この学校の閉架書庫は、地下に設けられていた。淡香も図書委員になってから、入ったことはわずかに一度か二度くらいだ。
 図書室の奥には、鍵の掛かった扉があって、扉の向こうに地下にだけつながる階段と踊り場がある。そこに書庫につながるエレベーターもあるのだ。

 閉架書庫の割り振りを終えた淡香達は、扉を開けて向こう側へと足を踏み出す。

 扉を開けると、夏の蒸し暑い風が一気に吹き込んできた。それでも、どこかひんやりとしている不思議な感覚がある。

うわ、ここにくるのひっさしぶりだな

 淡香の隣を歩いていた空が、天井を見上げながら感慨深げに口を開いた。淡香も同じ意見だったので、空の言葉にうなずく。
 窓が階段の踊り場にしかないので、この空間はどこか薄暗かった。淡香達は階段を地下へ向けて下りていく。

 地下まで下りていくと、重厚な雰囲気が漂う、鉄製の扉にむかえられた。両開きの扉は、もう鍵が開けられていて、中の様子が見える。

 びっしりと並んだ本棚。まず目に入るのはそれだろう。
 閉架書庫が並ぶ地下は、壁が石と煉瓦でできている。かつて何かで使われていたのだろうか、ここだけ古い建物だという印象を与えるのだ。

 その中に置かれたスチール製の本棚と、びっしり並べられた本は、どこかちぐはぐにも感じられた。

久しぶりだからどこか分からなくなっちゃうわ。えーと、私達は……こっちね

 先頭を歩いていた紅子は、書庫につけられた番号を確認しながら、奥へと歩いていった。淡香達も迷うまいとついていく。

ここか

 番号を見上げて、青藍がつぶやいた。彼はてきぱきと持っていたパソコンを近くにあった作業机に置き、準備をしていく。

それじゃあ、私たちは向こうの棚をやってくるわね

はい、お願いします

 紅子達は本棚の向こうへと消えていく。準備を終えた青藍が立ち上がって、淡香を見てきた。

さて、始めるか

はい

 淡香もうなずいて、渡されたバーコードリーダーを手に取った。
 二人はそのまま、もくもくと蔵書点検を行っていく。

 蔵書点検は、思ったよりも順調に進んだ。
 開架書庫と違って、限られた人しか入れないからだろう。本があちこちに散らばることがなく、すいすいと進められるのだ。
 淡香も作業に慣れてきて、まごつくことが少なくなったこともあるだろう。

 閉架書庫は、本当に静かだった。開架書庫も静かだが、それでも集まった生徒達のざわめきが隠されているようにも感じられる。

 閉架書庫は芯から静かで、静けさがひんやりとした冷気を作り出しているようにも思えた。

 ふと隣へ目を向けると、本を抱えてきた青藍と目があった。
 青藍は一瞬動きを止めたが、特に気にすることなく、本を積み重ねていく。
 そして淡香がバーコードを読みとった本を一冊一冊手に取り、中をぱらぱら見てから腕に抱えていた。

本文が喰われた本、あると思いますか?

 青藍たちから詳しいことを聞いた今、彼の行動の意味もしっかりと分かるようになっていた。
 淡香の問いかけに、顔を上げてふと考え込む仕草をみせる。

どうだろう。今のところ、こう、嫌な感じはしないけどな。でも……

 青藍はふと顔を上げて、閉架書庫の奥へと目を向ける。書庫の奥は、棚がずらりと並び、最奥が見えなくなっていた。
 まるで、吸い込まれるかのような錯覚を覚える。

前に妖怪に会った時、何となくだけど、まだこの妖怪は本を喰うんじゃないかと思ったんだよね

……そうなんですか……

なんだろうな。飢えている感じ、かな?

 青藍は前に妖怪に会った時の感覚を思い出しているのだろうか、視線をさまよわせながら首を傾けている。
 青藍はひとりで考えて納得したのか、その後は何も言わずに本を抱えて棚へと戻っていった。

 淡香は青藍の背中を見つめていた。
 見られているのを感じているのかいないのか、青藍は無表情で本を戻していた。

 青藍が妖怪と会った時、どういう想いを抱いたのだろうか。彼の背中からは、何の想いも伝わってこないままだ。
 ぼやぼやしていると次の本が来てしまう。淡香は慌てて、バーコードを読みとる作業に戻っていった。

 二人が蔵書点検を終えて、菖蒲たちがいる入り口付近へと戻ると、すでに何人かが蔵書点検を終えていた。

お疲れさま

 青藍たちを見て、菖蒲が軽く手を挙げる。そして机の上にあったパソコンに触れた。

反田班は終わり……と

無かった本はありましたか?

