普段は学生達が使っている、研究室のテーブルの上に山積みになった紙束に、はっと息を吐いてから腕まくりをする。

さすがに、多いな


 さすが、初年次生全員必修の授業、昨日文句を吐き散らしながら採点した試験答案の量も歯ごたえがあったが、レポートの量も半端無い。しかも、普段は手伝いに駆り出している、『歪みを識る者達』の一人である院生の平林は、家庭の都合で実家に戻っている。

 数理工学科の初年次を指導する役は、学科内で順番に回ってくる逃れられない役割とはいえ、一人で、この線形代数のレポートを全て採点しなければならないとは。

 しかも、期限は明日の土曜。帝華大学は四学期制を採用している。おおよそ四、五月が第一期で、本部キャンパスで学園祭が行われる六月初めの週末を挟んで六月第二週からはもう第二期が始まる。それまでに成績を入力しなければ事務方に怒られる。だから、秀一はテーブルの上の赤ペンを一つ引っ掴むなり、椅子に腰を下ろし紙束を一つ手に取った。

 と。

 研究室に鳴り響いた電話音に、興を削がれて舌打ちする。せっかく集中したのに、何の用だ? しかし内線だから無視するわけにはいかない。

もしもし


 赤ペンを放り出し、受話器を握る。

雨宮先生


 秀一と同じく数理工学科の初年次の指導教官を任され、初年次の解析学の授業を行っている水沢教授の声が歪んで聞こえ、秀一ははっと心を引き締めた。

 何か、有った。

木根原さんの指導教官は、雨宮先生の方でしたな


 唇を噛んだ秀一の耳に、まだ若いはずの水沢教授の声がひび割れて響く。

解析学のレポートが、見当たらないのだが


 まさか。水沢教授の言葉に、耳を疑う。

 今は線形代数のレポートが山積みになっている、あのテーブルで、木根原が、二年生である弟の勇太や三年生である三森と共にレポート作成に勤しんでいたのは、今から丁度一週間前のこと。そして、三森と一緒に数理工学科の事務室に設置されているレポートボックスに作成したレポートを投入していた木根原をも、丁度事務室に手紙を取りに行っていた秀一は見ている。あの時確かに、木根原は解析学と線形代数のレポートをレポートボックスにきちんと投入していた。

ちょっと待ってください


 受話器を置いて、テーブルに戻る。レポートの山を何度ひっくり返しても、木根原が提出したはずのレポートは見つからなかった。

これは


 思考が、ある結論に達する。

一日だけ猶予をください


 再び受話器を握り、秀一は電話越しに頭を下げた。

分かっている


 聞こえてきた、水沢教授の声も、怒りに満ちている。

今度の教授会で、取り上げよう


 レポートは、提出しさえすれば正規の点数を付ける。水沢教授の言葉に、秀一はほっと胸を撫で下ろした。

……良かったよ。バカ弟と一緒に居て

 研究室に現れた学生三人――木根原、三森、勇太――を見て、余裕を滲ませた軽口を何とか叩く。

 木根原は、携帯電話を持っていない。水沢教授と折半して指導教官となっている一年生の中に木根原が入っていたので、木根原の下宿先の電話番号を調べることはできたのだが、タイミングが悪かったのか電話をしても誰も出なかった。だから、今日中に木根原を捕まえるのは時間が掛かると最初は秀一も諦めていたのだが、本部キャンパスの学園祭に行くと言っていた弟の勇太の携帯電話にダメもとで電話をすると、木根原や三森と一緒に学園祭を見学しているというではないか。自身の幸運さに、秀一は今度ははっきりと、口の端を上げた。それはともかく。

レポート、出てないなんて

 事情を聞いた木根原のすっかり落ち込んだ肩を、勇太が叩くのが見える。

大丈夫さ
兄貴も水沢先生も待ってくれるって言ってるから

今からやり直せばすぐ終わるわ

 その横で、秀一をきつい視線で睨んだ三森が冷静にレポート用紙と教科書を準備する。

 三人のその様子に、秀一はほっと胸を撫で下ろした。

……

 成績優秀な三森も、自分のレポートを目の前で盗まれたことがあるらしい。
 学科事務室設置のレポートボックスには鍵が付いていない。提出されたレポートを誰かが勝手に持ち出しても誰にも分かりはしないのだ。しかし、おそらく写した後で自身のレポートと一緒に再提出しておくくらいの分別は皆持ち合わせているのであろう、三森のレポートが未提出だという報告は、幸いにして耳にしたことが無い。

 それが今回は、盗まれた木根原のレポートは戻されていない。おそらく、写した後で捨てたのだろう。その理由をも、秀一は推測できていた。

……いただきっ

なっ……!

 第一期期末試験の第一日目、月曜日の解析学の試験中に、木根原の解答済みの答案が隣の学生に奪われそうになる事件が起こった。

 出来の良い人の答案を写すカンニングは、混雑した大人数での講義ならば必ずと言って良いほど発生する。そのことは、帝華大学で学んだ秀一も噂として知っていた。しかし大抵は、カンニングする者とさせる者との間で事前に了解を得ておくものだ。
 しかしあの試験では、その余裕が無かったのか、あるいは、大人しい木根原だったら抵抗無く答案を奪うことができると思っていたのだろうか。そこまで考えて、秀一は心の中で舌打ちをした。勉強する気が無い、頭を使って根回しすらやらない奴など、大学に居る資格は無い。

 それはともかく。

返してくださいっ!

いやあとで返すから……

そこっ!
何をしているっ!

 突然のことに驚いた木根原が抵抗したので、カンニング行為はすぐさま監督員に見つかった。
 結果として、木根原の答案を奪おうとした学生は除籍処分、木根原自身は答案を半分に破られたので試験時間を延長して答案を書き直す羽目になったのだが、それだけでは、おそらく奪った答案を回してもらい、楽をして単位を取ろうとしていた学生達の気が収まらなかったらしい。

 秀一が担当するもう一つの初年次必修、線形代数の試験は用心に用心を重ね、本来の授業補助院生ではない勁次郎まで駆り出して不正防止に努めた、というのも、彼らにとっては不利益以外の何事でもなかっただろう。木根原のレポートが無くなってしまったのは、おそらく、その結果。

え、えーっと

落ち着いて
前は解けてたでしょ

緑茶買ってきたぜ
飲んで息抜きしてから、また頑張ればいいさ

 肩を落としながら、それでも何とか筆記具を動かしている木根原の小さな背中を、もう一度、静かに見詰める。

 木根原は、この事件で、大学や世間にある理不尽さを学んだ。秀一が学んだことは、三森の時にレポートボックスに鍵を付けるよう強く要請しなかったことで生じた、面倒さと、済まなさ。

反省は、後だ
……今は

 では、木根原にこのような仕打ちをした奴らが学ぶことは? テーブルから自分の机に移動させたレポートの束を、秀一は一つずつ丁寧にチェックした。

 公正さを期す為に、木根原や勇太が作成したレポートにツッコミは入れていない。だが、この部屋で作成されたレポートなのだから、二人がどのように解いたのかは知っている。木根原のレポートと同じ解き方をし、同じ間違いをしている丸写しのレポートを見つける度に、秀一はそのレポートを床に放り投げた。勉強する気が無い奴らに、単位を与えるつもりは無い。因果応報、それが、彼らが学ぶ内容だ。誰にも聞こえないように、秀一は静かに、笑った。

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