次に気が付いた時、淡香は見知らぬ部屋で何かにもたれかかって座っていた。
次に気が付いた時、淡香は見知らぬ部屋で何かにもたれかかって座っていた。
……え?
目の前には御簾が下がり、御簾越しに庭の美しい緑が見える。
淡香の目の前には文机があり、紙と筆が置かれていた。
まわりには誰もいない。戸惑いながらも淡香は立ち上がる。
だがいつものように、するりと立ち上がることはできなかった。何でだろうと自らを見下ろして、淡香は自分が十二単をまとっていることに気が付いた。
ずるずると裾を引きずりながら、御簾の近くまで歩いていく。
こっそりここから出て行くのをだれかに見られるのはまずい、となぜだかそのときは思っていた。
御簾の向こう、通りの気配を探ってみたけれども、誰かがいるとかなどの気配は無かった。
そのことに少し安心して、御簾を持ち上げて、通りへと出る。
淡香がいた屋敷は、とても大きかった。まるで、高貴な人が暮らしているような場所。
淡香は不思議に思いながらも、疑問に思うことなく、すいすいと通りを歩いていく。
そのうちに、向こうから誰かがやってくるだろう気配に気が付いて、慌てて近くの部屋に身を隠した。
たまたま誰もおらず、誰もいないことに安堵のため息をついた。そのまま隠れて、誰かが通りすぎるのをやり過ごそうとする。
通り過ぎるのは、男のようだった。ふたりで連れだって歩いているらしく、声が聞こえてきた。
ひそひそと声量を落として話している声が聞こえてくる。
今回も、あの方は認められなかったらしいな
ああ。今回こそは、と力を入れておられたからな。あまり落ち込まれないと良いが
あの方とは誰のことだろう。
淡香の脳裏に、狩衣の男の姿が思い浮かぶ。
名前さえも知らないのに、あの男の話ではないかと、思ったのだ。
あの方も才能がおありではあるのだが……それを超す天才がいるから、仕方がないな
ああ。そうだなあ。あれを超える人は、そうそう現れないだろうよ
男はひそひそと抑えた声音で話し合いながら、淡香が隠れた部屋の前を通り過ぎていった。
誰もいなくなった、そう思った時、ふいに淡香の横に男がすっと現れて、淡香は驚きに、心臓が跳ねた。
男は、あの狩衣の男だった。今日も同じ服を着ている。
隣に淡香が立っているというのに、気にする様子は見られない。
淡香の姿は、とらえられないのか。
ああ……、いつになれば
男が、低くつぶやくのが分かった。
男はそれだけしかつぶやかなかったのだが、彼が何を言いたかったのか、淡香にはすぐ分かった。
いつになれば、認められるのだろう。
なぜだか、彼の想いがあふれ出ているかのように聞こえてくる。
どうすれば、あの天才を超えられるのだろうか。
もっと学べば、認められるのだろうか。
もっと、たくさんの本を読まねばならぬ。もっとたくさんのものごとを学ばねば、もっと……。
大洞……、大洞!
どこかで、淡香は呼ばれている。意識が急に遠くなっていく。
ああ、だから男は死んでまで、ああして本を喰っていたのか。
理解すると同時に、男のことが哀れに思えてきて。
大洞!
淡香はもう一度呼ばれて、はっと目を覚ました。
目を見開いた先には、青藍の顔があった。心配そうな表情を浮かべている。
今のは、夢だったのだろうか。
眠っていたのか。
どうして、と記憶を辿って、淡香は閉架書庫で妖怪からの攻撃を頭に喰らったことを思い出した。
あの時、脳震盪を起こしたのかもしれない。
大丈夫? 分かる?
青藍に問いかけられて、淡香はうめくように返事を返した。声が寝起きのようにかすれてしまう。実際、ある意味では寝起きだが。
あの……あの男の人は……
淡香がゆっくりと起き上がりながら問いかけると、青藍は無言で指を差した。
指を差した方向に目を向けると、菖蒲が男に動きを止める呪符を張り付けているのが見えた。今度は二枚の呪符を張り付けている。
あの大きさの呪符を何枚もどうやって持ち込んだのかは、また謎なところではある。
あら、起きて大丈夫?
よろよろと淡香が体を起こすと、菖蒲は心配そうに問いかけてきた。
少しずつ意識もはっきりしてきて元の調子に戻ってきたので、淡香はひとつ頷く。
すいません
あら、謝る必要はないのよ。悪いのはこいつなんだから
今度こそしっかりと動きを止められた男を前に、菖蒲の表情も晴れやかだ。
……この男、どうするんですか?