ちょっと待ってね

 菖蒲はパソコンを軽快に操作させて、青藍たちが読みとったデータを反映させているようだ。

あー……いくつかあるわね。まだ他の棚の結果を待たないと確定的なことは言えないけれど

 菖蒲はそう言いながら、パソコンをくるりと回して、淡香たちに見せてくれる。

 淡香たちが担当していた棚から、いくつか見通しのない本が出てきていた。
 どこか他の棚に紛れているのであれば、リストから消えるかもしれないが、閉架書庫だとその可能性も低いだろう。

お、いたいた

 二人で顔をつき合わせてリストを眺めていると、後ろから紅子たちの声が聞こえてきた。

せんせーい、終わりましたー

小美野たちも終わりね。お疲れさま

そうそう、先生、ありましたよ

 紅子は明るい声のまま、一冊の本を菖蒲の前に置いた。菖蒲は顔を少し強ばらせて、本の頁をめくる。
 予想はできていたが、めくられた本の頁は真っ白だった。
 古びた紙だけが見えて、奇妙な印象を与えてくる。

ふうむ。これで『いる』ことは決定的ね

 菖蒲はあごに手を当てた。淡香たちも何か聞きたいことがあったのだが、他の生徒たちも続々と戻ってくるので、話をするどころでは無くなったのだ。

 二人は邪魔にならないように壁際に寄りながら、菖蒲たちの様子を見ていた。
 閉架書庫の入り口付近は、少しスペースがあり、菖蒲たちが機材を持ち込んで作業をしている。

 奥に見えるのは、ずらりと同じ間隔で並ぶ無機質な本棚。
 威圧感を与えるが、逆に菖蒲たちがいる入り口前の空間をまっさらに見せていた。

やっぱりいるんですね

 淡香がぼそりと問いかけると、青藍はちらりと横目で淡香を見てきた。

……そうだね

どこにいるんでしょうか……

まあ、この下だろうね

 青藍は指で、床の下を指さした。
 この下というのは、下の閉架書庫のことだ。下の書庫は貸し出し禁止の本ばかりで、学生がこの本の閲覧を申請することは滅多にない。
 今回の蔵書点検でも点検されない場所なのだ。

 菖蒲はすべての蔵書点検のデータを入力したらしい。
 近くにいた図書委員長と千草を読んで、なにやら話している。
 やがて、図書委員長がひとつうなずくと、入り口あたりに戻ってきていた図書委員を集めた。

「お疲れさまでした。蔵書点検の結果、やはり見つからない本があるので、手分けして探そうと想います」

 委員長はそう話すと、てきぱきと班と探す棚を分け始めた。
 青藍たちは最後まで名前を呼ばれないまま、その場に残っている。

 図書委員達がそれぞれ受け持ちの場所に散っていくのを見ていると、立ち上がった菖蒲と千草が、近づいてきた。

さて、あなた達は、私たちと一緒に下に行きましょう

はい

 青藍がぐっと息を呑み込んだのが分かる。淡香も自然と緊張しながら、うなずいた。

 下の階の閉架書庫に下りてからの担当分けを軽く決め、淡香達は閉架書庫の外へと出る。
 廊下の奥にある、下の階への階段を下りていき、もうひとつの閉架書庫の前に立った。

 先を歩いていた菖蒲が、扉の前で止まった。腰に手を当てて、第二閉架書庫と書かれた扉を見上げる。

さて、いきますか

 菖蒲も妖怪、あるいは書庫に何かしら思うところがあるのだろう。一声かけると、ぐっと書庫の扉を押し開ける。

 真っ暗な部屋の中に、わずかに本棚の片鱗が見える。菖蒲が部屋の中に消えて、それからすぐに部屋の灯りが点けられた。

 ぱっと蛍光灯の灯りが点いて、無機質なスチールの棚が浮かび上がった。
 壁は同じ煉瓦のもので、見た目だけだと、上の閉架書庫とそんなに変わらない。

さて。気をつけてね。何かあったらすぐに呼ぶこと。良い?

