しかも、ちょうどエレベーターが到着したためか、ばっちりこっちを見ているのだ。
 エレベーターのある場所からその椅子までは五メートルほどしかないので、それは驚く。

 俺とルイは素早く視線をかわし、互いに細心の注意を払って足音を立てずに歩いた。

 そのうち、ケージから誰も出てこない(ように見える)のを訝しく思ったのか、問題の警官が立ち上がってこっち来やがった。

 なんて勤勉な人なんだ、ちくしょう!

おかしいな……誰もいないのか?


 すれ違う時、そんな呟きまで聞こえた。

 俺は無視してそのまま静かに――しかし急いで歩いた。急がないと、そろそろステルスの効果時間が切れるからだ。
 あえて振り返りもせずに廊下の突き当たり、つまり501号室がある部屋の前まで移動する。それから初めて振り返ると、ちょうど首を傾げつつ警官が元の椅子に戻るところだった。

脅かしやがって!

こわかったね

 二人してこっそり囁き合う。

 だがまあ、これで何とか病室まで辿り着いたぞ。
 面会謝絶の白い札がドアの横にあったが、ここまで来たら入るしかない。

 俺は、警官がちらちらとエレベーターの方を見ているのを利用し、こちらを見ていない時を見計らい、素早くドアを開けて中へ滑り込んだ。
 さて、これからが本番だ。

 病室の中に入った直後に、俺はステルスを解除した。
 もう一度これを使うには、最低でも数分は時間を空けないと無理だ。
 俺は勝手にチャージ時間と呼んでいるが。

 そして問題の脇坂だが、病室内にいるにはいたが、包帯ぐるぐる巻きに加え、点滴までされて寝そべっている。固く目を閉じているとこを見ると、今は眠っているらしい。


そういや、面会謝絶みたいだしな。三階からとはいえ、ジャンプしたダメージは大きかったか

 あきらめの悪い俺は、そう言いつつも脇坂の肩に手を置いてそっと揺すってみた。

 まさか麻酔を掛けられたわけでもないだろうから、そのうち起きるはずと思ったんだが……これがまた、全然目を覚まさない。
 平和そうな顔で眠っているのを見ていると、段々苛立ってきた。

脇坂も、寝てる場合じゃないだろうに

……もしかして、お医者様が睡眠薬とか飲ませたんじゃないかなぁ

 ルイが、のんびりまったりと言う。

それじゃなくても、何か睡眠作用のある薬とか

ああ、それはあるかもしれない

 俺は少し考え、ちらっとルイを見やる。
 脇坂にはさっぱり注目せず、なぜか熱心に俺の横顔を見つめているルイに頼んでみた。

試しにルイが呼んでみてくれ。インフェクションのギフトは、こういう時にも有効かもしれない

えーっ。でも、この人はお休み中だよ

インフェクションは思想感染とも言うべきギフトだけど、別に思想に限らず、ルイの姿や声を聞いても能力は発揮される。だから、呼びかけは無駄じゃないかもしれない

……いいけど、また後でご褒美くれる?

 何かを期待するように上目遣いで俺を見る。
 無表情に近いのに、この視線の破壊力は抜群だ。インフェクションが唯一効かない俺ですら、なんか怪しい気分になるからな。

ああ、後で可愛がってやるから

 わざとふざけた物言いで頷くと、ルイは俄然、やる気を出した。
 ベッドの隣に立ち、そっと呼びかけを始める。

脇坂さん、脇坂さん


 ……効果は絶大だった。
 たった二言声をかけただけで、脇坂の瞼がぴくりと震え、小さく息を吐く。

 目を開き、ぼんやりとルイを――見ようとしたが、その時にはルイはすかさず部屋の隅に退避していた。実に素早い。
 まあ、ルイのコミュ障は深刻なレベルだからな。

よし、選手交代だ

 俺は近くに置いてあった椅子を引き寄せて座り、脇坂を見下ろした。

脇坂、俺がわかるか?

……リア充の冴島だろ? なんでまた俺のところに?

 憎まれ口を叩く脇坂に、正直俺はほっとした。
 どうやら、今はまともらしい。

リア充に見えるだけだ……まあ、それは置いて。なんでと言われると困るけど、ちょっと訊きたくてな。ていうかおまえ、学校で何があったか覚えてるか?

何がって、そりゃ――

 言いかけ、脇坂は盛大に顔をしかめた……しばらく、暗算でもしているような表情を見せたかと思うと、次の瞬間、見る見るうちに顔が歪む。

 絶望と怒りがないまぜになった、実に苦しそうな表情だった。
 しかも、呼吸まで荒くなっている。

ちくしょうっ。俺は……ただ、抵抗しただけなのにっ。全部あいつが……悪いのにっ……


 急速に呼吸が乱れていたが、それでも切れ切れの呪詛を吐き出す。

なんだってこんな……ちくしょう、気持ち悪いっ。吐きそうだ!

あいつ? あいつって誰だ? おまえが窓から飛び出したのは、誰か他のヤツのせいだって言うのか?

言ったって……どうせ信じてもらえないさっ

 脇坂は暗い目つきで俺を見た。

父さんや母さんだって……全然信じてくれなかった……医者に診せようとした……くらいだ

俺は信じるかもしれないぞ

 脇坂を興奮させないよう、俺は最大限に配慮して静かに言う。

それに、もしもおまえの行動に理由があるなら、知っておきたい

 そこでどうしても我慢できなくなり、俺は眉根を寄せて指摘した。

ていうか、大丈夫なのか、おまえ。なんかいきなりひどい汗かいてるけど

 あと、相変わらず呼吸も荒い。

大丈夫じゃ……ないっ

 
 きっぱりと言われてしまった。

まただ……またっ。ちくしょうっ

おいおい、落ち着けって脇坂!

 ベッドの上で派手に痙攣を起こし始めた脇坂を見て、俺は慌てて手で押さえようとした。

 しかし、その前に脇坂がおぼつかない手つきでワイシャツの袖をまくり、銀色に光るブレスレットを晒した。それを外して俺に渡そうとする。

なんだこれ?

 手に押しつけられたブツを見て、俺は首を傾げてしまう。

 ……例えば、アマゾンにでも売ってそうな安物臭いブレスレットで、特に高価で特殊なものには見えない。そういえば、脇坂がこれを手首に嵌めていたのを見た気がする……今になって思い出したことだが。

 にしても……チャラいし軽いし、大したものには見えない。

これがどうした?

し、調べてくれ……きっとこれのせいで……あ、あっ、ああっ

 途中で脇坂の声が派手に震えた。
 しゃっくりでもするように呻き声がぶつ切りになり、しまいには半身を起こして頭を抱えやがった。しかも、その状態で前後に身体を揺すっている。

やめろやめろやめろやめろやめろ、やめろぉおおおおおおおおーーーーーっ

ば、馬鹿、そんな大声出したら

 焦って止めようとした途端、廊下を駆け足でやってくる音がした。

 当然、脇坂の声を聞いた例の見張り警官だろう。

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