幸也はそう言って、私の手を叩いた。ペットボトルごと思い切り。
君は僕が思ったよりずっと賢いみたいで嬉しいよ
幸也はそう言って、私の手を叩いた。ペットボトルごと思い切り。
…………幸也さん?
彼が笑っているのは仕方がない。笑うことしか出来ないという不憫なフリークスなのだから。
けれどそれよりも、どうしてだろう。
(なんで平気そうなの?)
渡したお茶には大量のシアン化カリウムを入れた。
その毒物は微量で致死量となり、経口摂取した場合には胃酸と反応しシアン化水素を発生。低酸素症に陥り死亡する。
少々手に入りにくいが、やはり毒殺の代名詞と言えば青酸カリだし、何よりも即効性だ。
事態が分からないままに逝って貰えないと、それはハッピーエンドだなんて言えない。
だからこれは、私なりの気遣いだったのに。
それよりも、ああ失礼――口を濯ぎたいな。さすがに口の中が痛い
呆然としている私を余所に、彼は私のバッグの中からもう一本入れてあったペットボトルを取り出す。
彼が警戒した時には、私もお茶を一緒に飲んで警戒心を解こうと思っていた。
こっちは君用?
それならさすがに何も入ってないかな
ブリッジを切り、蓋を開ける。そして急に私の腕を引き寄せ、ペットボトルを口に押し当ててきた。
っ……!! ごほっ、ごほっ!
逃げる暇もなく、ボトルの中身が私の口の中に注ぎ込まれる。強引に飲まされてむせ返ったが、ただそれだけだ。
こちらは何も入っていないただのお茶なので問題はない。
だが、私は彼のその行動に背筋が冷えた。
大丈夫みたいだね。じゃあちょっと貰うよ
そしてそのお茶で何度も口を濯ぐ。何度も何度も繰り返すが、やはり痛みはあるようで、辛そうに唸っていた。
はぁ……やっぱり口に含むだけでも厳しいな。後で医者に診て貰わないと
口に含むだけ、と彼は独りごちた。ということは一口飲んだように見えたのはただの演技だったのだろう。
(演技――どこから?)
彼は冷静にそのペットボトルの蓋を閉め、さっきまで座っていたベンチに置いた。
そうしてこちらに向き直った顔は、笑顔だからこそ余計に恐ろしく見える。
さて
唇についた水滴を拭うように指の腹で払い、彼はいつもの声で私に問う。
いつもこの調子で『ハッピーエンド』を作っていたの? 椿
つい一歩後ずさりをした。
彼から名前を呼び捨てにされたのも、誰かを怖いと思ったのも、初めてのことだった。
逃げないでよ。僕達パートナーでしょ?
どのみち逃げる場所なんてないよ。
君は賢いから分かるよね
そして転がったもう一つのペットボトルを拾い上げ、その底を確かめる。
目立たないけれど底の方に『仕掛け』がしてあったのか。ブリッジが切れてなければ新品だと思い込むもんなぁ
あまりにも冷静だった。
もう少しで死ぬところだったと分かっているはずなのに、どうしてこうまで冷静なのだろう。
答えは一つ。彼は、予測していたのだ。
……いつ、気付いたの?
ん? 毒入り茶については飲むまで気付かなかったよ。
でも口に含んだ時点でおかしいと思ったから、すぐに服の袖に出したけど
彼はそう言って袖を見せてくれる。わずかに袖は変色し、確かにそのような跡があった。
けれど私が訊きたかったのはそんなことじゃない。
そうじゃなくて
君のその過激な嗜好と思考について?
それも、ついさっき君の口から聞いて初めて知ったよ。ただ……
あの教師からね、一応釘は刺されていたんだ。君の経歴は『怪しい』からとね
その言葉で一気に脱力する。
あのつるっぱげ教師が。とんだくわせ者だ。
これまでは上手く誤魔化してきたのかな。
でもここじゃ他人と接触する機会がそもそも少ないし、誰かの『ハッピーエンド』を演出しようとしても難しいよね。
だからパートナーである僕を相手に選ぶのは、仕方が無いことではあるけれど
相手が悪かったよね。
僕は他人の幸せにも自分の幸せにも格段に気を遣うんだ。そのためには勿論頭もよく使う
幸福が好きだと、このパートナーは言っていた。正直私にとってそれはどうでもいいことだった。だって、どうせ死んじゃうんだから。
ただ、好きな物が同じなら距離も縮めやすい。私を信用し、容易く罠にかかってくれるだろう。その点は扱いやすい相手だった。
そのはずだった。のに。
君が差し入れを持ってくるたびに、その注意深い視線が意図するところを考えたよ。
結論は一つだった。
そのうち『食べ物に何かを入れるつもり』だろうと――だから二人きりのところで手作りの物を食べるつもりはなかったんだけれど
腑に落ちた。彼は私が思っていたよりもずっと頭が良かったし、私を警戒していたのだった。
……嘘つき
君がそれを言うの?