 千草が柔らかく、だがはっきりと注意事項を告げる。淡香達は神妙にうなずいた。

こっちだ

 青藍は棚の上に貼ってある番号を見上げて確かめると、さっさと奥へ歩いていった。淡香も慌てて後を追いかける。

 下の第二閉架書庫もしんとした静けさが広がっていた。静けさの底に、不気味な薄暗いなにかが広がっている気もする。
 はじめは聞こえていた他の皆の靴音も途中から聞こえなくなっていた。時折、かつん、という音が聞こえてびっくりしてしまう。どこからか音を反響しているのだろうか。

 最初は妖怪がいるかもしれないということにびくびくしていたが、少しずつこの景色にも慣れてきた。

 斜め前を歩く青藍の横顔は、相変わらず厳しいままだ。前に妖怪に会った時は、どこで会ったのだろうか。

 棚に並ぶ本は、分厚くて大きな本が多い。背表紙の下部分には、貸出禁止マークのシールが貼られている。

本当にいるんでしょうか……。こんなに広いなら、私たちも分かれて探すべきでしょうか

 あまりの静けさに、何か口にしていないと落ち着かない。
 こんなに広い場所であるし、さらに手分けして探すべきではないだろうか、と思ったことが、するりと口からこぼれ出ていた。

 いままでぴりぴりと気を張っていた青藍の動きがぴたりと止まる。彼はゆっくりと振り返った。

……本当に、そう思うの?

 青藍の表情は、最初の頃に見た冷たさを持つものだった。
 何か怒りに触れてしまったらしい。淡香は思わず首をすくめる。

……すいません

ったく、のんきなんだから

 ぽつりと小さくこぼして、青藍はまた歩き出してしまった。
 せっかく仲良くなれたのに、また距離ができてしまったのだろうか。
 うつむいて、ぐっと何かがあふれ出そうになるのをこらえた。
 今はまだ、耐えなければだめだ。今はまだ、蔵書点検の途中なのだから。

 淡香がぐっと何かに耐えて顔を上げた時、ふと視界の端にふわりと浮かぶ何かが見えた。

……なんだろう?

……?

 周りのことを意識しすぎて、幻覚が見えてしまったのだろうか。そうかもしれない。思い直した時、ちらりと目に何かが入った。

 本だ。
 本が宙に浮かんでいる。
 最初は見たものが信じられなくて目を何度も瞬いたが、やはり本が浮かんでいる光景が消えることはなく、浮かんでいた。

え、なんで……

 何で本が浮かんでいるのだろう。誰かが本を持っているような様子は見られないので、完全に本が浮かんでいるように思える。
 思わず足がふらふらと本がある方へ動いていた。
 本には何かしかけがあるようでもなく、普通にふらふらと浮かんでいた。

 これが妖怪の仕業なのか、と思った瞬間、本が急に動き出したのだ。

えっ?

 勢いを付けて動き出した本に、淡香の思考も足も止まってしまう。
 その時、ぐいと右腕を強く引かれた。そのまま体もぐらりと動く。
 今まで淡香がいた場所を本が勢いよくすり抜けていった。間一髪だ。

だから言ったでしょ

 腕を掴んで引っ張ったのは、青藍だったのだ。
 彼の手はすぐにぱっと離れていった。思ったよりも熱い手のひらの温度が、腕に残っている気がする。

……すいません

 青藍のことばはもっともなもので、淡香は立ち上がりながらも謝ることしかできなかった。
 もし青藍と別行動をして、今の現象におそわれたら、きっと動けずに顔に勢いよく本がぶつかっていたかもしれない。

どっかひねったりはしてない?

