ゴスロリ姿の少女は、安いパイプ製のベッド上に座り込んでじっとりとした視線を向けていた。
警戒心や敵対心はない。
ただ、「早くしろ」という言葉を目で訴えかけているだけだ。

少し近づいてやると、少女の方から手を頬に添えてきた。
少女は嬉しそうに微笑む。
その笑顔は可愛いという感じではなく、ただ満足気な表情だった。
少女は顔を近づけてきて俺の瞳を覗き込みながら舌を俺の頬に這わせた。
これは彼女なりの愛情表現のようなものらしい。
別に舐める事で興奮したりしている訳ではない。
無論、俺も頬を舐められて興奮するような変人ではない。
彼女に舐められると、どことなくざらざらした感触がする。
猫舌とは……ちょっと違うか。
少女はゆっくりと、顔の角度を変えて俺の顔を舐めまくる。
少女は頬や顎におでこと鼻先を実に十分程かけて舐め回すと、満足したようでぱっと顔を話すとたどたどしくお礼を言う。

でも、これだけでは終わらない。
まだもう少し、彼女の時間は続く。
一番重要で、一番大変な事が。

犬が唸り声を上げるような声を出して少女は力み、口を開ける。
俺はぐっと耐える心構えをした。

次の瞬間、彼女の口がぐわっと“裂けた”。
それこそ口裂け女みたいに頬まで。
そして少女は俺の首筋に噛みついてきた。

相変わらずその痛みに耐える事ができず、俺は声を上げた。
これは、少女の喰事だ。
血を吸っているように見えるが違う。
彼女は吸血鬼ではないし、血を吸ったり噛みつくのが趣味な訳でもないのだ。
最たる証拠に彼女は何度も噛んで鋭い歯を突き立てて俺の首の皮を剥いで肉を傷つけている。
“痛み”を喰っているのだ。
噛みつかれた直後は痛みが伴うが、少しすると徐々に和らぎ、やがて何も感じなくなる。

俺は自由な右手でコツンと少女の頭を軽く叩いた。
すると少女は首から顔を離して、

と口を尖らせた。

殴られた。
思いっきり、殴られた。
しかも、やたら流暢に喋った気がする。
俺、安ベッドの上から、三メートルは飛んだぞ、今。
引っ越しの時の段ボール残しといてよかった。

まったく、こいつは酷い奴だ。
さんざん、噛みついて痛みを貪った後は、すぐ

と言いやがる。
俺はお前の喰事のせいで、首が血だらけなんだぞ。
まあ、彼女の持つ能力のせいなのかはわからんが十分もあればすぐ元通りになるけど。

そう言って少女は黙り、俺は大人しく昨日買った漫画に手を伸ばそうとした。

治りきってないのに大声を出したのが間違いだった。
口と首から血が出てきた。
急いで大量の布を手当たり次第に引っ掴んで首に押し当てて、血が止まるのを待った。
まったく毎回、喰事の度にこんな目に遭うのだからたまったもんじゃない。

そう言って、少女は床に置かれた救急箱から包帯を取り出して俺の首に巻いて……

それから更にニ十分程して、首の噛み傷が完治した俺は少女に催促されて彼女の散歩に付き合わされていた。
俺としては、できれば外を出歩かせたくないのだが。
こいつ、何するかわからんし。

この普通の街並みのどこがそんなに凄いのかは、あえて訊かない。
訊いた所で、全部！と答えるだろうし。

凄い形相で睨まれた。
どうやら彼女の地雷を踏んだらしい。
何が彼女の地雷なのかは、俺にもわからん。

少女はそれだけ言うと、視線を別の所に向けた。

彼女が指差す方向には、ハンバーグレストランの文字。
こいつ……！さっき俺の“痛み”を喰ったばっかりだろうが……！

こいつは、何が気に入ったのか俺の作るハンバーグとラーメンがお気に入りらしく、今の様な質問をするとだいたい悩んだ末に諦めてくれる。
少女はう～ん、と顎に手を当てて必死に考える顔をした。

