――シーエッグ 椿の部屋――
――シーエッグ 椿の部屋――
シーエッグには大きく分けて三つの施設がある。
一つは学校施設、一つは商業施設、一つは宿泊施設。
シーエッグにある特殊学校に通う生徒達は、全員その宿泊施設を寮代わりにしている。
生徒達の部屋も隣接していることがほとんどで、私の部屋の様子を玉慧が知ったのも彼女の部屋が私の隣であるためだ。
その玉慧からの情報であるならば、誰よりも早い情報だろう。それならまだ間に合う可能性がある。
そう信じて私は走った。
けれど、私が部屋にたどり着いた時、監査の人間は全ての捜索を終えて部屋の外へ出てきたところだった。
……は……はぁっ……
私が息を切らせて立ち止まるその目の前で、彼らは私の部屋の鍵をかけた。マスターキーなのだろう、いくつも似たような鍵がぶら下がっている。
(まさか……薬品に気がつかなかった? そんなはずは――)
私はすぐに笑顔を作り、スーツ姿の男に声をかける。
すみません、私の部屋で何をしてらっしゃったのですか?
――ああ、椿さんですか。
ご不在の際にすみませんが、お部屋を調べさせていただきました。
私共は学校法人の監査官の者です
(それは知ってるんだよ、クソが)
そうなんですか……? でも、どうして
その点についてはお答えできませんが、特に問題なく調査は終わりましたのでどうぞお部屋にお入り下さい
問題なく……
私はただ繰り返す。彼らはそうとだけ言って、いくつかの書類を抱えて去って行った。こちらを振り返ることもなく、それはどう見ても『問題がなかった』際の対応だった。
私は『少々困惑しつつも安心したように部屋へ入る少女』を演じながら、部屋の鍵を開ける。
扉を開けると、いつもと寸分変わりない部屋の風景が広がっていた。
深呼吸した後、後ろ手に部屋の鍵をかける。戻って来た監査官に見られでもしたら、終わりだ。
少しばかり心臓を高鳴らせながらも、私は部屋に置いたドレッサーの引き出しの中身を確かめた。
――っ
ない。
どう見てもない。
慌てて周りを見渡す。どこにもない。入っているはずもないのに他の引き出しも確かめる。
ない。ない。ない。ない。
どこを探しても見当たらなかった。
劇物に指定されている、シアン化合物が入った箱が。
嘘でしょ……
一度は救われたはずの心境が、一気にどん底に落ちた。
まさか、回収されて――
その通り。ちゃんと回収したよ
心臓が跳ねた。
息を止めたまま振り向くと、そこには幸也がいた。
……な、に
ロックの暗証番号は分からなかったけれど、横に手袋が置いてあったからね。
手袋が必要で、誰にも見られないよう厳重にロックをかけなければいけない物と言えば一つだ
言葉の通り、ぽかんとしてしまった。
なんで、それを……?
っていうか、部屋の鍵、かけたのに……なんで入って来てるの
鍵?
パートナーの部屋の合鍵は基本じゃないかな
チャラ、と彼は手にした鍵を見せてくれる。どうやらそれは私の部屋の合鍵らしい。実際こうして鍵を開け、部屋に入って来ているのだから。
な、なんで勝手に合鍵作ってるの!?
最低、最低ッ!!
君ってすぐ忘れるよね。
人のこと殺そうとしたくせに、どうして僕がその『武器』を放っておくと思うの?
……!
そう言われれば、それはその通りだ。また隙を見て飲ませてやろう。そう考えたこともない訳じゃない。
ただ彼の抜け目のなさでは上手く行くとは思わなかったし、せっかく手に入れた毒物はひとまずロックをかけて箱に仕舞われる運命になった。のだけれど。
じゃあ……
『アレ』はあんたが持ってるの……?
うん、そうだよ。
良かったね、監査が入る前に僕が回収しておいて。見つかったら色々ヤバかったでしょ
確かに監査に見つからなくて良かったし、幸也が裏切った訳ではないということは分かった。けれど、そういう問題ではない。
ヤバいのはあんたなんだけど。
勝手に合鍵作って……ストーカー?
私がいない間に部屋を物色してたと思うと寒気がする
安心したからってその言い草はないと思うなぁ。ホッとして泣き崩れるくらいの演技の方がドラマティックでいいと思うね
感情の起伏がない訳ではないのに、彼の声色は常に同じだった。明るく、優しく、穏やかで。
あまりにも場にそぐわない。
ほんとそういうのやめて。気色悪い
何が?
だから……! あんたの存在自体がっ!!
腹の底にたまった煮え湯が、何度も沸騰しているようだった。それを腹に抱えながら私は幸也を部屋から追い出そうとする。
ぐいぐいと押されながらも、幸也はまたにっこりと笑った。
それよりも聞きたいんだけど……
どうして突然監査が入ったと思う?
湯を沸かしていた火が、一瞬にして消える。
ここは特殊学校の寮にあたるから、有事の際には住民の許可がなくとも部屋に入ることは出来る。そういう契約だから――
でも、あくまで有事の際だよね
分かっていた。だから真っ先に幸也を疑った。殺人未遂を、そこまではいかなくとも傷害の件を上に報告したのではないかと。
その結果『有事』と判断されたのではないかと私は思ったのだけれど。それは違った。
ならばどういった経緯か?
思い当たることは一つだけあった。
……君、まさかあの薬品を『何か』で試したりはしていないよね?