 青藍はふと淡香を見下ろして、ぽつりとつぶやいた。いつもの冷たい表情に、少しだけ淡香を気遣うような色が浮かんでいる。

だ、大丈夫です

 淡香は答えながら、足首をたしかめた。今のところ、特にひねったとかは無さそうだった。

 青藍はふうと息を吐くと、本が飛んでいった方向へと首をめぐらせた。
 淡香も目を向けるが、浮かんでいた本はもう見あたらなかった。どこへ飛んでいったのだろうか。

前もあったんだ。どっかで俺たちのことを見ていて、ああやって本を投げつけてくる。気を付けて

……はい

 青藍は本が飛んでいった方向を見据えながら、目を細める。敵を見定めてやろうと思っているのだろうか。

一体、どうやって操ってるんでしょうか……

 淡香の疑問に、青藍は短くさあな、とだけ答える。目的を見つけられなかったのか、ゆっくりと淡香を振り返った。

どうやって本を操っているのか、それは俺にも分からない。ただ、本をあやつって、手元に引き寄せているみたいでね。だからたぶん、あっちにいるんだと思う

 青藍は少しだけ自信なさげに言いながら、本が消えていった方向を指さした。
 青藍が自信が無いのも、なんとなく分かる。本が浮かんでいることさえ信じられないのに、今は本が浮かんでいた形跡さえ残っていないのだ。
 幻だったのではないか、とさえ思ってしまう。

行ってみます?

 淡香の問いかけに、青藍は、そうだなとひとつ頷いていた。二人はおそるおそる、本が消えていった方角へと歩き出す。

 いくつかの棚を横切りながら周囲を見回すが、何も見られない。
 あの本はどこへ行ってしまったのだろうか。しっかりとした上製本で、辞書のように厚みもあったのに、それがふわりと消えてしまうものなのだろうか。

 淡香が疑問に感じながらも、本棚からそっと顔を出しながら、列をのぞき込む。
 その時、再び浮かんでいる本を見つけた。
 棚と棚の間に、まるで誰かが本を持っているかのように浮かんでいる本。

先輩!

 淡香が思わず声を上げると、それに呼応するかのように本が動き出した。
 呼ばれた青藍が淡香の隣に並んだ。
 ズボンのポケットから手帳を取り出したかと思うと、素早く呪符を出して、投げつけた。

 呪符はまっすぐに本へと向かっていたはずだったのだが、呪符が本に張り付く直前に、すっと本が動いて呪符を避けてしまう。
 青藍が今まで投げた呪符は、全てきれいに狙った物へ吸い込まれていったので、はずれたことに驚いてしまった。

ちっ!

 青藍は舌打ちをひとつすると、また呪符を取り出した。
 そんな中、本がくるりと回転したかと思うと、淡香達に向かって、勢いよく飛んできた。淡香はとっさにしゃがみ込んで本を避ける。

 頭上を本が通り過ぎていく。勢いがついているので、風が巻き起こっていた。

 通り過ぎた本を追いかけて振り返ると、本が棚の向こうへ消えていこうとしていた。
 棚に身を隠していた青藍が、呪符を投げつけようとする。その時、勢いをつけて動いていた本が、急に動きを止めたのだ。

 ぐるりとその場で一回転し、さらに向きを変える。まるで淡香達を笑っているかのような動きだ。
  向きを変えたまま、本はどこか遠くに消えていこうとする。

させるか!

 青藍は叫びながら呪符を投げつけた。
 だが今度もするりと避けられてしまい、そのまま本は消えてしまう。

 風を残して本が去ってしまうと、むなしい静寂だけが残った。

あー……、いなくなっちゃいましたね

向こうの力が強いんだ。あと少しだったのに

 青藍は呪符が消えていった方向を見据えて、悔しそうに低くつぶやく。

 静寂が戻って少しすると、今度はばたばたと足音が聞こえてきた。

反田?

 声の主は千草だった。
 どこかで淡香達の話を聞きつけたのだろう、足音は近づき、すぐに千草と菖蒲が姿を見せる。

どうした? 何か大きな音が聞こえたが……。大丈夫か?

はい。先生、出ましたよ

 青藍が宙に浮かんでいた本の話をすると、いつも穏やかな千草の表情が、厳しいものへと変わっていった。

そうか……

 彼は低くつぶやくと、手にしていた呪符をひらりとかざした。

痕跡ぐらいは見つけられるかもしれん

 千草はそう言って、呪符をひらりと宙に飛ばした。
 淡香も見たことのない文字が書かれている呪符は、どんな効果があるものなのだろう。

 呪符は、風のない部屋の中、まるで風にさらわれているかのように、ひらひらと飛んでいた。
 やがて、本棚と本棚の間に半透明の文字のようなものが浮かび上がってくる。
 文字はまるで帯のように列を成していた。

