私の罠を掻い潜れる自信がおありでしたらどうぞご自由に。ではグレゴリー様、行ってまいります

嘲笑を浮かべ、ドロシーは背中の羽根を優雅にひと羽ばたきさせてから広間を出て行った。

ンなろ……ドロシーの奴、この俺様をナメてやがるな! 見てろ、奴より先に、この俺様が侵入者を叩き潰してやる!

田中君も頑張ってね

グレゴリーは魔ハムスターのケルベロス君を肩に乗せ、にこにこしながら手を振った。田中は鼻息荒く、肩を怒らせて広間を出ようとしたところ、突然引き返してきたドロシーと正面衝突した。

ぐえっ!

グレゴリー様グレゴリー様! 大変です大変です大変です!

ドロシーてめぇっ! 俺の腹の上からどいてから喚けーッ!

ドロシーは田中の腹の上で、優れたバランス感覚を披露するかのように直立不動のまま、言うまでもなくピンヒールの鋭利な先端を田中の腹にわざと食い込ませつつ、普段の冷静な彼女の姿からは考えられないほど狼狽している。

どうしたの、ドロシーちゃん? 随分帰りが早いけど

大変ですわ、グレゴリー様! 侵入者が!

田中はドロシーを蹴り落として腹部を押えて蹲る。ドロシーはうぐいすアンパンによって巨乳となった胸元を押さえ、数回深呼吸した。

侵入者が勇者ではございませんでした!

何だと! 勇者でないなら何者だ、そいつ! 魔王城に侵入してくるくらいだから、相当の手練れか名のある騎士なのか?

田中は額に一筋の汗を滲ませ、ドロシーの言葉を待つ。呑気なグレゴリーも珍しく神妙にドロシーの報告を待った。
ドロシーは両手を胸の前で組み合わせ──パァッと晴れやかな笑顔になる。

読書に夢中になっている少年でした! 読書に夢中になりすぎて、きっと自分のいる場所も理解せずに侵入してきたと思われます!

体格のよい田中がよろめいたので、グレゴリーはケルベロス君と共に一歩飛びのいて避難する。

ほら、よくいるじゃありませんか。学校の図書室で借りてきた、ちょっと性的描写のある保健体育の学習教本を、妄想力をフルに働かせてじっくりねっとり歩き読みしていて、そのまま前方不注意で電柱にぶつかって、一人で恥ずかしくなってキョロキョロしている子。そういうタイプでしたわ!

随分具体的な例えだな、おい!

痛む腹部を擦りながら、田中は思わずツッこむ。
ケルベロス君の小さな頭を指先で撫でながら、グレゴリーは小さく首を傾げる。

それでその子は追い出してきた? 一応魔王城だし、ここ。普通の人が入っちゃダメでしょ?

グレゴリーの言葉はもっともだ。一般市民がおいそれと自由に出入りしていい場所ではない。

いえ。そのままにしてまいりました

なんでとっとと始末しねぇ? 人間のガキなんざ、テメェごときでも一捻りだろうが

訝しげな田中を尻目に、ドロシーがブロンドの巻き毛を揺らして最高にいい笑顔を浮かべた。

私好みの美少年でしたから!

さすがのグレゴリーも田中と共にずっこけた。見事な吉本コケだった。

田中のハリセンが、ちゃぶ台にバナナの叩き売りのごとく何度も打ちつけられる。

だーかーら! なんでみすみす人間のガキの侵入を許してやがるんだ! 魔王城だぞ、ここ!

私好みの美少年だからですわ

憮然とした様子で答えるドロシー。

テメェの好み云々は関係ねぇんだよ! 天下の魔王城に易々侵入してくるくらいだ。成長すればそいつは勇者になっちまうかもしれねぇ。災いの火種は若い芽の内に摘み取っておくのが、魔族の美学ってもんだぜ

彼に手出しはさせませんわ。彼にもしもの事があったら私、魔王様を殺してケルベロス君と一緒に焼く前の発酵途中のパン生地へ沈めますわよ!

田中君酷いよ! ケルベロス君には何の罪もないのに道連れにするなんて!

酷いのはドロシーだろうがッ! つか、ネズミ関係ねぇし! ネズミが死のうが生きようが、俺の知ったこっちゃねぇよ!

田中がちゃぶ台に拳を叩きつける。その様子を見て、グレゴリーが眉を顰めた。

ハリセンだの拳だの、あらゆるところを叩き過ぎだよ、田中君。もしどこか壊れたら退室の時に敷金が戻ってこな……

大魔王が借家の敷金程度のはした金の心配するなァァァッッッ!! みみっちいわ!

グレゴリーは指を咥えてしょぼんと肩を落とす。

だって大家さん怖いし

大家怖いじゃねぇよ! なんだったら大家もサックリと殺っちまえよ! そしたらこの魔王城は賃料考えなくともテメェのもんだろうが!

無理無理無理無理無理ぃぃぃっっっ! 大家さん怖いぃぃぃッッッ!!