今回も、悩みに悩んだ末に無事諦めてくれた。
二千、三千円もするハンバーグを大量に頼まれでもしたら、たまったもんじゃない。

ああ、もう、こんな話をしていると、こいつの危険性をつい忘れそうになってしまう。
俺は緩みかけていた気を締め直した。
帰りにソフトクリームを買ってもらえると知った彼女は、どこからどう見てもウキウキとしていた。
純真な眼差しで、チラチラと俺の顔を見てはニヤリと白い歯を見せて笑って前を見る。
まったく、こうしてると本当にただの子供だな。

少女は笑うと、一瞬の内に歩道から歩道橋の手すりの上に飛び移っていた。
おいおい、今のを他の誰かに見られちゃいないだろうな？
注目の的にでもされた面倒だぞ。
周りを見渡してみて、誰もいないのを確認して、ひとまず安堵する。

確かにそうだ。
こいつは普通ではないし、人間でもない。

こいつは、もう少しスラスラ喋れるようになってほしいと思う。
喋ると、いつも途切れ途切れになって、聞き取り辛い。
まあ、少しずつ慣れてきてはいるが、一年かけてこれだ、普通に喋れるようになるのはいつになるだろうか。
学習能力自体は高いようで、人間の生活そのものにはあっさり慣れてくれたのは幸いだ。

歩道橋で、何をして遊ぶというんだ。
そもそも遊んでいいような場所ではないだろう。
その辺をわかって……いる訳ないよなぁ……

俺は彼女が差し出してきた手を握って、

と歩き出した。
町の公園に向かった。
途中、少女の視線が何度か食い物に向いていたが、無視した。

ベンチと噴水といくつかの遊具があるだけの、何の特徴もない普通の公園だが少女からすればこれだけでも満足なようで、笑って走り出した。
一直線に滑り台に向かうと柱をよじ登って、滑り下りる事を何度も繰り返す。
外見の割に、やる事が幼いなぁ……
というか階段を使え、階段を。

正直言って、俺としてはこいつを早く安全な家の中に戻してやりたい。
いつスイッチが入って、彼女が本性を剥き出しにするかわからないからだ。
こうして無邪気に遊んでくれている内にはいいのだが…………

やっぱり、こいつが外に出ると平和には済まないようだ。
彼女の言う“匂い”とは、痛みの匂い。
もっと簡単に言えば血の匂いだ。
誰かを殺されたか、或は怪我を負った何者かの匂いを少女は嗅ぎ取ったのだ。
勿論、俺にはそんな匂いはわからないが、彼女の反応からして場所は近い。

俺は少女の手を引いて、帰路に着こうとした。
巻き込まれたくないという思いがそうさせた。
だが、少女はそんな俺の思い通りにはならず、するりとすり抜けて“匂い”のする場所へ向かい始めた。
彼女の口元が緩み、本当の口の形を取り戻していく。
スイッチが入ってしまった。
そうなると止めるのは至難の業だが、放っておいたらどうなるかわかったものではない。
面倒事に巻き込まれるのは間違いないが、せめて彼女のストッパーにならねば。

匂いを辿る少女についていった先は、公園から少し離れた貸倉庫場だった。
人影もなく、日が陰っているというのもあってか薄暗かった。
匂いの本があったとしても、そう不思議ではなさそうな場所だ。

俺は小声で少女に訊く。
すると少女は口元に指を当てた。
黙っていろという強い主張が感じ取れ、俺は口を閉ざした。
少女はワンピース姿にも関わらず、猫の様に四つん這いになって、コンテナの陰を移動し、俺も慎重についていく。
時折、匂いを嗅ぐ動きをして、少女は在処を探す。
その動きはどことなくというか、とてもエロティックだ。
俺は場所と姿勢的に、スカートから覗く太腿を拝む事になる。
さすがに中まで除く変態ではないが。