これは……

 ふわりと浮かんでいた呪符は、半透明の文字をいくつか浮かび上がらせると、溶けるように消えていった。
 青藍がかすかに驚いた表情で、宙に浮かぶ文字を眺めている。

きっと、本を動かしている術のなごりね。すぐに消えちゃうから、さっさと追わないと

菖蒲はそう言いながらも、早くも足を動かしていた。颯爽と歩いて本棚の向こうへと消えていく。
 千草も菖蒲の後を追って、本棚の向こうへと消えていった。

俺たちも行くか

 青藍がぽつりと言う言葉に、否があるわけはない。
 淡香もはい、とひとつ頷こうとした、その時だった。

 ここから少し離れた、おそらく紅子達がいるであろう場所から、大きな音と、叫び声が聞こえてきたのだ。

わっ

きゃっ、何っ!

 空と紅子が驚いている声が聞こえた。声を聞いてすぐに、本棚の向こうに消えていった千草が戻ってくる。

くそっ、こう広いと困るな

 彼はそう言いながら、紅子達がいるだろう方向へ、走っていく。
 千草と一緒に一度戻ってきた菖蒲が、腰に手を当てて淡香たちの前に立っていた。

あっちは、千草に任せましょう。私たちまで行ったところで、何をされるか分からないわ

 菖蒲の言うことはもっともだった。
 この閉架書庫にはあきらかに異質の何かがいて、そして淡香たちを妨害しようとしているのだ。
 紅子たちと合流したところで、何をされるかは分からない。

まったく。図書室の主ぶってるのか何だか知らないけど、大事な本ばかり駄目にして。冗談じゃないわ

 菖蒲はふん、と鼻を鳴らすと、まだうっすらと残っている半透明の文字を追って、奥へと向かっていった。
淡香たちも文字を追って、本棚の間を進んでいく。

 術が消えていっているのだろう、少しずつ文字が消えていっている。文字は全て漢字だった。
 本文を喰う妖怪とは、どういうものなのだろうか。
 文字は閉架書庫のことを勝手知ったるとばかりに、本棚の間をあちらこちらへと進んでいくのだ。

 辞典の棚を過ぎ、論文の棚を越え、淡香も見たことがない古書の棚を通り過ぎる。
 本当にこの文字の先が妖怪につながっているのか、少しずつ不安になってきた。

 淡香の前でふらりと揺れる半透明の文字。その文字が、ふいに折れるかのように消えていく。

……ん?

 今まで追ってきたときは、自然と薄れるように消えていった文字が、不自然に消えたことに、首を傾げていた。

 どうして不自然に消えていったのだろうか。淡香には理由が分からないままだ。気になったままではいられないと、思わず手を伸ばす。

 不自然に消えた文字のあたりに手が伸びた。そう思った時、ふいに何者かが淡香の手を掴んだのだ。

えっ?

 驚きの声があがる。
 なにも無かった空間に、白い手が現れていた。
 掴まれた腕は冷たくて、背に冷たいものがはしる。

 ぐいと掴んだ手は、とても強い力で淡香を引っ張った。あまりの強さに床に転び、引きずられていく。

 転んだ時に立てられた物音に気が付いたのだろう、先を歩いていた青藍が淡香を振り返った。

せんぱいっ……!

 青藍の目が丸くなるのが分かった。
 淡香は泣きそうになりながらも、必死の思いで青藍を呼ぶ。その間にも体は引きずられていく。

 青藍は駆け寄ってきて、すぐに肩を掴んでくれた。
 それでも、ひきずる力は強くておさまりそうもない。
 ずるりずるりと引きずられていく体。腕をふりほどこうと必死に動かすのだが、びくともしないのだ。

くそっ!

 耳元で青藍の声が聞こえたかと思うと、ぐいと腰を掴まれた。
 腕をつかむ何か冷たい手とは違って、体温の熱さがある。その熱さに、心がどきりと震えた。

 腰を掴んだ青藍は、もう片方の手に呪符を持っていた。呪符を掴んでいる腕に張り付ける。
 呪符を張り付けられた途端、白い手が震えるのが分かった。そしてすっと、白い手が淡香から離れていく。

逃がすかよっ!

 青藍はようやく掴んだ手がかりを逃すまいと、さらに呪符を投げつけた。

 ちらりと見えた呪符は、その場で爆発して妖怪の動きを封じさせるものだ。
 まっすぐに飛んだ呪符。だが消えたように見えた白い手がまた現れて、呪符をはじき返していた。

えっ

 淡香が驚く前で、呪符はくるりとひるがえった。そして勢いをつけて二人の近くへ飛んでくる。

ッ?

