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喜代子

よくある問題じゃん

 喜代子(きよこ)はそういって笑い飛ばしてくれる。では、よくある問題とそんなにはない問題とは何が違うのだろう。どこを境に両者は異なるのだろう。

喜代子

うちのヤツなんて、股間大火傷して、四ヶ月ご無沙汰だったからね。種無くなったんじゃないかって専門医までかかったけど、スッゴい元気だからね。今は。迷惑なぐらい

 どんな外来だよって話だよね、と喜代子は自分で爆笑する。
 報告はないけれど、時間の問題だなと芳恵は感じていた。喜代子の初見ではほとんど読んでもらえない姓の汀(みぎわ)が、太田(おおた)に変わってしまうのが少し寂しかった。世界一仲が良いのではないかと思えるほど、あの二人はよくケンカしている。芳恵はまた落ち着いたワンピースを着ることになるかと思い、心が踊った。
 昼寝から起きてやや不機嫌な眞一郎をなだめすかしながら、溜まった洗濯物を畳む芳恵。肩と耳で挟んで電話を続けながらも、眞一郎からは眼を離さない。くりくりとした眞一郎の眼もまた、芳恵のことをまっすぐ捉えている。幸福が、形をまとって、芳恵の前に座っていた。ぐずらなければ、の話。

喜代子

うちのヤツ、元々小さいの気にしてたのにね、火傷でもっと短くなりゃしないかって言ってね、そんなわけないでしょって言って、めっちゃ笑ったの覚えてるわぁ

芳恵

あ、キヨちゃん、そういう話はさ、一応、いないところで話す感じでいいかな?

 きょとん、という音が聴こえてきて、喜代子が納得する。この歳でも、何を覚えていくかわからない。

喜代子

おっと、ごめんごめん。気付かなくて

芳恵

いや、こっちこそ。そっちからは見えないわけだし

喜代子

気をつけるね、眞ちゃんは元気?

芳恵

元気だよ。夜泣きがスゴいんだもの。その分、昼間に泣いて欲しいわ

喜代子

へえ……大変だね、無理しちゃダメよ

 ぶすっとした表情の眞一郎が、お腹が空いたと芳恵の袖を引っ張る。言葉はそんなに覚えてくれないが、仕草はいちいちあざとくなっていく眞一郎に、芳恵は頬が緩む。ごめんね、酷いお話しちゃって。お母さん悪い子だったね。と口の動きだけで呟く。

喜代子

子どもの眼を気にするのは大変ねえ。私にはまだわからない世界だわぁ

 こういうことを嫌味っぽくなく言える関係こそ親友だと思う。そういった関係性だからこそ、次の言葉が芳恵の心に突き刺さって離れなかった。

喜代子

最近通院してるの?

 不意打ちだった。脊髄反射でカレンダーを見上げる芳恵。赤い丸は、付いていない。めくる必要もない。

芳恵

全然行ってない

 受話器の向こうの親友はきっと眉をひそめたことだろう。

喜代子

説教するつもりはないけど、そろそろ戻って来れなくなると思うよ。ヤバいと思う

芳恵

うん、そうだね。ありがとう。絶対治すから

喜代子

タカさんに言ってあげなよ、それ

芳恵

そうする。じゃあ、そろそろ切るね、話せてよかった

喜代子

そう? わかった。こっちこそ。それじゃまた

 こっちから一方的に切り上げてしまい、式に呼んでね、という冗談まで考えていたのに、話す機会を失くしてしまった。電話を切ると、現実のようなものが芳恵に降りかかった。
 芳恵のなかで、芳恵の問題(アルコホリック)はそれほどタブーではない。マタニティ・ブルーを乗り切った勲章とまで考えていた時期すらある。育児休暇がまるで取れなかった前職の広告代理店をすっぱり辞めてから、いまはモラトリアムの名の下、文隆の脛を齧って生きている。尚且つ彼が強く言わないのを良いことに、平日の昼間から酒気を帯びているのだ。両親が見たら何と言うだろう。新居の間取りの文句まで完璧だった彼らに、今更何を咎められたとて響かないけれど。
 たまに酒を買い足しに隣のスーパーに足を運べば、いつもと同じ顔ぶれの中年女性たちに出会う。十年後は我が身である。凛々しくも疲弊した厚化粧が、芳恵の好きな発泡酒の試飲を配っている。子育てを知り尽くしたその顔が、やけに怖い。
 野菜や果物と同等量の酒類を買い込む主婦の風体をした女に、あの女たちはどんな感想を抱いているのだろう。その感想を、深夜に帰ってきた夫はどんな顔をして聴くのだろう。
 一晩のセックスが何を解決するわけでもなく、そういう方面に問題を摩り替えていくことが危険なのは承知している。買い足したビールとウィスキーを、その足ですべて近所の川に流してしまえばいいということも、頭ではわかっている。では、他にどこで理解すれば気が済むのだろう。頭はそれを知らない。
 黄金色の液体が海へと運ばれていき、どこかの海峡の澱みに辿り着いて、空に舞い上がり、宇宙を泳いで、月の川になる。灰色の惑星を横断する大河が、麦芽の芳醇な香りを、絶えず銀河に漂わせている。

芳恵

私が愚かなのかな、眞一郎

 本当にお腹が空いていたみたいで、眞一郎は母親に届くように大泣きを始める。

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