そうねぇ
菖蒲は言葉を発することもできない男を見下ろして、どうしようかしら、とつぶやく。
ここからは千草の担当なんだけど、たぶん最終的に滅することになると思うわ
菖蒲の言うことはもっともなことだった。
図書室の本について、いくつも本文を喰い、本を駄目にしてきたのだ。消滅させられても仕方ないだろう。
それでも、あの夢を見てしまった後では、消滅させてしまうことに何かしらの心残りが残ってしまう。
……どうした?
淡香の隣に並んだ青藍が、淡香の心残りに気が付いたのか、どこか心配そうに問いかけてきた。
淡香は、この閉架書庫の中では、何も役に立てなかった。
何も役に立てなかったのに、胸のうちでくすぶっているこの想いを語って良いのか、ためらってしまうのだ。
何かあった?
問いかけてくる青藍の目は、どこか静かで、それでも心配そうな色がそこにはあった。
青藍の目に、話していいよ、と後押しされた気持ちになって、淡香はゆっくりと話し始めた。
さっき、不思議な夢を見たんです
夢?
そう。この男の人が、どれだけがんばって本を書いても、認められない夢。この男の人が本を喰うのは、認められないから、なんだと思います
淡香は夢の中での出来事を思いだしていた。
御簾越しの景色。その向こうから聞こえてくる、人々の好奇の視線。
本を喰って自分のものにすれば、いつか認められると思ったということか……
きっと、そうなんだと思います
狩衣の男は、顔を動かせないものの、目だけを動かして淡香を見てきた。
どうして知っているのか、という驚きに満ちた色を湛えている。
だから……
おーい、大丈夫?
さらに続けようとした言葉は、後ろから飛んできた千草達の言葉にかき消された。
千草が紅子と空を連れて、淡香達のところにやってきたのだ。
なんとか大丈夫よ
大洞さん、大丈夫だった? 反田は……まあ大丈夫ね
なんだそれ
紅子はまっさきに淡香に駆け寄って、淡香の手をぎゅっと握りしめた。
青藍は紅子の言葉にどこかしらけた表情で彼女達を迎える。
やっと捕まえたか。随分と手こずらせてくれたな
千草は菖蒲によって抑えられている狩衣の男に近づくと、仁王立ちになって男を見下ろしていた。
こうしてみると、姉弟の動きがそっくりである。
さて、本の場所を吐いてもらって、片を付けようかね
千草はこれからのことを考えてか、腕まくりをした。消滅させられる己を思ったのか、男の表情が、なんとなく怯えたものになる。
先生
そんな千草達の行動を止めたのは、青藍だった。
ん? どうした?
振り返った千草に、青藍は少しだけ躊躇うような仕草を見せた後、まっすぐに千草を見上げた。
俺、こいつを式神にしたいんですけど……できますか?
千草は驚いたように、青藍を振り返った。驚いたのは千草だけではなく、淡香も同じだ。
きっと淡香の話を聞いてそう思ったのだろうが、妖怪に執念を燃やしていた青藍が、妖怪を消滅させないということを考えてくるとは思わなかったのだ。
こいつがそれに従うだけの意識があれば、式神にすることもできるとは思うが……どうしてだい?
青藍はひとつ息を吸って、淡香が見た夢の話を簡単に語った。
もし、その話が真実で、その人がもっと学んで書きたいと思うなら……俺が式神にすれば、わざわざ本文を喰わなくても、いろいろなものを見せてあげられると思って
淡香が男に目を向けると、男に浮かんでいた怯えの表情は消えていた。かわりに驚きが浮かんでいる。
千草はふむ、とつぶやいて、腕を組んだ。
そうか……。姉さん、良いかな?
そうね……。私はまあ、なくなった本を返してくれるのなら、後は水に流してあげてもいいわ
菖蒲は一度男に目をやると、小さく肩をすくめてみせた。
式神にする、というのは、そいつの生を背負うということだ。その覚悟はできてる?