 爆発するか、そう思った時、青藍達の横をするりと抜けて、青藍のすぐ後ろで呪符は爆発していた。

 呪符の効果は、実際のものを爆発するなどはない。
 だが、勢いを付けられての爆発に、本棚の本がぐらりと揺れて、落ちてくる。

う、わっ!

 青藍は淡香を抱えたまま、慌てて崩れ落ちる本から逃れた。
 いくつもの本がどさりと落ちていって、もうもうと埃が舞い上がった。視界が埃で見えなくなる。

反田?

 本棚の向こうで、音に気が付いた菖蒲が声を掛けてきた。

大丈夫? 何、この埃

 すぐ近くまで来ているらしい。埃にむせている音が聞こえてくる。

大丈夫です! 先生、そこは呪符が飛んでくるので離れてください!

……分かったわ、隣の棚から追いかける。何かあったらすぐに呼ぶのよ!

はい!

 菖蒲は少しためらった後に、そう声を掛けてきた。
 すぐにその場から離れる音がする。青藍も淡香から手を離して、すぐに立ち上がった。

 淡香が前に視線を向けると、白い手は見えたり消えたりしながら、奥へと消えていった。
 慌てているのだろうか、時々手の先の何かも見える。着物の端のようにも見えた。

 青藍が見つけた手がかりを逃がすまい、と白い手を追って走り出す。淡香も追いかけなければ、と立ち上がって青藍のあとを追いかけた。

 妖怪は呪符が飛んでくるのをおそれているのか、何度も角を曲がっては奥へと消えていく。
 青藍達も何度も角を曲がりながら、必死に食いつく。

 追いかけながら、青藍がちらりと淡香に目を向けてきた。彼は片方の手に呪符を持ち、ひらひらとふって合図してくる。
 一緒に投げろということか。淡香も頷いて、ポケットから呪符を取り出した。

あの角を曲がったら投げるぞ

はい

 青藍が低くつぶやいてくるのに、淡香も頷く。
 そして、妖怪は本棚の角を直角に曲がっていった。
 青藍達も角を曲がり、ふたりで同時に呪符を投げつける。

 淡香が投げた呪符は、途中で青藍が投げた呪符とくっついて、そして一緒になって妖怪へと向かっていった。

 今度は跳ね返されることもなく、妖怪にがっしりと張り付いていく。

ぐっ……?

 今まで気配もなかった妖怪から、初めてうめき声のようなものが聞こえてきた。
 こうして聞いてみると、まるで人の声のようにも感じられる。
 透けたり見えたりする手が、はじめてはっきりとその姿を現した。手だけではなく、手から先も姿を見せる。

 一体どんな姿をしているのかと思った妖怪は、狩衣姿の男のものだった。
 どこか歴史書から抜け出してきたような感覚を覚える。
 人外の、得体のしれない何かだったらどうしようと思っていたところだったので、ひとまず見た目はまともであることに、ほっとした。

 青藍が淡香の半歩前に並ぶ。男をにらみつけた。

あんたが、図書室の本を喰っていたのか?

 青藍の問いかけに、男はわずかに表情を動かした。
 涼やかな目元が、淡香たちを向く。

そうだ、と言ったら?

喰った本を返してもらおう

 青藍の言葉に、男は冷たく笑ってみせた。
 間をおかず、白い手からするりと言葉があふれ出る。

お断りだ

 あふれ出たいくつもの言葉は、帯のように宙に浮いていた。
 男がつい、と指先を動かすと、帯となった言葉が勢いをつけて、青藍達に飛んでくるのだ。

 青藍は胸ポケットからするりと何枚かの呪符を取り出して、言葉の帯に投げつけた。
 呪符に書かれた文字が浮き上がり、壁のように青藍達の前につらなって、言葉の帯を弾き飛ばす。

