変な夢を見た、と思う。
 酷い眩暈と共に、見知らぬ場所に急に移動して、夜になって焚火をしていると喋る狼が現れる──そんな、妙な夢だ。

変なの……一体、狼がどうやって喋るっていうのよ

 心地よい微睡に包まれながら、優理はそんな風にその夢を評した。酷く暖かく、手足を動かすと滑らかな感触が伝わってくる。

……あれ?

 そこで、ふと違和感に気づいた。果たして自分のベットには、こんなに上質な手触りの布団が敷かれていただろうか……?
 もぞもぞと手を這わせ伸ばすと、自分の体温が移ったぬくもりにしては高い温度が指先へと触れる。

起きたのか?

わぁっ!?

 突然聞きなれない低い声がすぐ近くで聞こえ、優理は殆ど飛び起きるようにして目を覚ました。

魔王少女

03.翼持つ狼

 最初に優理の目に飛び込んできたのは、自分の下敷きになるように寝そべる巨大な青い獣の姿だった。次に頭が冴えるにつれ、視界の端に雑草に覆われた地面を認識する。

うわ、驚いた。急に飛び起きたりしてどうした

や、やっぱり狼が喋ってる……!!

 驚きで腰が抜けたのか、優理は地面にへたり込んだままその狼を呆然と眺めるしかなかった。
 良く聞くと意外に美声な狼は、日の光の下で見ると青灰色の毛並をしていて、セント・バーナードのように大きい。その上、その背には毛並より少し白っぽい色をした鳥の翼のようなものが生えている。昨日見た時には、暗さと衝撃で全く気が付けなかった。

 明らかに現実味に欠けたその生き物の姿に、やはりこれは夢なのではないか、とのろのろ動く脳みそがやっとそれだけを言う。
 そうすると、優理は面白いことに、夢の中で夢を見ていたという事になるのではないだろうか。それとも夢というものは一晩に幾つも見るという事だから、単に夢が切り替わったのをそう感じているだけなのだろうか。

……大丈夫か?昨日、倒れた時に頭でも打ったのか?

 狼は何故か気さくな感じで優理に話し掛けてくる。心配気にその大きな鼻先が固まって動けなくなった優理の髪の表面をそっと掻き混ぜた。

 頭を打ったのか、だって?それは勿論、打ったに違いないだろう。

 何しろ狼の声がまるで人間の男性の声のように聞こえているのだ。自分の頭がおかしくなったと考える方が、狼が喋れるようになったと考えるより余程現実的だと思える。

え……あ、えーと……多分、そうみたいです

大丈夫なのか?

 狼の心配そうな声に、優理はこくこくと頷いて答えた。

 感触が気に入ったのか、狼は相変わらず鼻先を優理の髪に突っ込んで遊ばせている。優理の耳や頬等を簡単に食いちぎる事が出来るであろう、鋭い牙の並んだ狼の口元が触れているという事にも、優理は気が付くことさえできずにいた。

 単純に言えば、余りに現実離れした事ばかりが続いた為、優理は現実感を喪失してしまったのである。
 狼が喋るという現象を取り敢えず認め、それに曖昧ながらも返事をする事が出来たのは、その為だった。

あー……その、なんだ。取り敢えず、飯でも食べようか

 言葉に詰まったらしい狼が、視線を狼狽えさせてそう言った。狼としては、未だ呆然とした顔でぽかんと見上げてくる人間の少女を思いやっての事だった。

 ──頭が回ってない状態の優理は、殆ど何も考えないままにこくりと頷いた。狼の言う所の食事がもしかすると自分を指すのではないか、などという考えは、微塵も思い浮かばないまま。

なんだか、ぼーっとしてるけれども……本当に大丈夫なのだろうか?

 腰の抜けた優理をひょいと背に乗せて、狼が向かった先は静かな水辺だった。水には穏やかな流れが存在するものの、澄み渡って青く複雑ながらも美しい色合いを見せている。

 その頃になると少しは落ち着きを取り戻したのか、優理の頭はやっと様々な事を考え始めた。
 ──取り敢えず、この狼は見た目こそ肉食獣だが意志の疎通が可能な上、何故か親切で、しかも自分を食べる気は無いらしい。狼が何故人間の言葉を喋れるのかは分からないが、頭を打って狂った訳ではないと願いたい。あちこちに触れてみたが、頭のどこにも瘤になっていたり、痛みを感じる部分は無かった。

この辺で一番澄んでいる水場だ。人間でも飲めるだろう

あ、はい。どうもありがとうございます……

俺はちょっと飯を捕って来るから、少しここで待っていて。他の動物や魔物が来ても驚いて水の中に落ちないように。君なら大丈夫だから

 狼が力強い口調でそういうので、そういうものかと優理は思わず小さく頷いてしまった。それを見た狼が木々の向こうへと素早く姿を消してから、ふと遅い違和感に気が付く。

……魔物?

 魔物とは、一体何の事なのだろう。
 優理は首を捻り、そうして幼い頃に見たファンタジー映画を思い出し、最後に顔を思い切り蒼褪めさせた。
 魔物──物語等に登場する架空の生物であり、手っ取り早く言うのであれば空想上の化け物の事だ。魔というからには、おそらく凶悪だったり、邪悪であったりするのだろう。

 そこまで考えて、優理は無駄にぎくりと体を強張らせた。
 そろそろと周囲を見渡して、見渡す限りに何も居ない事を確認してほっと息を吐く。

 そのままその場に突っ立っているのも決まりが悪くなり、優理は恐る恐る水際まで歩いて行った。

 水は水底を鮮明に見る事が出来るほど清らかだった。試しにそこへしゃがみ込んで、指先を水面へと触れさせてみる。涼やかな波紋が立つのと共に、キンと冷えた水の温度が伝わってきた。

わぁ……

 飲んでみようかと思うには、優理は現代の価値観に染まり過ぎていた。即ち、人の手が入っていない水はどんなに綺麗に澄んでいようと口にするには汚い、という考えに。
 それでも田舎には縁の無かった優理には、乱立する木々はともかくも自然の中に流れる水の存在は興味深いものだ。無邪気な子供に戻ったように暫く指先を遊ばせていて、そうやって心に余裕が出てくると、ふとある考えが思い浮かぶ。

あれ、……空想上の生き物って、さっきの狼がまさにそれかもしれないじゃない

 そうするとあの狼──普通の狼には無い翼が生えている事から、狼モドキと言った方が良いのかもしれない──は、動物ではなく魔物なのではないだろうか。

なんだ。それならあの狼が言うように、魔物が来ても大丈夫なのかな。もしかすると、狼のように話が出来るのかも……

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