It is not because things are difficult that we do not dare; it is because we do not dare that they are difficult.
-Lucius Annaeus Seneca-

一粒の汗も、海となる。

Episode Ⅲ

どんなに長い川でも、ついには海に辿りつく。

どんなに広い海でも、いつかは海岸に身を寄せる。

ドッグ・タンは朝の散歩の帰り道、海岸線をまっすぐ歩いているところだった。

朝の光というのは、あらゆる世界を新しく美しいものに感じさせる。水辺のすべてが活き活きとして見えた。

翡翠は水中でより透き通り、うつくしい発色が増す。

ドッグ・タンは目に留まったみどり色の石をいくつか口に放り込んでみた

しょっぱい!

海の味、だ。

これ、どっちも”翡翠”なの?

机に並べられたふたつの石を見比べる。

どちらも今朝がた、ドッグ・タンが海岸線で拾ってきた石だった。字が書けないドッグ・タンの代わりに、フィールドワーカーがラベルを作る。

そうだ。

色も形もぜんぜん違うのに。

でも、どっちも"翡翠海岸"で拾った。

えっ、だからどっちも"翡翠"だって言うの?
ドッグ・タンの舌でちゃんと調べた?

ああ、でもどっちも”塩味”だった。

いい加減だなあ!

いい加減でもなんでも、翡翠は翡翠なんだから。はやくラベルを書いてしまってくれ。

ドッグ・タンは潮風でべったりした毛並みを肉球で引っ掻いている。

彼の表情が読み取れるようなパーツはひとつも見えないが、毛むくじゃらの下から不機嫌そうな唸り声がして、ドッグ・タンが随分ご機嫌斜めなのが分かる。

潮風をたっぷり浴びたときの、身をからめる独特の不快感。これだけ豊かな毛を持つ彼は、なおさらはやく、真水を浴びてすっきりしたいのだろう。

ドッグ・タンに悪気はなくとも、その態度がフィールドワーカーをすっかり怒らせてしまった。

もう、まじめに答えろよ!

採取した鉱物標本には、採取日と採取場所と採取者の名前、そして、この標本が一体なんなのかを記した”ラベル”をつけるのが決まりだ。そうしてはじめて、ただの拾い物がきちんとした”標本”となり得る。

フィールドワーカーの仕事のひとつが、このラベルをきちんとつくること。

たくさんの情報は、しっかり整理し保管ができてこそ価値がある。乱雑するモノをひとつひとつ拾って、ラベルを付けて、並べていく。もしそこでいい加減なしまい方をしてしまうと、結局また出来上がるのは乱雑なモノの山。自分の頭のなかをのぞけるのは自分だけだが、棚に並べられた標本とラベルは、自分以外のたくさんの人にその”知識”と”経験”を与えることができる。

ラベル作りは、フィールドワーカーにとって誇り高い、大事な仕事だ。

…とにかく、今ははやく水を浴びたいんだ。生まれてからずっとつるつるの竜の子どもには、分からないだろうが。

翡翠海岸の石を”見分ける”のは難しいんだ。ドッグ・タンの舌でちゃんと調べてくれないと、間違ったラベルなんて作れない!

残念だが、いまは何を舐めても塩味だ。

細かい分類がめんどうなら、まとめて”翡翠”と書いておけばいいんじゃないか?誰が困るでもなし。

呆れた…!!君はやっぱり、ただのくいしんぼうな毛玉だ!!

何がめんどうだって?誰も困らないって?
ボクらの大事な仕事だぞ!!

毛玉で結構。

ただしこれは「ボクらの仕事」じゃないぞ。
「君の仕事」だ、FIRLD WORKER。

FIELD WORKER の 仕事。

ドッグ・タンの言う通りだった。

いくら腹が立っても、言い返す言葉はない。
ドッグ・タンはちっとも動揺せず、それきりさっさと水浴びに行ってしまった。フィールドワーカーはひとりで”翡翠”の仕分けに取りかかるしかなかった。

[翡翠]

ヒスイ、

ひとつは、白っぽくて、角のないすべやかな石だ。

半透明の白色は、濡れたような光沢を持ち、よく見れば淡い黄色や青緑色や紫色がまるで浅瀬の水面を写しとったような模様を描いている。

もうひとつは、これも角が取れてなめらかな石で、深い青色や紫色が揺らいでいた。

表面の光沢を白い小魚のような光が泳いでゆき、水底を覗いているかのような心地になった。手触りも、一瞬冷たいかと思いきや、すぐに触れた指と同じ温度になっていた。

ヒスイ輝石は白色だが、他のあらゆる石と同じように、含まれる金属成分の微妙なちがいが色になる。

うつくしい翡色は、青磁の肌の色、浅い緑色、入り江や遠山にみえる翠色…。
翡翠があらわす「みどり」には、微細な違いとそれぞれの美しさがある。翡翠色が言い表すはっきりした翡翠色はない。だから”翡翠”が総称する多くの石も、その見た目は様々で、純白のヒスイも、深く濃い青緑色も、みな翡翠色だ。

反対に、翡翠色でも翡翠ではない石がある。

さあ、どうしよう…

どんなに知識を持っていても、いま目の前にあるふたつの翡翠をすぐさま仕分けられる訳ではない。

翡翠海岸の石を調べ直す、いい機会だな。

翡翠海岸で採取したサンプルを、いくつか棚から出してきたものの、ドッグ・タンが拾ってきたふたつの石の違いと同じくらい違って、同じくらい似ている。

そしてどのラベルも”翡翠”と書かれていた。

むかしのボクもいい加減だなあ!

過去の自分に文句を言いはするが、これまでフィールドワーカーがいい加減な仕事をしたことはない。
翡翠海岸で拾った石はきちんと、翡翠と、翡翠に似ているが翡翠ではない石とに区別されていた。

今もまた、すぐに翡翠海岸の再調査を決めた。

フィールドワーカーは優秀だ。

フィールドワーカーの純粋な真面目さは、好奇心を先頭にして突き進み、汗をかくことも厭わない。

一粒の汗が、海となる。

フィールドワーカーが翡翠海岸に着くと、珍しい事に先客がいた。

おや?アンタ、人間じゃないのか。

To be continued

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