*

 ――寝覚めが悪い。まるで一睡もしていないかのように、芳恵の身体からは眠気が全く抜けていなかった。
 それでも陽は落ち込んできていて、すでに四時を回ろうかとしていた。昼寝からとうに起きていた眞一郎が控えめに泣いている。
 身体中が怠い。眞一郎の指を掴む。潰れてしまいそうなほど小さい指を掴む。それでも確かに熱は伝わってくる。
 分娩室で激痛に堪えながら眞一郎を産んだ時、何もかもを投げ打たねばならないことを強く理解した。頭ではなく、他のすべての器官でそれを理解したのだ。あの時の呪いにも似た確固たる決意は、日に分けてアルコールの海にばら撒いてしまったのだ。この子を抱きしめると、柔らかなその肌が、私にはまるで返し刺のついた拷問器具のように私の心を傷付けた。
 何度も、何度も非難した。
 とりわけ文隆のことを。まどろみの中でそんなことをぼんやりと考えていた。せめて形だけでも後悔したかったからだ。
 そつなくこなすことは即ち正しさを盾にすることで、芳恵はそれで彼を非難した。非難という言葉はとても便利で、そのニュアンスを罵倒に込めて彼に詰め寄ったとき、そこに芳恵はいなかった。芳恵は、誰も恨んでなどいないことに気付いて、ひとりで焦っていただけだった。
 その焦燥に気付いてくれた後も、文隆は変わらず、彼女が彼女の問題を解決するものと思い込んでいて決して寄り添ってはくれなかった。自分の息子が産まれるというイベントを、他のすべての男たちと同様にしっかりと受け止めた顔をして、今日も明日も十年後も出勤しては帰ってくるだろう。
 芳恵のために泣いてくれるのは、眞一郎だけだった。それを思うと、またあのほろ苦い香りがあたりに漂ってくるのだ。
 ――いま、黄金の川は最澄を迎えている。銀河の木漏れ日を受けてきらきらと光っている。水温も適している。泳ぐにも、浸かるにも、申し分ないぬるさだ。水をすくって顔につける。金色の水滴が頬を伝う。それは涙か。違う、酒だ。鬱というこの世でもっとも崇高な感情で満たされた、月の川だ。
 眞一郎が泣く声がする。祈るように、首をもたげた芳恵が川に顔を浸す。ここから先は、夢の界隈。


   *

 繁忙期にも関わらず珍しくノー残業デーが適用され、久々に定時に帰る文隆は、御告げでも聴いたかのようにケーキを買って帰った。
 単に、田所に

田所

初めてケーキ食べさせたのは二歳になってすぐだねえ。一口食べて一瞬固まってね、スイッチが入ったみたいにバクバク食べ始めたときは可愛かったよ

なんて言われたら、試さずにはいられなくなっただけだった。口に合わなかったら芳恵が消費すればいい。言うほど嫌いでもないだろう。
 ミニサイズの、しかしちゃんとホール型をしたパウンドケーキを駅前で買い、身を切る寒さのなかに出て行く。温かいものにすればよかったかと後悔が過るが、ケーキの魔力の前に寒暖は関係ない。眞一郎がぶくぶくと太らないか、今から心配だった。

 一八時過ぎ。たまには呼び出して出迎えてもらおうかとも思ったが、夕食の用意でもしているところを邪魔するのは忍びないと、いつも通りナンバーを叩いて家に入った。
 夕餉の匂いがしない。店屋物で済ませたのだろうか。手作りを強く期待していたわけではないので構わないのだが、それにしても何だか部屋がひんやりとしていた。
 電気も付いていない。窓の外にいるはずの薄暮が、室内までも覆い隠そうとしている。
 ――あばぅ、あうあぅ。
 ソファーに転がって、口から黄色い液を吐きながら、倒れ込んでいるのは芳恵だった。きつい酒の匂いに気付いたのは彼女のその姿を見てからだった。換気扇がごうごうとうなっている。かばんとケーキを取り落とす。ぐしゃっと嫌な音が出る。眞一郎はベランダのほうで遊んでいる。ストラディヴァラン弐号を固く握りしめながら、ベランダの向こうを探険しようと、懸命に手摺に手を伸ばさんとしていた。文隆の血の気が引いた。

文隆

おい、ダメだ。降りなさい!

 文隆が駆け寄って、むんずと眞一郎を掴み、ベランダから引き剥がす。部屋のなかに入れて、後ろ手に窓を閉める。強く握りすぎたのか、眞一郎は程なくして大声で泣き出した。その泣き声のせいで、状況は文隆のキャパシティを超えようとしていた。

文隆

芳恵、芳恵、起きろ。何してたんだ、お前……!

 グラグラと肩を揺すって、頬を叩いた。金色の川が薄く塗ったチークを剥がしにかかる。さらに強く叩いた。眼を開けない。文隆は彼女の手を取った。脈はあった。

文隆

起きなさい、起きなさい、芳恵!

 眞一郎の大泣きをよそに、芳恵はどこか遠くに行ってしまっていた。文隆は、失望の感情にとらわれまいと必死で、ひたすらに彼女を叩いた。やがて、非難がましく呻き声を漏らした芳恵を見て、安堵が込み上げてきたのと引き換えに、文隆のなかで冷静が根を張り出した。文隆の脚を、後ろから眞一郎がストラディヴァランで叩いていた。
 我々のあいだを、隔てるようにして、最後の西陽が一条差し込んだ。

pagetop