グレゴリーがあらん限りの悲壮な声で叫び、顔面蒼白になってガクガクブルブルと震え始めた。

……ドロシー。ここの大家って何者? 魔界の覇王も恐れるほどの猛者なのか? もしかして大家も勇者とか?

実は私もお会いした事がございません。家賃集金の際、なぜかいつもタイミングが合わなくて

ガクガクと両腕を擦りながら全身を震わせているグレゴリーを見て、田中はポリポリと頭を掻いた。

とにかくだ。今は魔王城に侵入したガキの排除か抹殺。それが最優せ……

彼の喉元に、鋭く斜め切りされた固焼きベーコンエピが食い込む。根本を掴んでいるのは言わずもがな、ドロシーだ。
ドロシーは笑顔のまま、ブロンドの巻き毛をもう片方の指先でクルクルと捻っていた。

彼は無事に帰してあげるのです。よろしいですわね、魔・王・様?

……ゆ、友好的にお帰りいただく、だな。よ、よし、分かった。とりあえずパン下げろ。な?

喉に食い込むベーコンエピの切っ先の痛みに、田中はあっさり折れた。
彼女が『やる』と言えば、たとえ獲物がきな粉揚げパンだとしても、確実に──殺られる。南の魔王は魔界の覇王の秘書の、下級魔族であるはずのサキュバスに言い知れぬ恐怖を抱いた。

じゃあ、罠に引っかからないように、その子誘導してあげないと

ハッ! そうでしたわ! このまま魔王城に留まれば、彼の身が危険に晒されますわ!

ドロシーがすっくと立ち上がる。グレゴリーも続いて立ち上がった。

じゃあ、見た目が一番普通のぼくがその子に声をかけて、ここは危ないから早く帰るように……

いけません、グレゴリー様。彼は読書に夢中。その読書を邪魔するなんて、もってのほか。彼の読書の障害となるものは、何者であっても私が全力で排除、あるいは骨も残さずパン焼き窯で焼き殺します。焦げ目キツめで

焦げ目云々以前に、骨まで残さずって言ったばかりじゃねぇか! 矛盾だらけのテメェの言動に責任持て!

田中のツッコミを華麗にスルーし、ドロシーはずいとグレゴリーに詰め寄る。

もうパン、作ってあげませんよ?

それは困る! ぼくドロシーちゃんに従う!

あっさりとパンで懐柔される覇王だった。

おいドロシー。なんで人間のガキごときにそこまで気を使ってやらなきゃならねぇんだ? 魔王城に入り込んだガキの方が馬鹿なんだろ。どうしても生かして帰すってなら、適当に帰り道教えて早々に追い出せばいいじゃねぇか

彼が私の好みの美少年だからです

答えになってねぇ!

ドロシーの瞳がキラリと光った。

一秒でも長く彼を影からこっそりねっとりじっくり生暖かく見つめる事も、魔族として大切なお勤めかと!

それはテメェだけだ!!

ハリセンを振り上げようとした田中だが、ドロシーは素早くそれをチーズ蒸しパンに食い込ませて奪い取った。

魔王様。今後一切ハリセン禁止です。もし彼に怪我でもさせたら、ベヒーモスすら二秒で殺せる猛毒入りのチョココロネを顔中の穴という穴に突っ込ませていただきますので

満面の笑顔のドロシーだが、目は全く笑っていなかった。彼女が『やる』と言えば、たとえベジタブルキッシュが獲物だとしても──以下略。

ハリセンで死ぬか! つか、こんなモンで怪我するか!

心に傷を負いますわ!

手にしたハリセンを指差し叫ぶ田中。
ドロシーはうぐいすあんパンで巨乳となった立派な胸を誇らしげに突き上げて反論する。

ああ言えばこう言う、こう言えばそう言う、逐一反論かまして、テメェは反抗期のガキかッ!?

魔王様やグレゴリー様を完璧なる理論武装で挑発、屈服させる事こそ、私の至上の悦びであるだけですわ! ああ、感動のエクスタシーで骨の髄が震えてまいります

うぐいすアンパンを詰めた巨乳をこれ見よがしに見せつけ、ドロシーはここぞとばかりに、最上級の侮蔑と嘲笑を含んだドヤ顔、したり顔で、キッパリ言い切った。

帰れ!! 魔界に帰れ!!

ドロシーちゃんはしっかり者だなぁ。ぼくも鼻が高いや

ちげぇよ馬鹿! コケにされてんだよ! 魔族の頂点である魔界の覇王のテメェが、下級魔族に小馬鹿にされてんだよ! 気付けよ、いい加減に!!

もはや田中のツッコミは涙交じり。心が折れるのは時間の問題だった。

ハッ、こんな事をしている暇はございませんわ! 一刻も早く、彼を救出に向かいませんと!

あー。ぼくも行くー! ケルベロス君も一緒に行こうね

ドロシーを先頭に、グレゴリーと田中は、魔王城に入り込んだという少年を探して大広間を出た。

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