千草はいつもの柔らかい声音で、厳しいことを青藍に問いかけていた。
もちろんです
青藍は躊躇うことなく、大きく頷いた。
青藍の答えに、千草はふわりと笑みを浮かべる。
それじゃあ、僕は言うことないかな。じゃあ、やり方を教えてあげる
そう乞われて、青藍は千草の横に並んだ。
千草が教える言葉を繰り返して、青藍が唱える。
唱えている呪文が進むにつれて、狩衣の男に光が宿っていくのが分かった。光を帯びた後、溶けるようにして体の端から消えていく。
あの男も、反田の式神になることを受け入れたのね
淡香がいる位置まで下がってきた菖蒲が、こっそりとそう教えてくれた。
柔らかい光を帯びた空間は、あたたかいうつくしさが宿っているように感じられる。
溶けるようにして消えていった男の姿は、青藍が手を振ると、また姿を見せた。
今度現れた男は、ごく薄い紫の狩衣をまとっていた。美しい切れ長の目で、青藍を見つめたかと思うと、その場にすっと跪く。
……最後に名を決めるんだ。式神として使役する名を
千草の導きに、青藍はひとつ頷いた。
名前を考えているのか、男を見つめたまま黙していた。
やがて、青藍はゆっくりと名前を呼ぶために口を開いた。
君の名前は……藤
まとう衣の色。男が深々と頭を垂れる。
どこか幻想的な光景を眺めながら、淡香は不思議と暖かい気持ちで満たされていた。
青藍が淡香の言葉を受け入れてくれたということ、そして青藍が実は優しい人であるということを知ることができたからかもしれない。
さて
無事に式神の儀式を終えたところで、菖蒲が声を上げた。
まずは、この散らかった本を片づけなきゃねぇ……
菖蒲の言葉に周りを見回す。術を使った影響で、本棚からあふれ出た本が、床に散乱していた。
これをひとつずつチェックして、元の棚に戻さなければならない。その作業の大変さを思って、思わずため息がこぼれ出た。
空は、ええっと大きく声を上げている。
これ全部、俺たちでやるんですかあ?
他に誰がやるのよ
ですよねぇ……
大げさに肩を落とした空に、思わず苦笑がこぼれる。
それに、そいつにもキリキリと働いてもらわなきゃならないし、さ、やるわよ
菖蒲がびしっと男、藤を指さすと、藤は困ったような表情で、すまん、と小さく謝った。
柔らかい声音は夢の中で聞いた声と同じで、やはりあの男はそうだったのだ、という確かなものを得る。まだまだ先は長そうだったが、それでも気持ちは晴れやかだった。
学校が夏休みに入っても、図書室は朝から空いている。
淡香は図書室の前で止まり、一度タオルで汗をぬぐっていた。本格的な猛暑の日々が続き、登校してくるだけですっかり汗だくだ。
耳には、蝉の輪唱が響いていた。ずっと聞いていると頭がおかしくなりそうだ。
図書室を開けると、冷気が滑り込んできた。涼しさに、自然とため息がこぼれ落ちる。
おはよう
カウンターには淡香と同じ当番がまわってきた青藍が、早くも来ていて、カウンターに座っていた。
勉強するつもりらしく、ノートをカウンターの一角に広げていた。
おはようございます。早いですね
今来たばっかりだよ
淡香は荷物をカウンター内に余っている椅子の上に置いて、休憩とばかりに椅子に腰掛けた。
朝早くに来る生徒は皆勉強に来る三年生ばかりだ。カウンター業務はほとんどなさそうである。
藤……さんは?
夏休み前の蔵書点検で、青藍の式神となった男のことをたずねると、青藍は苦笑して下を指さした。
先生に早くもこき使われてる
あはは……
さんざん図書室に迷惑を掛けていた藤は完全に菖蒲に弱みを握られていて、青藍が図書室に来る度に何らかの用事を言い渡されているらしい。
一度だけ淡香も見たが、どこか楽しそうに作業をしていたから、それで良いのかもしれないと思っている。
下を指さしたということは、今は閉架書庫にいるのだろう。
それにしても、蔵書点検で青藍とペアになった時、今こうして穏やかに話せるようになるなんて、思いもしなかった。
改めて振り返ってみれば、蔵書点検が始まった頃の青藍は、何も知らない淡香に苛々していたのだろうということがはっきりと分かる。
隣で参考書を広げようとしている青藍の表情は、穏やかなものだ。青藍と当番になれて、嬉しくてこっそり青藍の横顔を眺めていた。だが本人も気が付いたのだろう、顔を上げる。
……何?
いえ、何でも
……? まあいいや。今日お昼、一緒に食べない?
っ、はい
思わぬお誘いに、淡香は勢いよく頷いた。嬉しくて、ついつい頬がゆるんでしまう。
お昼かあ、何食べようかな。おなかすいたな
早いよ
昼食の話題が出ると、何だかお腹がすいてきた気がした。
あれこれ考える淡香がおもしろいのか、青藍がくすりと笑う。
そんなことを話していると、生徒が貸し出しのために、カウンターへとやってきた。
図書委員の仕事の始まりだ、と淡香は表情を引き締める。
貸出ですか?
委員会のカウンター当番の一日は、始まったばかりだ。
(了)