三日月がかかる空の下で、彼らは堅牢な塔を見上げていた。いずれも十四、五歳の少年少女達だ。
三日月がかかる空の下で、彼らは堅牢な塔を見上げていた。いずれも十四、五歳の少年少女達だ。
行くぞ……!
おう!
ちょっと待って。心の準備が……
何だよ、ビビってるのか?
ち、違うもん!
安息日の警備は手薄だ。
彼らは嘘の通報をして当直の警備兵を追い払った。
彼らの手には、大人達を欺いて持ち出した鍵束があった。頭の中には、完成させたばかりの解術の術式があった。
彼らは、素早く扉に解術を施した。
マジかよ……!
本当に開くなんて!
少年達が目を丸くする。
厳重な封印が施されている扉はあっけなく開いた。
さぁ、入ろう!
でも……ねぇ?
本当に、大丈夫なのか?
もし、上手くいかなかったら……
土壇場になって、数人が怖気づいた。
恐怖は伝染する。
戸惑いの視線が交差し始めた、その時……
大丈夫だって。俺達にはルカがついてるんだから!
彼の一言が、その場の空気を変えた。
そうか、そうだよな!
そうよね……絶対に、大丈夫!
行こう!
それは、時の狭間に捨て去られた、遠い日の出来事。
誰も知らない物語……――。
げほっ、げほっ……
おや、風邪かね?
……っ……
アレクシスを憎々しげに睨みつける。
この劣悪な環境に閉じ込められてから、十日が経過していた。
薄暗く冷え切った部屋。食事はもちろん、水すら満足に与えられない。自白剤を散々飲まされたせいで、気分は最悪だった。
しかし、強情だな、君は。根負けしたぞ
……
何と言われようと、知らないものは知らない。
やっていないものは、やっていないのだ。
ひとまず、釈放だ。規則だからな。自白がない以上、決定的な証拠が見つかるまでどうにもできん
鍵が開けられ、錆びついた音を立てて格子扉が開く。
無実の人間から、そんなものが見つかるはずが――げほっ、げほっ
しかし、君の疑いが完全に晴れたわけではない
言いたいことは山ほどあるが、咳のせいで喋れない。
必死に呼吸を整えていると、目の前に、一枚の紙が差し出された。
辞令
ドマーニ王国暦五百八年 第四聖人ベルクールの月一日付けをもって、ガラドリエル初等魔術学校への出向を命じる
は?
辞令だ。見てわからないか?
初等……魔術学校?
初等魔術学校とは、その名の通り、最も初歩的な魔術の学校だ。魔術の資質を持つ十二歳以下の子どもが入学して、基礎を学ぶ。
魔力炉の暴走は重大な事件だ。再発の可能性は、摘み取らなければならない
この事件が解決するまで、君には、魔力炉のない施設に行ってもらう
……私に、子どもの相手をしろと?
初等魔術学校の先生。素敵な仕事じゃないか。女児のなりたい職業ランキングでは、毎年十位以内に入っているぞ
し、しかし、私には研究が……
心配は無用だ。君の研究はすでにウォーレン教授が引き継いでいる
っ……!!
君の研究は彼の手でまとめられ、彼の名前で発表されるだろう
……
彼の言葉を聞いた瞬間、全てを理解した。
世界が足元から崩れ落ちていく。
嵌められた。
奪われたのだ。何もかも。
信頼し、師事していた人物に。
尊敬していた。信用していた。
父親のように慕っていた。
彼もまた、私を必要としていると思っていた。
認められようと努力した。
命を救われた恩に報いようと……。
なぜ? どうして?
激情がぐるぐると廻る。
かみ締めた唇から、赤い糸のような血が流れた。
……部下達は……誰も……何も?
