みのり

あ、家に電話しなきゃ

角を右に曲がりかけたところで、みのりはそう思った。親が心配しないように、まっすぐ帰る時以外は家に電話することになっている。
角を曲がったみのりは足を止めて、携帯電話を出して家に電話をかけた。
『…番号をお確かめの上、もう一度おかけ直しください…』
その番号は使われていない、というメッセージ。

みのり

え?なんで?!

電話番号はアドレス帳から呼び出したもので、昨日まで普通に使えたから間違っているはずがない。
首をかしげながら、もう一度みのりは通話を試みた。でも同じだった。

みのり

家の電話が、どうかしちゃったのかな…?

そう思って、今度は母親の携帯電話にかけてみたけど、そちらも同じだった。もう一度やってみて、それから父親の携帯電話も試してみたけれど、同じメッセージが流れるばかりだ。

みのり

な、なによこれ………

不安と心細さが、みのりを覆い始めた。

みのり

…そうだ、電波の調子が悪いと、こうなるのかな…

無理やりそう考えて、みのりは電話機のディスプレイに注目した。お気に入りの壁紙を背景にして、真ん中に年月日と時刻が大きく表示されている。

みのり

え?!二〇二四年?!

ディスプレイは、十年後の日付をさも当然のように表示していた。

みのり

うわ!

そこで、いきなり強い風が吹きつけてきた。雪が舞い踊って、みのりの視野が真っ白になる。さっき傘を飛ばされた彼女は思わず両手で傘をかばい、そのせいで携帯電話が雪の上に落ちた。

風はすぐに止んで、静かになった。みのりには、早鐘みたいになった自分の胸の鼓動が聞こえている。

みのり

……………

おそるおそる、みのりは電話機を拾う。電話機は開いたままだったので、嫌でもディスプレイが見えた。

みのり

あれ?

日付は、二〇一四年の十二月に戻っていた。
家の電話番号をリダイヤルすると、すぐに呼び出し音が聞こえた。

みのり

もしもし、お母さん?…ごめんなさい。えっと、友達と話しとって、電話するの忘れちゃって…でも、もう家のすぐ近くだから…うん。じゃあね

訳が分からないまま通話を終えたところで、みのりは妙な予感を覚えてハッとした。後ろを振り返るや、お姉さんのアパートの方へ急いで引き返す。
アパートは影も形もなくて、そこには、みのりが見覚えていたとおりに古い二階屋が建っていた。
さっきまで間違いなくあったものが、跡形もない。信じられなかったが、ないものはなかった。

みのり

二〇、二四年………

みのりは次々に思い出す。カントリーマアムのスパイシーわさび味、聞いたこともない漫画を当たり前のように扱うお姉さんたち、見たことのない形のタブレット、急に姿を消した桜の木…。

みのり

あれは…十年後の世界、だったんだ………

お姉さんと過ごした時間の記憶が、みのりの中でもう一度回り出す。

みのり

あのお姉さんは、みのりさんは………

十年後に二十六歳の、自分と同じ名前で、自分とそっくりな顔の人。その人が十年前に、この近くに実家があって、自分と同じ高校で絵を描いてて、自分と同じに同性の友達に恋してて、荒木っていう部活の友達がいて顔までそっくりで…

お姉さん

兄弟以上かもね

お姉さん

あなたは私そのものだから

……………………。

みのり

………私だ。十年後の、私だったんだ

降りしきる雪の中で、口に出してみのりは言った。

みのり

だから、全部分かってたんだね。私の悩みも、十年前から私が来ることも…

分かった上で、とぼけ続けていたことになるけれど、みのりにそれを悪く思う気は全く起こらない。

みのり

…ありがとう

親身に話を聞いてくれて、もっと迷ってみるという答えをくれた未来の自分に感謝しながら、みのりは雪を落とし続ける暗い空をしばらく見上げ続けた。

みのり

でも………

空を見上げるうちに、みのりは別のことを考え始める。

みのり

あの私は、十年後の私は………幸せなの?

十年後のみのりは、今の彼女が抱えている悩みを解決して、そこそこに楽しそうだった。
…でも、学生用の狭いアパートで、灯油代惜しさにドテラを着込んで炬燵で暮らす姿は、みのりが望む未来とは悪い方にかけ離れている。同性しか愛せないのも変わっていなくて、変わる気配もないと言う。
あのまま五年も十年も一人で生きていくのか、というより、生きていけるのか…
そう考えると、みのりは暗い気持ちにならざるを得なかった。
表通りから、車の音に混じって路面電車の警笛が響く。少し大きな警笛の音に、みのりは我に返った。

みのり

あ、帰らなきゃ

ふたたび四つ角に戻って右へ曲がり、みのりはほどなく家に帰り着いた。玄関には明かりがついていて、窓にも明かりが見えた。門の前後は雪かきがされていて、車も帰ってきている。

みのり

私が高校を出て何年かしたら、東京に戻っちゃうんだね…

しばらく家を見上げてから、みのりは門をくぐって玄関を開けた。
家の中はさっきまでいたアパートの部屋よりも暖かく、それが今の彼女の日常だった。

みのり

…十年後のあの私は、幸せなの?

