グリモワルトへようこそ――。

古びた木製の門に書かれている歓迎の言葉を、無感情な顔で見上げる。

グリモワルトは王都グラチアから二時間ほど馬車に揺られた場所にある。面積は広いが、都市と呼ばれるには人口が足りない中規模の町だ。昔は交易ラインの一環として栄えていたらしいが、新しい街道ができた現在、訪れる人間は多くない。

ガラドリエル初等魔術学校は、この町の郊外にある。
私は地図を片手に歩き始めた。


晴れた空の下、鳥が鳴き交わしている。
王都のようなきらびやかさはないが、素朴で緑豊かな町並みは目に優しい。人々の表情は明るく、町の暮らしが悪くないことを物語っている。
そんな中を歩いていると、世界で自分だけが不幸のどん底にいるように感じる。

ルカ

連中は、私が辞表を出すのを待っているのだろう

ルカ

……

ルカ

絶対辞めないからな


私の研究は、理の天秤でなければできない。
何があっても、辞めるわけにはいかないのだ。

こんなことで、くじけるものか。
こんなところで、朽ち果てるものか。

私が、諦めたら……。

ルカ

……


……子どもの世話でも何でもやってやる。
容疑が晴れるまでの辛抱だ。
私を嵌めた連中に、必ず後悔させてやる。

ルカ

……?


地図を見る。
ここまでの道のりをたどってみるが、地図上の現在位置と風景が一致しない。

どうやら道に迷ったようだ。

ルカ

……


思えば、ここしばらく見知らぬ土地をひとりで歩いたことなどなかった。
遠出する時は必ず部下がつき従っていたからだ。


いつもだったら……。

ハンス

さぁ、ウィスタリア様。こちらです

マーガレット

そろそろ昼食にしましょうか。良いお店を予約しておきましたよ

ライオネル

ケーキが美味しいお店を見つけたんです。きっと、先生も気に入ると思います!

ルカ

……


……とにかく、自力で何とかするしかない。

ルカ

ん?


何か踏んだ。
足元を見ると、男が、同じ進行方向に頭を向けてうつ伏せに倒れている。

ルカ

行き倒れか


足を退け、何事もなかったかのように歩き始める。
そして次の瞬間。


私は派手な音を立てて顔面から地面に激突した。
男に足首をつかまれたのだ。


こめかみに青筋を立てて振り向くと、男が顔を上げてこちらを見ている。

ルカ

何をする

レオグリフ

普通、行かないだろ?

ルカ

悪いが急いでいるんだ

レオグリフ

馬鹿やろ、こっちも緊急事態――


そこまで言って、男は力尽きた。
彼の手が足首を解放する。

ルカ

行き倒れるのは勝手だが。場所を選んでくれないと困る


ため息を吐いて、男の体を抱え起こす。

男はぐったりと目を閉じたまま浅い呼吸を繰り返している。思っていたより若い男だ。二十歳そこそこだろうか、自分よりも年下に思える。

ぼろぼろの外衣を除ける。目立った外傷はない。
指の背で頬や額に触れてみる。熱もないようだ。

レオグリフ

うう……腹減った……


呟かれた言葉に、頭痛を覚えた。


私は仕方なく男を近くの食堂に運び、仕方なく食事を提供した。
男は、食べ物を見るなり生気を取り戻し、ものすごい勢いでかぶりついた。

テーブルに空の皿が積まれていく……。

レオグリフ

うまいっ!

ルカ

……

レオグリフ

からっけつになってから一週間、いや十日。生きてまた、うまい飯にありつけるなんて思わなかったぜ!

ルカ

十日も食わずによく生きていたな


自分も不規則な生活を送っていたが、ライオネルに買って来させた菓子など、毎日何らかは口にしていた。
研究に没頭して食事を忘れる時もあったが十日は未知の領域だ。

レオグリフ

あのなー、俺はばけもんか!

ルカ

からっけつだったんだろう?