っていうか君、自分の立場を分かってないんじゃないの
…………
僕を殺そうとしたんだからね。
少なくとも――傷害事件沙汰な訳だけれど
べっと赤く腫れ上がった舌を出して見せ、彼はまた笑う。
別に。訴えたければそうしなさいよ。
今までだって適当にもみ消してたんだから。親が勝手に
親が勝手に? 殺人でも?
『まだ』殺したことはなかったし。
だいたい、直接手を下したことなんてない。
ここでは自分でやるしかなかっただけ
そうなんだ、良かった。
さすがに人殺しのパートナーは嫌だからなぁ。せいぜい未遂じゃないと
自分の顔が歪むのが分かる。この人は何を言ってるんだろう。
パートナー……?
なんで不思議そうな顔するかな?
僕達はパートナーでしょ
正気? まだ続けるつもりなの
勿論。君の真意も分かったことだしね。
それに僕、演技が上手い人は好きだよ
そして私は、ようやく以前聞いた瑞留の言葉を理解する。この人は本当に嫌な性格をしている。
冗談でしょ。私はイヤ
吐き捨てるように言う。
すると彼はつかつかと私に歩み寄り、強い力で私の腕を再び掴んだ。
僕がそうしろと言ってるんだよ
動かそうともびくともしない、それ程の力だった。
その力に絡め取られて一歩も動けない。
罠に落ちたのは彼ではなく、私の方だった。
――シーエッグ 椿の部屋――
その後医者にかかった幸也は、いつもの笑顔で私に診断書を突きつけてくれた。
あれだけベラベラと喋っていたくせに、思ったよりも重傷だったようでひどく詰られた。あの顔で。
何なの……選ぶ相手を間違えた……
見た目だけは優しい脅しの言葉を浴びた私がそう呟くと、彼はその顔を愉快そうな表情に変える。
質量保存の法則。
化学が得意なら君も知ってるだろ?
幸せってそういうものじゃないかと僕は思ってるんだ
……は?
つまり、この世界の幸せの総量は決まってるんだよ。誰かが幸せになれば、その分誰かは不幸にならなくては。
全員が幸せなんてあり得ないんだ。
僕は僕の家族の幸せのために犠牲になってきたし、君は僕の幸せのために犠牲になるべきだよ
だって、僕を傷つけたんだからね
ゾッとする。
私はこの人の本質に全く気がついていなかった。
『他人の幸せを好む妙なドM野郎』だなんて思っていたが、間違いだらけだ。
自分の理想と価値観に心酔する、ドSのナルシスト。
また毒を飲ませたければそうするといい。
他にもあの手この手で僕を害してみるのも楽しいかもしれないね。
でも、それ相応の報復はするよ
逆に君が僕に協力してくれるなら、ハッピーエンドは保証しよう。
僕にとっても君にとってもね。
――だから、聡明な君は協力してくれると信じているよ
その異常な自信にもゾッとした。
一方で、私は認めざるを得なかった。
(この人と私は、やっぱりよく似ている……)
私は美しく死んでいくものが好き。
理想の終わりを演出するのが好き。
花を手折るのならば、満開の時でなくては。
そのためなら他のものを犠牲にしても構わないし、究極、私自身が手を汚してもいい。
そして何よりも、私ならば出来るだろうという自信があった。
私ならば殺せる。美しい終わりを演出出来る。そんな自信が――同じ自信を持つ者によって手折られてしまった。
(似てるからこそ、反吐が出る)
私の部屋を出て行った彼の背中を睨み付けながら、思った。
(海の中に閉じ込められて、異常者だと決めつけられ……その私からまだ何か奪おうと言うの)
(『他者愛欠如症候群(アンチラブ・フリークス)』に幸せなんて存在しない。私達はどこまでいっても、欠けたまま)
パートナーにハッピーエンドを与えてあげようと思ったのは、だからこそだった。
不憫で可哀想な、愛を知らない欠落者達。けれどそれも間違いだった。
少なくともあの男は、自分のことを可哀想だなんて思ったことはないのだろう。
ただの一度も。
――シーエッグ 教室――
今日のお弁当も美味しそうだね
呑気に呟いたのは玉慧だった。
昼休みの時間、私と幸也はいつも通りに手作り弁当とお菓子を囲んで昼食を摂る。
彼に言いつけられたことだった。以前と行動や態度を変えないようにと。
そう? どうかな、椿。美味しい?