――……
完全に言葉を失ってしまう。
この人は、一体どこまで分かってしまうのか。
アタリかぁ。
これじゃ君を賢いと言った言葉は取り消さざるを得ないね。どうしてそんな足がつくようなことをするのかな
……当たりだなんて……私は……
じゃあどうして『人間にどのくらい効くか分からない』なんて言ったの?
僕、気になってたんだよね
そうして私は、全てを諦めた。
この人は私よりも賢く、抜け目なく、行動も速い。何もかもが私よりも上だ。
――私、魚は嫌いなの。
臭いし、ぬるぬるしてる感じもイヤだし、あの目
目?
どこ見てるか分からないのに、こちらを見てる気がするのがイヤ。気持ち悪い
そうなんだ。それならここは地獄だね
本当にそう。海の中で、おまけに施設の中にまで水槽があるなんて、最低
どうりで部屋のスクリーンも地上の風景が投影されてるわけだ
彼は視線を部屋の窓へ投げかける。部屋の窓の向こうは海だが、スクリーンが貼られているので別の風景を投影することが出来た。
だから私は、いつもそこに地上の風景を映していた。
こんなところは嫌い。
海の中に潜って生きるだなんて、魚になりたい奴らは勝手になればいいのよ。
私は地上を歩くの。私は人間なんだから
だから水槽の一つで試したと。
どのくらいの魚が死ぬか
……そうよ。痕跡なんて残してない。
一匹浮き上がってきたのを見てすぐに立ち去ったから、結果も良く分からなかったけど……その水槽からは次の日全ての魚が撤去されてた
程度は分からないけど、影響はあったみたいだね。青酸カリは漁にも使われるくらい魚には覿面だからなぁ
相変わらず人の話の先を読む。説明する必要なんてないと思えてしまうほどだった。
でも……どうして分かったんだろう――
痕跡が残らないようにとあれだけ気を付けたのに、一体どういう経緯で私が疑われたのだろう。
それに水槽で試したのはもう一週間も前のことだ。監査が入るにしてはタイミングが遅すぎる。
あははははは
なっ……何笑ってるの!?
いやー、良かったなと思って
何が!?
もうこれ以上隠し事はないみたいだから、良かったなと思ったんだよ
私は今までにないくらい顔を歪めた。一体この人は何の話をしているのか。
水槽の件、君が怪しいって報告したのは僕だよ。ごめんね
はぁっ!?
驚きのあまり今まで出たことがないような声のトーンになってしまった。
いや、誤解しないでね。
元々先生が疑ってるって言ったでしょ?
それは水槽の魚が死んだせいもあったんだよ。先生は君が魚が嫌いだってことは知っていたから、君を怪しいと言ったんだ
嫌いってだけで?
それだけじゃないかもしれないけど、僕が聞いたのはそれだけだ。
ただ、しこりが残るかもしれないなと思ってね。一度君の部屋を捜索させて、何も出てこなかったら一応疑いは晴れたことになるよね?
唖然とした。つまり全部、幸也は計算尽くだったということだろうか。
それに他に危ない物を隠し持っていたら監査の人が見つけてくれるはずだしね。
僕は女の子の部屋を家探しするなんて向いてないからさ。あははは
なっ……結局そういうことじゃないの!
最低、最低よあんたって!!
私が非難の声を上げると幸也はすっと笑顔の程度を下げて、穏やかな声で答えた。
……ねえこれは、これまで言ったことと同じと思って欲しくないんだけれど。
僕がどうしてここまでするか分かる?
明るく、優しく、穏やかで、時に甘ったるささえもあるような声色は、その時どこかへ行ってしまっていた。
真剣な視線が私を釘付けにし、一歩も動けなくなった。
どうして、って
一つ一つ芽を潰し、君が別の道にそれぬよう先回りをしてるんだ。
君にとっては不快かもしれない。
前にも言ったとおり、それは君自身を犠牲にすることかもしれないね
…………
でも、今さっき君は言ったよね。
僕らは人間だ。
海の中じゃ上手く呼吸が出来ない。
地上を歩き、地上で息をしていたいんだ。
その点僕と君は全くの同意見だよ
とん、と幸也は私の鎖骨の辺りに指を置く。いつの間にか距離が縮まっていたことに驚いたが、視線は外せなかった。
海の中に欠落した僕らのハッピーエンドはない。
だから二人で抜けだそう。
これは僕なりの『愛情表現』だよ、椿
僕は君を信じたいんだ。
君が裏切る全ての可能性を潰して、僕のパートナーでいて欲しい。
君がちょっとくらいミスをしたって僕がカバーしよう。
君が僕のパートナーになってくれるなら、僕はいくらだって寛大になろう。
これって『恋』みたいだと思わない?
――私達には。
恋も愛も分からない。
例えどんな口説き文句があったとしても、私達には理解出来ない言葉の羅列にしか聞こえない。
だからその時私は幸也の言葉に『気持ち悪い』としか答えなかった。
けれどその言葉が口説き文句に聞こえたのは本当に不思議な感覚だった。
恋も愛も分からないのに、私はどうして幸也と手を組むことにしたんだろう?
あちこち欠けているはずなのに、どうして満たされた気分になるのだろう。
私はその後も、ずっとそのことを考え続けることになる。
海面に顔を出して息をするまで、ずっと。
まさかこのような展開になるとは思っていませんでした。続きがとても楽しみです。本当に面白いです。