レオグリフ

おう。でも、ちゃんと食ってたぞ。草とか木の皮とかその辺の生きもんとか!


未知の領域である。

レオグリフ

ホレスの野郎に捕まった時は人生終わりかと思ったぜ。あ、そいつ、借金取りなんだけどな? 取り立てが半端じゃないんだ、これが


腹が満たされて気が緩んだのか、男はぺらぺらと喋り始めた。

話によると、男は旅の途中に借金取りに捕まってしまい、路銀をすべて取り上げられたらしい。
それから乗り合い馬車の屋根にへばりつき、草の根をかじって、どうにかこの町にはたどり着いた。
その後は私が目にしたとおり、とのこと。

男はここに至る経緯をひと通り話し終えると……

レオグリフ

まだ名前聞いてなかったよな。俺はレオグリフ。よろしくな


右手を出してにっと笑った。

ルカ

何がよろしく、だ


呆れ顔で男を見返す。

感情を開けっぴろげにした話しぶり。
そして、この若さで借金地獄。
この男は物事を理論立てて考えるということを知らない、自分とはまったく別世界に生きる人間なのだろう。

男――レオグリフは、嬉々とした表情で返答を待っている。私は差し出された手を無視して財布から紙幣を取り出すと、テーブルに置いて立ち上がった。

レオグリフ

お、おい。待てよ!


レオグリフが腕をつかむ。

ルカ

何だ

レオグリフ

名前くらい教えてくれよ。飯の礼もまだ――

ルカ

必要ない

レオグリフ

俺の気が治まらないんだよ!

ルカ

お前の気がどうなろうと知ったことじゃない


鬱陶しげに手を振り払おうとするが、レオグリフは放さない。

ルカ

放せ

レオグリフ

嫌だっ

ルカ

ぶつぞ

レオグリフ

やってみろよ


こめかみのあたりで何かが切れた。

ルカ

……

レオグリフ

どわっ!!


レオグリフは椅子やらテーブルやら、色々なものを巻き込んで倒れた。
店員や客が驚いてこちらを見る。

レオグリフ

痛ってぇ……おまっ、本当に殴るかよっ……

ルカ

言葉が通じない生き物にはこうするしかない

レオグリフ

俺は動物かっ!

ルカ

頭の程度は同じくらいだろう? いや、犬のほうが賢いか

レオグリフ

なにっ……

ルカ

いいか。馬鹿にもわかるように言ってやろう。私は、お前のような奴が大嫌いなんだ

ルカ

直情的で、短絡的で、思慮のかけらもない人間が。その能天気な顔を見ているとイライラする

ルカ

旅をしてきたと言っていたな? 道を間違えたんじゃないか? 黄金でも掘り当てるつもりなら、もっと南へ行くことだ

ルカ

もっとも、馬鹿づらの馬鹿が富豪になれるほど甘くないと思うがな!

レオグリフ

なっ、何だと! 誰が馬鹿づらの馬鹿だっ!


この手の人間を扱うのは簡単だ。
恩には好意を、挑発には敵意を、面白いほど単純に投げ返してくる。

ルカ

二度と私の前に現れるな


どすを効かせて言い放ち、店を後にした。


それからさらに一時間ほどの時間を費やして、ようやく目的地に到着することができた。

時刻はまもなく第五聖人ウルテュスの時。
どうにか指定された時間に間に合いそうだ。

卒業式と入学式の間に位置するこの時期、校舎は空の巣の状態で静まり返っている。

目指すは、本棟の学校長室だ。
町が栄えていた頃に建てられたからか、校舎は立派な構造をしている。

ルカ

……


だから迷った。

ルカ

ここは、さっきも通ったな……


この、パッとしない老人の胸像にたどり着いたのは六回目だ。

方向音痴はこれだから困る。
などと他人事のように思いながら顎に手を当てる。

どれほど頭を回転させても、わからない。

ルカ

……


考えれば考えるほど、するべきことがわからなくなる。

こういう時は、いったん頭の中を空っぽにして、気持ちをリセットするに限る。それには、適度な運動が最適だ。

……ウオーキング?
答えはノーだ。
そんなことをしたら現在地が変わって、ますます道がわからなくなるだろう?