研究室は問題なく機能しているそうだ。
彼はすでに、君の――いや、自分の部下を連れて私設研究所に移動している
君が行っても、敷地内に入ることすら叶わないだろう
誰も、何も。
自分のことを……。
……
胸中は察する
ひとかけらの同情も感じさせない声で言って、アレクシスは踵を返した。
だが、ここではありふれた話だ
靴音はすぐに遠ざかっていった。
様々な香油を混ぜた匂いが立ち込めている。
窓はビロードのカーテンで閉ざされているため、陽の光は届かない。
双頭の天馬を模った燭台が控えめに照らす中、薬品漬けにされた小動物が黒塗りのテーブルと二脚の椅子を見下ろしている。
その一脚に腰掛けて、マナグレースはグラスを傾けていた。手元には、王立魔術研究機関『理の天秤』の新たな人員配置を記した書類がある。
魔術は、《大いなるもの》の力を借りて超自然的な現象を起こす技術だ。子ども(せいぜい十二歳以下)の頃に、瞑想や夢の中で《大いなるもの》にまつわる『真理のかけら』を見つけた者だけが習得できる。
そして、ここドマーニ王国では、三つの《大いなるもの》が認知されており、三系統の魔術が存在している。
天空におわす神ウリルシャノンの力を借りて奇跡を顕現する聖魔術。
大地に眠る巨竜カロングラディの力を借りて想像力を具現化する黒魔術。
大気に宿る音霊リュリュニーの力を借りて人間の感情を操る奏魔術。
理の天秤には、この三系統のいずれかの魔術を習得した『魔術士』、それもトップクラスの実力を持つエリートばかりが所属している。
あらら。見事にはめられたわね。ルカ君
マナグレースは可笑しそうに笑いながら、書類を指で叩いた。
ルカ・ウィスタリア。
美しい絹糸のような銀髪に、深蒼色の瞳を持つ天才肌の聖魔術士だ。
十四歳の時に理の天秤の中枢であるアルネフォロス中央魔術研究院に入り、わずか五年で教授に次ぐ官職『特務研究官』に任命されている。
それから多くの部下を従えて魔術研究分野の最先端で活躍していた。
その彼が、初等魔術学校への出向を命じられた。特務研究官のルカ・ウィスタリア様が来月からは子ども達の教育係だ。正真正銘の左遷である。
中央魔術研究院に所属する魔術士は、最高位の官職である教授のもとについて、その支援を受けなければ研究活動を行うことができない。
教授の実質的な仕事は研究そのものではなく、魔術士達の指導を担当するかたわら外交的な業務を行い、研究資金を調達することだ。
指導下にある研究者が素晴らしい成果を上げた場合、
教授が自らの名誉のためにその手柄を奪ってしまうことは、さほど珍しくはない。
これで召喚陣はウォーレンが完成させたも同然。かわいそうに、不憫にもほどがあるわ
それはどうかな?
部屋の奥で影が揺らめいた。
運命に選ばれし者でなければ、《イリス》の召喚陣を描くことはできぬ
……
十四年前。
古代遺跡で発見された一枚の石版から四番目の《大いなるもの》の存在が明らかになった。
その名は、《イリス》。
未知なる《大いなるもの》である《イリス》を呼び出して、真実の名を聞き出し、その存在を認知できれば、この王国に新たな魔術系統を樹立することができる。
魔術研究機関は、《イリス》の話題でもちきりになった。
未知なる存在を意図的に呼び出すには、『召喚術』を用いるしかない。あらゆる物質を記号化した『魔術符号』を組み合わせて、召喚対象を意味する図式(召喚陣)を作り、膨大な魔力を注いでこの場と召喚対象の居場所を繋ぐ。これが召喚術の手法だ。
神も、巨竜も、音霊も、偉大なる先人がこの方法で呼び出している。
召喚術は三系統の魔術のどの分野にも属さない特殊な研究であり、魔術士であれば誰でも手がけられるというものではない。召喚陣を作り出す作業には、卓越した知識と非凡な奇知が要求されるからだ。
魔術士にとって《イリス》は憧れの存在だが、その召喚陣の研究に手を出そうとする者はほとんどいなかった。何しろ、王国暦が綴られるずっと前――神話の時代から、《大いなるもの》の召喚を成し遂げた人間はたった三人しかいないのだ。
途方もなく難解で崇高なロマンだった。
その研究をルカは手がけていた。
すでに研究はまとめの段階に入っていた。
召喚陣が学会で認められれば、一度だけ魔力炉を思いのままに使用して公開実験を行う権利が与えられる。
そこで《イリス》の召喚を成し遂げることができたら、彼は王国において最高の栄誉を手にしただろう。
未知なる《大いなるもの》の召喚を成し遂げることは、歴史を動かすことと同義だ。それ相応の、魂の質が求められる
ルカ・ウィスタリアにはそれがあるとでも言うの?
じきにわかる
……
マナグレースは部屋の奥を苛立たしげに睨んでいたが、
おどけるように肩をすくめてグラスに葡萄酒を注いだ。
少々、飲みすぎではないか? マナグレース殿
いいじゃない。景気づけよ
それより自分の心配をしたらどう、『天眼』グラム
理事の先生がたはカンカンよ。理の天秤に、いつまでも休業中の占術士はいらないわ
わしは運命に従っているまでだ
あら。それは廃業宣言かしら?
茶化すように言って立ち上がり、マナグレースは扉の側に足を進めた。
教えておいてやろう。これから、奴の周りでひとつの物語が紡がれる。それは世界の運命に関わる物語だ
見逃さぬように気をつけることだな。さもなくば、歴史の外側に弾き出されるぞ
……