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 午前いっぱいかけた会議が終わり、開発チームは昼食がてら近くのファミレスで休憩を取っていた。先に仕事を済ませるためにチームの半分は本社に戻っていたが、文隆を含む四人はファミレスでまだ粘っていた。休憩の残業と称して。

文隆

難攻不落って感じだったね……

 文隆が率直な感想を漏らす。

老沼

落ちたじゃないですかー

 老沼が笑う。突き抜けるようなオレンジの長髪が揺れる。営業職にあるまじき染髪だが、それこそが彼女の対外的な印象を決めている。上司にもその軽口以外で叱られている様子はない。

藤川

まあ、どっちかっていうと、何とかこじつけたというほうが近いかな

藤川が口を挟む。

田所

うん、しかしね、先方も喜んでくれたみたいだから、御の字ということで良いんじゃないか

 田所(たどころ)がデザートを口に運びながら、藤川に反応する。そうスね、と半ば謝りながら返す藤川。
 厳しい表情をいつも崩さないのは生来の眼つきのせいに過ぎず、田所は口周りを汚しながら、甘味をむしゃむしゃと手を止めずに食べている。そろそろ三十路も半ばを過ぎる頃で、チーム内では最年長である。小学校に上がろうかという娘が二人もいながら、歳不相応な子どもっぽい舌をしていた。チーム内では慕われているというより、可愛がられていた。特に老沼によって。
 今だってそうだ。

老沼

美味しいですか? 田所さん

田所

最高だね。これで午後もやれるよ

老沼

お子さんの分も買ってってあげればいいんじゃないですか? ここ、お持ち帰りメニューありますし

 田所がテーブルの上にある三角錐の紙広告に目をやる。その眼光の鋭さから、睨(ね)め付(つ)けるというほうが正しい形容だ。田所が頬張っているりんごとキャラメルのデザートが、実物より美味しそうに撮られている写真に、とある。夫婦共々甘いモノが苦手な文隆は、こういうものを買って帰ってやることを忘れてしまうのでは、とやや危惧した。

田所

スーパーとかでね、安いやつをごそっと買っていくよ

 そういって田所がニッと笑い、話の矛先は文隆へと向かった。

老沼

タカさんのところの子は、どうなんです?

文隆

どうって……

老沼

元気にしてますかー?

 老沼が語尾を上げて訊いてくる。別に後ろめたいことなどないが、用事でもあるかのようにスマートフォンに眼を落としながら答えた。

文隆

ああ、元気だよ。夜泣きが増えたね

老沼

へえ、子育てしてる感ありますねえ……!

 文隆が視線を上げたのに気付き、

藤川

実際にしてるんだよ

と藤川が笑いながら口を挟んでくれた。さらに田所がゲラゲラと笑ってくれたおかげで、刺が抜けた。彼女とてさして悪意はないのだろう。
 スマートフォンをスリープにして、視線ももう一度落とす。自分の顔が映る。どうってことはない三○手前の男と、ファミレスの煌々とした明かり。

文隆

そろそろ行きましょうか

 文隆の言葉に田所が口を拭いた。いの一番に文隆が立ち上がる。
 会計を待っている最中、無理矢理切り上げたような空気になっていないか、文隆は気にかかっていた。

 その後も開発と営業を行き来しつつ、仕事を片付けているといつの間にか十時を回っていた。藤川が泊まりを決めたので付き合ってやることを決めたところ、

藤川

お前は帰れ

と突き放され、地下鉄の改札をくぐったのが十一時十分前。草臥れた大人の列に紛れて、達成感と疲労感を交互に相手にしながら、次のプレゼンの資料をタブレットでまとめていた。
 終電近くの電車は独特の空気が漂っている。運良く端の席に座れて、手摺に頭をもたげて眼を閉じる。乾いた熱風が細菌を運び、重たい音の咳がどこからともなく聞こえる。気弱そうな声の大学生が同じ抑揚で同じ話題を繰り返している。隣の席の初老の男が広げた週刊誌の端が、頬に突き刺さって痒い。注意しようかという直前になって男は電車を降りた。
 求めていた部署につけてから早二年が経とうとしていた。営業の面白さは予想していた以上のものだったが、疲労もまた倍であった。身体に伸し掛かる塵労が、文隆からじっくりと若さを奪っていく。その感覚こそが大人になるということだと錯覚してきたし、これからもそのつもりで働いていくだろう。芳恵の理解が得られるかという問題と、芳恵を愛しているかという問題は、やや根っこが異なると文隆は考えている。
 芳恵に恨みはない。落ち度はこちらにも見つかる。男の誇りなどというくだらない価値観を振りかざして、芳恵の出産に立ち会わなかったことや、その後のケアを蔑(ないがし)ろにしたことを彼女は今でも許していない。文隆個人を許さないのではなく、その状況に陥った環境的要因のすべてに、彼女がやるせなさを感じているというほうが正しいのかもしれない。どちらにせよ、文隆の動きひとつで是正出来たことはたくさんあったはずだと、気付いた頃にはもう遅かった。
 このままで良いとは思わないが、何も起こらなければそれで良い。まさかこのふたつの気持ちが同居するとは思えなかった。少なくともビジネスにおいて、こんな事案に出会うことはない。
 淑女の教育が身についていながら、あわよくば危うさに我が身を捨てそうになるふらふらとした彼女の自意識に当てられて、この人こそ運命、

 分別が着く。大人になる。仕事を片付ける。妻を愛している。他に何が必要なのか。
 今日もどうせ、ベッドが文隆を襲う。

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