両親と夕食を囲んでいる間も、風呂に入っている時も、部屋で過ごしていても、みのりはそのことを考えていた。否定的な気持ちの方が強くて、それは悩ましかったけれど、今夜の彼女はすぐに寝つくことができて、久しぶりによく眠った。


雪は未明まで降り続いたが、翌朝はこの土地の冬にしては珍しく、きれいに晴れた。
みのりは昨日よりも早くに起こされた。雪かきをしなければならないし、それに合わせて朝食も早くなる。彼女に限らず、この土地の人はみんな、雪が降るたびに二時間近い早起きを強いられる。
ただ、今朝のみのりは気持ちよく早起きができた。雪かきでもよく働いて、朝食もしっかりと食べた。

お姉さん

今ここで迷えるのは、幸せなんだよ

門を出て、両側に高く雪が積まれた道を歩きながら、みのりは昨日聞いた言葉を頭の中で繰り返す。

みのり

…もしも普通の高校に行ってたら、私は今、悩んだりしなくて済んでた

道の真ん中にもザラメになった雪が残っていて、歩くのに合わせてジャリジャリと音がする。

みのり

けど、それってただの先送りだし、それに普通の高校に行って、後になってから美大に行きたいって思ったって手遅れだったし…
でも、私は今、どっちにしようか悩めとるし、迷えとる…

やがて、みのりの好きな、道に枝を広げる桜の木が見えてきた。真下まで来てから立ち止まって、彼女は凍てついた桜の枝を見上げる。

みのり

…今から十年以内のどこかで、見られなくなっちゃうんだね

春に咲く桜を思い浮かべると、淋しい気持ちになった。それを振り払うようにして早足で歩き、角を曲がって表通りに出る。
みのりはコンビニに入って菓子売り場を見てみたけど、カントリーマアムのスパイシーわさび味はなかった。
消雪パイプの水で濡れた車道を渡って、路面電車の停留所にたどり着く。

みのり

絵が描きたいって私が思ったら、描ける。
でも…

電車を待つ列の後ろに立ったまま、みのりは考え始めた。

みのり

…やっぱり、あの私が、幸せなのかどうかだ

好きだと思うままに美術の方を選べば、見てきたとおりの未来が待っている。その未来の自分が幸せだったら、もう何も迷うことはない。

みのり

だけど、あれはちょっと……

今のみのりからすれば、あの未来の自分の姿はやっぱり、みすぼらしいとしか思えなかった。

一両きりの電車が停留所に入ってきた。列に続いて、みのりも乗車口のステップを上がる。車内には立ち客が大勢乗っていて、みのりは近くの吊り革を掴む。

ドアが閉まる音。うなるような低い響きとともに電車が動き出した。

みのり

…けど、あんなに優しい顔や楽しそうな顔は、不幸だったらできん気がする

その優しさや楽しそうな感じが、みのりの心を解きほぐし、悩みから救った。
あの笑顔や優しさは今でも彼女の心をとらえているし、だからこそ
「もう少し迷ってみる」
とみのりは思えている。
不幸だと決めつけるには、十年後の彼女は魅力がありすぎた。

みのり

でもやっぱり、あんな暮らしは嫌だし、あれが私の未来だなんて…

相反する二つの思いが、みのりの中で行ったり来たりを続ける。電車は道路の上を走ったり止まったりしながら、さらに乗客を拾う。乗車口の近くにいたみのりは、いつしか反対側の窓のそばに立っていた。

みのり

…ていうか、未来って変えられるの?

すれ違う電車もやはり混んでいるのを目にしながら、みのりはふと思った。
昨日、彼女が見てきた未来は現実そのもので、変えられると思うには重すぎた。

みのり

けど、このまま受験のための授業を選んじゃえば…変わるよね

美術の専門的な授業は、美大の入試の実技試験に備えるためでもあるから、その授業を取らなかった時点で、美大の入学試験が受けられなくなる。

みのり

でも、変わってどうなるか、だけど…

十年後の荒木ちゃんが話していたことが、みのりの頭によみがえる。
大手企業や公務員でも、少なくとも十年後には仕事や給料が思ったより過酷になっていること。そして…
『給料がいいからとか、安定してるからっていう気持ちだけじゃ、働き続けていくのは無理だと思う』
その一言を頭の中で転がすうちに、みのりの心に戸惑いが広がる。

みのり

…それ以外の気持ちなんて、私、持てるかな。ていうか好きで希望しとるわけじゃないから、仕事の内容も調べとらんし…

電車が止まり、ドアが開く音。人がまとまって降りる動きがあった。
駅前の停留所。入れ替わりに乗ってくる客も大勢いるものの、ここからは人が少しずつ降りるようになる。
車内の空気が入れ替わったところで、電車が動き出す。短い間隔で停留所が続く。

みのり

その前に…変えちゃって、いいのかな?