……うん
けれど同じようになんて無理な話だ。無表情に頷く私に、じわじわと幸也の笑顔が迫る。怖い。
うん?
美味しい、すっごく!
そっか、良かったよ。
和食はあまり作らないから自信がなかったんだ。今日は味見も出来なかったし
あれ? そう言えばあんたは食べてないんだね。なんで?
私に食べさせてばかりで、自分では箸をつけようとしない幸也に玉慧が尋ねる。
私は理由を知っているのでわずかに汗が出る。
ちょっと口の中を怪我しちゃってね。それと、軽い用心かな……。
でも後で食べるから大丈夫だよ、心配してくれてありがとう
い、いや……私は別に……
っていうかいつの間にか呼び捨てになってるし、仲いいね
玉慧らしい言い分だ。何も知らず、人を疑うこともしないからそんなことを言う。
私はこの子が嫌いじゃないが、愚かだとは思う。
そうかな?
……そうだ、椿も僕のこと呼び捨てにしてくれる?
はぁ?
――椿?
……………………
幸也
嬉しいなぁ
……なんか椿、ちょっと性格変わった?
これがパートナーの効果って感じかな
……ため息が出そうだった。
玉慧は愚かだし、鈍い。
――シーエッグ 水槽前――
『先生』と幸也が話しているところを見たのは、その日の放課後のことだった。
――なるほど。そういうことだったか
先生は幸也の話に深刻そうに頷いている。
まるで内緒話でもするように、水槽の影に隠れて二人は話していた。
まるで、ではないのかもしれない。
はい。そちらで何かご要望があれば調べておきますが
いや、いいよ。ともかく私が言うのもなんだが、重々気を付けて
分かりました
(……めんどくさ)
足音を消して近くに潜んだ私は、苛立って爪を噛んだ。
幸也は先生から釘を刺されたと言っていた。教師であれば当然ここに来るまでの私の経歴も知っているだろう。親がもみ消してはいるが、多少は耳に入っているはずだ。
『たまたま自殺の現場に居合わせたことがある』とか、『違法な物をどこからか入手したことがある』とか。
でなければ私が怪しいという言葉は出ない。
爪を噛む癖はやめたほうがいいね
あっさりと私の居場所を見つけ、幸也は私の手を掴む。噛んだ親指の爪はわずかに欠けていた。
あんたに関係ないでしょ
関係あるよ。パートナーだからね
うざ
そういう喋り方も好きじゃないな。
前と同じようにとは言わないけど……乱暴な言葉遣いは良くないよ
また脅す気なの?
私に勝手な理想像を押し付けないで
君が見せてくれたんじゃないか。
可愛くて、素直で、少し抜けているけど涙もろい、お菓子作りが好きなパートナー。
そんな理想像に君がなってくれるはずだったんだけれど?
……演技だって分かってるくせに、何の嫌がらせ?
だいたい今、先生にチクってたんでしょ
チクる? ――ああ、報告してたってこと?
それなら君の勘違いだよ。
君は僕のパートナーだって言ったよね。
パートナーを突き出すような真似はしないよ
私は眉間に皺を寄せる。
では一体何を、と尋ねようとしたその時だった。
制服のポケットからメロディが流れ出す。携帯電話の着信音だった。
電話かな? どうぞ
……っ
余裕の表情に苛立ちながら液晶画面を確認する。すると表示には玉慧とあった。
(……玉慧? 珍しい。普段はあまりかけてこないのに)
気になってその電話を取る。
すると電話越しに慌てた声が響いた。
椿! あんた何したの?
あんたの部屋に知らないおっさん達が一杯来てるよ
え
すぐに戻っておいでよ。
一応止めたんだけどさ、『カンサ』がどうのって言われて全然聞いてくれなかったんだ。
あれ学校の人なのかな?
よく分かんないんだけど
監査。
すぐさまその電話を切って私は走り出した。
(ヤバい)
部屋には幸也に飲ませたシアン化カリウムがまだそのまま残っていた。あれが見つかると面倒なことになる。
(あいつ)
私は幸也を置いて走り出したものの、その脳裏には彼の笑顔が過ぎっていた。
(監査に連絡した?
パートナーを突き出したりしないなんて言ったくせに――
どこからが嘘? どこまでが嘘)
(ああもう、分からない)
巨大水槽の間を駆け抜ける。
ひた走る私の足音は、水に溶けるように響かず消えた。