少女がそう言い終えるかどうかのタイミングで、大きな音がした。
呻き声もするし、貸倉庫の一つに人が叩きつけられたようだ。
それに続けて、怒声も聞こえた。

少女はそう冷たく言って、貸倉庫の一つの壁をよじ登り始めた。
さながらイモリみたいに、掴めるような場所もないのにするすると昇っていく。
俺は仕方ないので、その貸倉庫の横に回って覗き込んでみた。
ああ、やっぱり。
そこには、何人かの男が居て、一人が鉄パイプを持って貸倉庫の前にへたれ込んだ男を睨み付けている。
痛みの匂いの本は、襲われている方か。
視線を貸倉庫の上に移すと、少女が口を開けていつ喰いつこうかと様子を伺っていた。
男たちは目の前の男だけを見ていて、少女にも俺にも気付いてはいない。

あいつが正面からあの男たちに挑んでも、負けるような事はないだろうが、やはり気にはなる。
すると。

そのまさかだった。
少女はコンテナの上から男たちの前に飛び降りた。

黒服の男の怒声が響いた。

そんな会話が聞こえた。
俺は少女の方に視線を向けている。
あいつがどうするのかだけが、俺の気がかりなのだ。
それでも一応、携帯を取り出してレコーダー機能を起動させて男たちのやり取りを記録させてもらっている。
それにしても、へたれ込んでる方の男は何をしたんだ？

下卑た笑い声。
伸ばされたその手が少女の肩を掴もうとした瞬間。

少女の指が鋭い刃物のような爪へと変わり、男の右腕をばっさりと切り落としていた。

少女は、男の痛みを喰らおうと口を開けたが、咄嗟に別の男が闇雲に振るった鉄パイプが少女の首を捉え、その身体は勢いよくふっとばされて地面に叩きつけられた。
ぐったりとして動かず、首もおかしな方向に向いている。
男たちの間に動揺が見て取れた。
俺は、何もせず少女の方を見る。
あいつが死ぬ訳がないのだ。
そう、死ぬ訳気がない。
こちらに向かって捻じ曲がった少女の口元が笑みを浮かべた。

動揺した男たちの言葉が飛び交う間、へたれ込んでいた男がそっとその場を離れようとしていた。
俺はできれば、そのまま逃げのびてほしいと思った。
だがそいつは、覗いている俺と目を合わせた直後、何を思ったか

と言いやがった。
そのせいで、俺を見つけた黒服の、一人が

と走って来た。
俺は慌てて逃げようとしたが、足がもつれ転んでしまい、あっという間に男に捕まった。

俺がどれだけ睨み付けても、少女は倒れたまま起き上がろうとしない。
まさか本当に死んだのか？

答えないでいると殴られた。
その間にも、少女に腕を斬られた男はもう一人の男に止血を施されていた。

逃げようとしていた男も捕まる。

また殴れて、地面に叩きつけられる。
口の中に鉄の味が広がって、ぺっと吐き出してみると、べっとりとした血が出てきた。
すげえ痛い。
今こそ俺の痛みを喰ってほしい。

今度は蹴られた。
それでも答えないでいると、更に殴る、蹴るの暴行を受けた。
全身が痛い。
それでも、あいつは起きない……！

そして、しびれを切らしたのか、男が俺の襟元を掴みかかって来て後頭部を思いっきりコンテナに叩きつけた。

そう言われてたってなぁ……俺、親はいないしな。

嫌な事を思い出そうとして、俺は涙ぐんだ。
その間にも俺は殴られ続け、隣でもう一人の男も同じように暴力を受けていた。
そんな俺の視界の向こうで、少女がゆっくりと立ちあがった。