ルカ

ワン、ツー、ワンツースリーフォー


こういう時は……

ルカ

ヘイ!!!


踊るんだッ――!!!

このリズム感!
キレのある動き!
ルイール市民音楽祭、踊り部門準優勝の腕前を見せつけてやる!!


機敏な動きで踊っていると……

マナグレース

……何してんの?


いきなり、後ろから声がかけられた。

ルカ

……え?


すぐ側の部屋から若い女が顔を出している。

彼女はマナグレース。
アルネフォロス中央魔術研究院の奏魔術士だ。

直接話したことはなかったが、断末魔の悲鳴に宿る音律を発見したとか、音霊と火精を融合させて部下の鼓膜を焼いたとか、過激な仕事ぶりは噂で聞いたことがある。

マナグレース

学校長室ならここだけど?


そっけなく言って、彼女は部屋の中に戻った。
目指す場所は、すぐ傍にあったようだ。

ルカ

……


まったく、壁に順路を表示しておくべきだろう。
などと腹の中で毒づきながら入室する。

レオグリフ

よう、さっきぶり


すると、聞き覚えのある声が飛び込んできた。

ルカ

お前……何故ここにいる

レオグリフ

何故って、そりゃ。ここが俺の旅の目的地だからな

ルカ

は? いいかげんにしないと叩き出すぞ


目の前に一枚の紙が突きつけられた。

レオグリフ・ミード殿
貴殿を、ガラドリエル初等魔術学校の黒魔術担当教官として採用します。
つきましては、指定の日時に下記の場所までお越し下さい。

それはまぎれもなく採用を告げる通知だった。

レオグリフ

よろしくなー、先輩


おどけた声に、通知を持つ手が震える。

ルカ

冗談は借金だけにしろ!!


突然の怒鳴り声に、マナグレースが驚いて振り向いた。

レオグリフ

冗談じゃない。ちゃんと書いてあるだろ、採用しますって

ルカ

そうだ、まったく冗談じゃない。お前のような奴が採用されてたまるか! それも教官だぞ。理の天秤の品位が疑われる

レオグリフ

あー、なるほど。お上品な学校のお上品な先生だから、移動もお上品ってわけか。把握把握

ルカ

お前を踏まなければ定刻に着いていた! 悪夢だ。学院はいつから慈善事業を始めたんだ。こんな浮浪者を雇うなんて

レオグリフ

浮浪っ……お前、さすがに言っていいことと悪いことがあるぞ!

ルカ

近寄るな、借金がうつる!!

レオグリフ

うつるか!!!


最悪だ。
迷い込んだ浮浪者だと思っていた男と、同じ職場で働くはめになろうとは……。

罵りながら嘆いていると、レオグリフが力強くこちらを指差した。

レオグリフ

お前、絶対友達いないだろ

ルカ

うるさい! お前のお友達は、あおっぱなをたらした子どもだろう? 程度の低い人間ほど同程度の人間と群れたがるんだ

レオグリフ

おうおう、ひとりぼっちよりもよっぽどいいぞ。何なら紹介してやろうか?

ルカ

あいにくだが、金をもらっても子どもの相手など願い下げだ

レオグリフ

おまっ……ここでそれ言ったら終わりだろ! それが教官の言葉かよっ

ルカ

お前こそ、知った風な口が利ける残高か

レオグリフ

ざっ、残高関係ないだろ!!

マナグレース

なになに、あんた達知り合いなの?

マナグレース

ずいぶん仲良しみたいだけど

ルカ

仲良くない!!

レオグリフ

仲良くない!!


同時に振り向いて叫んでしまった。

ああもう、イライラする。
再び顔を突き合わせて口論を再開すると、マナグレースは手のひらを天井に向けて肩をすくめた。

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