ふん。呪術をかじっただけの小僧が

 男は言葉の帯を弾き飛ばされたのを見て、いまいましげにつぶやいた。
 淡香も何か力になれればと、持っていた呪符を投げつける。

 最初に教わった、物の動きを封じる呪符だ。
 呪符は弾き飛ばされ、宙にあちこち浮かび上がる言葉をかいくぐって、まっすぐに狩衣の男へと向かっていく。

 だが、男にたどり着く直前で、呪符は急激に速度を失っていった。そのまま、ただの紙切れのようになって、呪符はひらりひらりと落ちていく。

 あまりにも付け焼き刃すぎる淡香では、男の力に対抗できないのか。何もできない悔しさに、唇をかみしめた。

 男がつい、と指を動かした。
 すると、青藍の結界に弾き飛ばされて宙を舞っていた文字がその場の動きを止め、そして急に統率力を持って淡香達に向かってくる。

 避けることもできずに、淡香は腕で顔を覆った。
 腕で顔を覆った直後に、言葉がいくつも束になって襲いかかってくる。石を投げつけられているような感触だ。

 ひとつひとつは痛くないのだが、束になって襲ってくると痛い。目に入ったら嫌だなと、文字がいなくなるまで顔を覆い続けるしかないのだ。
 青藍もうめき声を上げながら、文字を避け続けているようだった。

 少しすると、文字の攻撃もおさまった。淡香はそっと腕をはずす。


 宙に浮かんでいる文字は消え、もとの図書室に戻っていた。
 だが、狩衣の男の姿もなくなっている。目を離したわずかな間に、いなくなってしまったようだ

くそっ、あと少しだったのに……!

 青藍が毒づく。
 その時、淡香達がいる棚の向こうで、菖蒲が叫んでいる声が聞こえてきた。

いたー! 待てコラアアッ!

わっ!

 迫力のこもった声に、狩衣の男がたじろいでいるような声も聞こえてくる。
 淡香は、思わず青藍と顔を見合わせていた。続いて爆発音が聞こえて、淡香は立ち上がって棚の向こうまで小走りで向かう。

 もくもくと埃が立ち上る中に、菖蒲と男の姿はあった。
 何か呪符を使ったのだろう、本棚からこぼれ落ちた本がまわりには散乱していた。
 立ち上った埃は少しだけ落ち着きを見せ、様子がはっきりと分かってくる。

 菖蒲は、仁王立ちで男と向き合っていた。男は腰を抜かしたのか、その場にへたりこんでいる。

 どこに持ち込んでいたのか、菖蒲は特大の呪符を男に張り付けていた。その呪符の力によって、完全に動きを封じられているようだった。

さーて、これで逃げられないわよお?

 菖蒲は腰に手を当てながら、楽しそうに笑っていた。
 今まで本を駄目にされてきたあれやこれやを思い出しているのかもしれない。
 笑顔が浮かべるうすら寒さに、淡香の腕に鳥肌が立つのが分かった。

まったく、今までさんざん私達の本を駄目にしてきてくれたからね、その報いは受けてちょうだいねぇ

 菖蒲がにこにこ笑いながら、人指し指を男の額にあてがおうとする。 男は動きを封じられたまま、怯えの混ざった表情で菖蒲を見上げていた。

 
 だが、彼は後ろに隠した指を何か動かそうとしているようにも見えるのだ。
 もしかして、彼の表情は、偽りなのだろうか。

先生!

 淡香がとっさに声を上げ、菖蒲がちらりと淡香に視線を送った時だった。
 べり、と菖蒲が封じていたはずの呪符が、生き物になったかのように動きだしたのだ。
 呪符はめくれあがり、宙へと飛んだ。

えっ?

 菖蒲が驚愕の表情を浮かべ、一歩あとずさる。

危ないっ!

 横に立っていた青藍が、素早く防御の呪符を投げつけた。
 それは風に乗ってするりと菖蒲の前まで飛んでいく。

 ちょうど同じ時、男が術を放ったようだった。手からたくさんの文字が出現し、あちこちに飛んでいく。男が放った術と、青藍が投げつけた呪符が、ぶつかろうとする。

 青藍が投げた呪符は、一歩間に合わなかった。
 男が放った文字が、一瞬動きを止めたかと思うと、一気に拡散して飛んでいったのだ。

わっ

 同時に勢いよく風の巻き起こり、淡香の体は宙に浮かんで、本棚に叩きつけられた。
 さらに飛んできた文字が頭にぶつかったのだろう、衝撃がはしる。

大洞さん!

 青藍が叫んだ言葉を最後に、耳が聞こえなくなり、そして目の前が白く塗りつぶされていった。

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