次の瞬間、男は消えていた。
一つ瞬きした間に、だ。
正確には少女の姿もなく、少し人の形に似た異形の竜がそこにいた。
男は、竜の口の中にいてグチャグチャと音を立てて飲まれていく。
竜は、男が死ぬその瞬間の痛みを全て喰らい尽すと、他の男たちにも襲い掛かっていった。
次々と襲い、片端から鋭い爪で切り刻み、痛みを喰す尽くした。
男たちが死ぬその瞬間まで、痛みを感じたのかはわからない。
でも一つわかるのは、少女であった竜は今、とても満足しているという事だ。
男たちは肉片一つ残さず、喰い尽された。
その体積が少女程の大きさの竜の体のどこへ行ったのかわからない。
そんな事はどうでもいいのだ。
今はただ助けられ…………
乾いた音が響き、俺は腹の辺りに熱い物を感じた。
振り向くと、さっきまで殴られていた男が拳銃を持っていた。

ドクドクとした痛みを持続的に感じながら、俺は地面に倒れた。

ああ、そうかよ……お前もあの男たちの仲間だったのか……
あの男たちの所から逃げようとして…………
俺は、ぐらつく意識の中で何故か浮かんだ言葉を呟いていた。
視界の箸で男が拳銃を竜に向ける。

くぐもった少女の声がした。
そして、視界の箸にいた男は消えた。
全員、死んだな。
感じた時には、俺はごろりと転がされた空を向いた。
覗き込む顔は竜ではなく、あの少女だ。

少女は、何かを言ったようだが、聞こえなかった。
しばらくして俺は、病院のベッドの上で目覚めた。
生きている。
なぜ？
その問いに対する答えは、医者から聞かされた。
誰かが

と警察に通報してくれたらしい。
それで救急車も出て、意識不明の俺は見事救われたという訳だ。
しかし、通報してくれた人はどこにもいなかったそうだ。
その人の声はどうだったかと訊くと、女の子だったらしい。

俺は、病院のベッドの上で外を見ながら呟いた。
俺の痛みを好んでいたくせに。
それから三ヶ月が経ち、俺は退院して家に帰った。
しかし、

と扉を開けた部屋には誰もいなかった。

とか

とせがんでくる、あの少女はいない。
俺は、胸が痛んだ。
手術痕の痛みじゃない何かだ。
でもその痛みを喰ってくれる奴は…………

俺の足は、おのずと少女と出会った、あの神社に向かっていた。
町のはずれにある、小さな神社だ。
俺はあそこで、痛みを喰えず腹を空かして餓死しそうなあの少女……竜と出会った。
それは確かに傷ついて、弱った小柄な竜だった。
その時、俺は父が事故で死んで、母も自殺した事で相当まいっていた。
俺も、自殺しようと思っていたのだ。
だけど、その竜を見た瞬間、俺は自殺しようという意思が消えていた。
助けたい。
そう思った。
何故そう思ったかはわからないが、どうにかして何か食わせてやらなきゃと思った。
でも、何をやるべきなのか迷っていると、竜は俺の腕に噛みついてきた。
初めて、“痛み”を喰われた瞬間だった。
確かに最初のうちは痛かったが、徐々に痛みが吸われていくのがわかり、こいつの食事は誰かの”痛み”なんだという事を知った。
それが俺とあいつの出会いだった。
父親は事故死、母親は自殺。
友達だった奴らは、遠ざかっていった。
俺を引き取った親戚も俺の事を煙たがっていたから、こっちから出て行ってやった。
そしてあいつは、喰うだけ喰って、どこかに行きやがった。
なんでどいつもこいつも……俺の前から……！

その声は、確かに少女の物だった。
振り返るとそこに、竜が居た。
出会った時と同じ、小柄な竜が。

竜は、少女の姿に変身しながら謝ってきた。
俺の胸に頭を押し当て、泣いているようだった。

速攻でキスされた。
光よりも速かったような気がした。

少女が見せたとびきりの笑顔は、たぶん一生忘れない。
少女は、ハンバーグとラーメンと、痛みを喰う。
俺は、彼女にハンバーグとラーメンと、痛みを喰わせる事で、心を埋める。
またいつまで続くかはわからないが、少なくとも続いている間は俺の心は充実しそうだ。
それが俺と少女の、変わった関係だ。
俺達の関係は、もうしばらく続く……

…………たぶん