だ。勇太は何か飲もうと、居間から続く台所の方へ足を向けた。

 と。

木根原に逢えなくて寂しいのか?


 冷蔵庫を開けて麦茶を出す勇太の背を、兄の揶揄が叩く。

煩い!


 叫びそうになった口を何とか閉ざすと、勇太は兄を総無視し、麦茶を大ぶりのコップに入れて一気に飲み干した。

……

 確かに、兄の言う通り、なのだろう。もう一杯、コップに注いだ麦茶を飲み干しながら、心の奥底で首を横に振る。

 大学の、夏第二期の期末試験が終わり、夏休みに入る前の日までは、勇太も夏休みを心待ちにしていた。しかし、ある特殊な事情から兄の研究室に出入りするようになった一学年下の数理工学科所属の女友達、木根原怜子が、勇太には何も告げずに実家に帰ったと兄から聞かされてからずっと、心の中が少しだけ空虚になっていることは、否めない。

 大学に入学するまで日本海側の田舎で暮らしていたという木根原に都会や太平洋側の海を見せたり、できれば勇太のバンドのライブも見せたり、したかったのに。それが、勇太の本音。

 いや、木根原はただの女友達。兄である雨宮准教授の研究室に出入りしているだけの仲に過ぎない。確かに、期末試験の勉強やレポート作成は一緒にやったが、それだけでは、親しくなったとはいえないだろう。もう一度、心の中で、勇太は首を横に振った。勇太が勇太であるのと同じように、木根原も木根原という一人の人間である。独りよがりの過剰な感情は、抱いてはいけない。

ただいまぁ


 その勇太の耳に、明るい声が響く。

 母が帰ってきた。
 顔を上げると、母の横に、重そうな買い物袋を持った父もいる。

悠子さん、この荷物は、何処へ?

あ、冷蔵庫に、お願い

 母と父の職場は少し離れているが、それでも、時間が合えばしばしば一緒に買い物をして帰ってくる。それが、二人にとっての『デート』になるらしい。仕事で知り合い、馬が合った同い年の二人は、結婚して二十年経っても相変わらず仲が良いように見える。父と母の様子に、勇太はふっと微笑んだ。父と母のようなカップルが、勇太の理想。

お腹空いたでしょ
素麺すぐ茹でるから


 買い物袋の中身を冷蔵庫に入れる大柄な父の邪魔にならないように、麦茶を入れたコップを持って移動する勇太の耳に、母の明るい声が響く。遅くなってから勇太を産んだ母だが、それでも五十を過ぎているようには見えない。母と父の仲良さげな様子をもう一度じっと見て、勇太は小さく息を吐いた。と。

これ!

 不意に、母が大声を上げる。
 顔を上げると、母が茶封筒を手に目をきらきらと輝かせているのが見えた。あの封筒は、確か、昼間勇太が受け取って台所のテーブルの上に置いておいた、母宛の簡易書留。差出人は、確か。

やったー! 当たったー!

な、何が? 悠子さん?


 封筒を掲げて踊る母に、父が目を丸くする。

え、送ってた懸賞
閑静な宿場町の、料理が美味しい旅館の宿泊券! しかも家族四人分!

はいっ?


 訳の分からぬまま、居間と台所に居た男三人は硬直する。

と、いうことで、来週家族旅行ね
弘さんも秀一も休み取ってね。勇太も

は、はい……


 勇太も、そして兄も父も、母の言葉に頷く他、無かった。

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