Ⅸ 怪異との遭遇

放課後の教室で、フェリシアとベティは向かい合っていた。
クラーク先生失踪の噂を聞いたベティは、その日からずっとふさぎこみ、ほとんど食事も採らなくなった。

ベティ、一体どうしたっていうの?たしかにあなたがクラーク先生を慕っていたのはしているわ。でも、そのせいであなたがこうしてやつれてしまっては、クラーク先生も浮かばれないわよ

違うの、そうじゃないのよ、フェリシア。私は、恐ろしいことをしてしまったの……

なんなの?

話せないわ。きっとあなたまで不幸にしてしまうもの……

雨が打ちつけるように窓を叩き、風が悲鳴のような音を立てて校舎を取り巻いていた。嵐は夜が更けるにつれ激しくなり、空はすべてを吸い込むような、地獄めいた暗黒に染まっていた。

ベティ、落ち着くんだ

突然、背後から声が聞こえた。
振り向いた二人の前にいたのは、ウィルフレッドだった。

ウィルフレッド……私、怖いわ……

大丈夫だよ……クラーク先生は、ずっと『死霊秘法(ネクロノミコン)』のことを追っていた。だから消されても仕方ないんだ。僕らは手を引いただろう?だから大丈夫

大丈夫、それはウィルフレッドの口癖だ。
その言葉を繰り返す時、彼が本当は不安なのも、フェリシアには分かっていた。

ねぇ、そろそろ教えてくれない?『死霊秘法(ネクロノミコン)』のことを調べてはいけないのは、どうして?実は私の父は、その書物について調べている最中に失踪したの

ああ、フェリシア……僕の叔父もそうなんだ。この学園の大学部――ミスカトニック大学の図書館には、特別な資料として『死霊秘法(ネクロノミコン)』が所蔵されている。だが、あの本を閲覧したり、深く調べようとした人物は、みんな途中で姿を消してしまうんだよ。だから、手を引くことが大切なんだ

なんですって……

フェリシアはすっかり青ざめていた。
様子がおかしいことに気づいたウィルフレッドは、フェリシアをきつく抱きしめる。

どうしたんだ。震えなくても良いよ、フェリシア

二人を前に、ベティはおもむろに語り出す。

私……何日か前に図書館で読んでしまったの……『死霊秘法(ネクロノミコン)』を

……ベティ?……なんだって……

私は、『死霊秘法(ネクロノミコン)』を読んでしまったの……

そんな馬鹿な。『死霊秘法(ネクロノミコン)』は1928年のダンウィッチの怪事件以降、警備が厳重な制限図書保管庫に移された。閲覧の許可が下りるわけがない

たしかに、学生だけで閲覧申請をしてもはねつけられるだけだわ。だから私は、クラーク先生を利用したの。クラーク先生にどうしても読みたいと頼み込んだのよ

嘘でしょう?あの厳しいクラーク先生が、あなたに?

ええ。あの堅物のクソジジイ!たしかに最初は渋ってたわ。でもね、私が仔猫を助けた事件、あれで私が度胸のある奴だってことはわかってくれてたみたい。それに私の親は銀行家だから、学園に多額の寄付をするとちらつかせたの。あとは簡単。にんじんを前にして、食いつかない馬はいないわよ

ああ、なんてことだ、ベティ。すぐに忘れるんだ。大丈夫。すぐに忘れよう

 翳る教室の中で、三人は震えていた。外には漆黒の闇が広がり、激しい雨が降っている。

もう手遅れよ、ウィルフレッド。死霊秘法には、邪教の神々の召喚法や、恐ろしい呪文について書かれていたの。それはフェリシアのお父様やあなたの叔父様の失踪にも関係しているのよ……そして私は、その呪文を唱えてしまった……

 突然、ストロボのような激しい光が窓を照らした。その瞬間、窓に大きな影が映る。

それは明らかに、人間の理解を超える、未知の生き物の姿形をしていた。
ドンッ……バリバリッ……!
大きな雷鳴が響き、屋敷の近くに稲光が落ちる。
地獄が姿を現したような、ひどく大きな音だった。

何十分かの後、ようやく騒音は止んだ。
教室にあった机は粉々になり、カーテンはズタズタに切り裂かれ、人間は影も形もなくなっていた。

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