みのりは声を出さずにつぶやいた。十年後の自分が言った言葉を彼女は思い出している。
『決めるのはみのりちゃんだから、どんな結論でも私は悪く思ったりしない』
文字どおりに取れば自由に決めていいということだし、本人もそういう意味で言っていた。

みのり

でも………十年後のあなたは、きっと、幸せなんだよね

昨日会った十年後の自分を思い出すと、その表情や言葉はやっぱり頼もしくて、何かを後悔していたり、強い欲求不満を隠したりしているような影は少しも思い当たらない。
それに、最後こそ結論をみのりに委ねたけれど、それまでは、自分と同じように好きな道へ進んで東京に行くことを、ずっとみのりに勧めていた。
もし失敗したと思っているなら、未来を変える方を強く推すはずだ…みのりはそれに気がついた。

みのり

もし私があの立場で、自分の進路を後悔してたら…絶対そうする

みのりはもう一度、あの十年後の自分は幸せなんだと思い直した。少なくとも、そう信じたいと思った。

みのり

でも…

そこでまた、彼女は今の自分の目線で十年後の自分の姿を見つめてしまう。
あんな一人暮らしは絶対に嫌だし、しかも同性しか好きになれないままで、だから、その一人暮らしがずっと続くことになる。
地元の国立大学を目指す道を選べば、そんな未来は避けられるかもしれない…。

桃乃

みのり、おはよー!

後ろから聞き慣れた声がして、みのりはドキッとした。

みのり

桃乃…

桃乃

学校に来て大丈夫なん?無理しちゃダメだよ

桃乃はもちろん何も知らずに、みのりの目の前まで顔を近づけてくる。

みのり

うん。もう平気

桃乃

でも…なんかちょっと辛そうに見えとったけど…

みのり

ああ…ちょっと眠いだけ

桃乃

なぁんだ。早く寝なきゃダメだよ!

隣に並んだ桃乃が手をつないでくる。いつものことだが、今日のみのりはいつも以上にドキドキした。

みのり

桃乃、今日は電車なんだ

桃乃

だって、家のまわりとか雪だらけだし…昨日、すごかったねー

みのり

うん。すごかった

たわいのない話をしながら、みのりは桃乃の横顔を見つめる。

みのり

…こんな近くにいても、結局、思い出になっちゃうんだね…

昨日、未来の自分から聞いた話を思い出しながら、みのりは確かめるように頭の中でつぶやいた。
でも確かめたところで、目の前の桃乃に対する気持ちが冷める気配はない。
みのりは、胸が苦しくなった。

みのり

こんなに苦しいのが、懐かしい思い出になるなんて…信じられない…

そう思いながら、みのりは桃乃と会話を続けている。電車は走ったり止まったりしながら、乗客を少しずつ降ろしていく。

みのり

でも、どうせ叶わないなら…懐かしい思い出にできた方が、ずっといい。苦しい記憶のままよりも、いい思い出の方が…

やがてそれに気づいたみのりは、いつか自分も、あの未来の自分みたいに強くなりたいと思った。
電車が、ゆっくりと止まった。学校の最寄りの停留所だ。

桃乃

降りるよ、みのり!

わ、わかっとるよ

桃乃に手を引かれて、みのりも路面電車を降りる。二人は同じ制服姿に混じって歩道橋へ上がり、車道を越えて階段を下りて、少し歩道を歩いてから学校の門に吸い込まれていく。

みのり

あ、荒木ちゃん、おはよー

みのりが小柄な少女に声を掛ける。

荒木ちゃん

みのりと桃乃、おはよー!

少女は挨拶を返しながら、二人に向かってキョロリと目を見開いた。

桃乃

アハハッ!…もう、挨拶しながら変顔するのやめてよ。朝からツボっちゃうじゃない!

荒木ちゃん

変顔じゃないもん!クセなの!

みのり

分かった分かった。二人とも、行くよ

新しい一日を始めるために、みのりは二人と一緒に生徒玄関へ入っていった。
二学期はあと七日で終わり、冬休みを挟んで、一月のなかばに来年度の授業を最終決定する期限が来る。
それまでに、みのりがどんな風に迷って、どんな結論を出すのかは分からない。
でも、昨日会った十年後の自分みたいに、後悔なく生きたい、自信を持って生きたいということだけは、みのりは強く思っている。

『もっと後じゃなくて、あの時に迷えてよかったって思ってる』

自分もいつか、十年前から訪ねてきた自分にそう言いたい。
今のみのりは、そう思えているはずだ。

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