開いた目に映った天蓋を見て、竜也は昨日の出来事が夢ではなかったと理解した。肉体を離れ精神のみの存在になったが、やはり人は眠らないと思考がパンクするものらしい。
希望に沿った寝具を何でも用意すると言われて、竜也が希望したのは洋画とアニメでしか見たことのない天蓋付きのベッドだった。古城のようなこの空間にはなかなか趣が似合っている。
もちろん竜也が普段こんなベッドで寝ていたというわけではない。まるで月も星もない夜空のような壁と天井に囲まれていては不安で眠れそうになかったからだ。

竜也

やっぱり変わらなかったか

薄いカーテンをめくった先は変わらず薄暗く夜空色の壁面が竜也を見つめている。時間が経てば夜が明けるようにこの薄気味悪い空の色も変わってくれるかと思っていたが、そうはいってくれないらしい。

シェイド

どうだ、よく眠れたか?

竜也

そうだな、まぁまぁってところかな

どこかから帰ってきたらしいシェイドに声をかけられる。昨日のメイド服ではなく、今はジャージ姿。肉体がないということだからトレーニングなんて意味はなさそうだが、趣味として何か運動でもしているようだ。
根っからの運動嫌いの竜也には意味もなく体を動かすなんて考えたくもない。出来ることなら今すぐここに机とパソコンを用意して日がな一日眺めていたいくらいだ。

シェイド

少しは体を動かしてみたらどうだ? 意外と頭がすっきりするぞ

竜也

閉じ込められててどうしろって言うんだよ

ワンルームマンションの一室くらいの広さがあるこの魔法陣の中ではあるが、すでに天蓋付きの大仰なベッドが置かれているし走り回るには狭すぎる。
何か器材があるわけでもないし、簡単に体を動かすと言われても竜也には何も思い浮かばなかった。思い浮かんだところで竜也自身は体を動かす気などさらさらないのだが。

シェイド

まぁ、それもそうか

納得したようにシェイドは息を吐いた。どうやら竜也の運動嫌いを一瞬にして見抜いたらしかった。自分の一番好きな部分というのは相手が嫌いかどうか驚くほど簡単にわかるものだ。

竜也

そういえばタナシアは?

シェイド

相変わらずふてくされている。審判の対象がここに来たらいつもああだ

竜也

いつも、ってことは結構長いのか?

シェイド

私はここでは一番の新参者だから詳しくは知らん。だが少なくとも私が来た三年前にはもうあの状態だったな

三年職務放棄って、と竜也は呆れて顔が歪んだ。いったいどんな職場ならそんな状態を放っておくのか。少なくとも日本ではありえない光景だろう。初対面からして態度が子供っぽかったが、性格も根本的なところまで子供のようだ。
天使は天真爛漫なものとはいえ、実際に遭遇すると意外と呆れてしまうというか、何か残念なものを見た気持ちになる。

シェイド

ただ今回は少し機嫌がいい方だぞ。お前のおかげだろうな

竜也

俺の? どうして?

シェイド

じめじめした陰湿な感じはないからな。私も久しぶりに人らしい人を見た

ここは暗い人間ばかり来て困る、とシェイドは首を振る。フィニーも言っていたが、ここに来る人間はほとんどが若くして病気や自殺によって命を落とした者が集まってくる場所。それぞれに何か心に闇が巣食っているような者ばかりだ。その中で竜也は天使の存在を求めて迷い込んだ異端者だ。

竜也

とにかくここにタナシアを呼んだりできないのか? 俺はここから出られないんだろ?

シェイド

結界はタナシアがかけたものだからな。私たちには取り外せない。まぁ、心配せずともそのうち顔を見せるさ

そのうちというのが期限に定められた一週間に間に合うのか。フィニーもシェイドもどこか確信めいた様子で話しているが、昨日のタナシアの態度を見る限り竜也にはどこか機嫌がいいと言うのかまったく理解ができない。
立ち去ろうとしたシェイドが魔法陣から足を出す。
その瞬間に小さく何かがぶつかる音がした。

シェイド

痛っ、私も少し乱れているな

竜也

どうしたんだ?

額を抑えたシェイドに問いかけるが、なんでもないと答える代わりに右手を振ってそのまま立ち去った。シェイドが通った場所には当然に何もぶつけるようなものはない。ただ昨日フィニーに教わったとおり竜也を閉じ込める魔法陣があるだけだ。
立ち話で疲れた足を休めるためにベッドの端に腰を下ろす。シェイドはフィニーが昨日歩いていった方とは違う廊下に消えていった。死神を名乗った彼女たちにはこの薄暗い空間でもはっきりと先が見えているようだが、竜也にはほんの数メートル先からさっぱり奥が見えてこない。

竜也

暇だな

いっそ惰眠を貪ってみようかとも思う。どうせ自分にできることなどここにはない。
学校なんて、勉強なんて、宿題なんて。
いつもはそう感じていた日々の事柄も手元から零れ落ちていくと急に大切なものだったように思えてくる。
竜也はベッドに身を預けるように体を倒した。フィニーが用意してくれたベッドは相当いいもののようで柔らかすぎて不安になるほどだ。

イグニス

おや、ふて寝ですか? 面白い人間がいると聞いてきたのですが

その声に竜也は寝かせたばかりの体を跳ね上げた。未だに聞いたことのない声。少し高いが男のもののようだ。丁寧な言葉遣いの割にはどこか自信ありげで優越感の色が混じっていて竜也はあまり好きになれなかった。

竜也

今度は誰だ? 俺は見世物じゃないんだけど

イグニス

おや、これは失礼。ではどういった用件ということにしましょうか?

竜也

……なんでもいい

にこやかに微笑んで言った言葉には少しの反省もない。やっぱり好きになれそうにない奴だ、と竜也は気だるそうに腰を上げた。
人間の男としてはあまり大きくない竜也より一回り背の高いその男は、燃えるような赤い髪とどこか飄々とした微笑みをたたえ、修道士のような黒いローブを羽織っている。右手には小さな手帳を開き、中身を知ることはできないがなにやらわざとらしく首を縦に揺すっている。
その行動ひとつひとつがどうにも竜也の癪に触る。少し考えてその顔が美形であるからだと気付く。
切れ長の目に真っ直ぐの鼻筋、高い鼻、薄い唇。
こういう奴はなにをやっても華がある。それをわかっていてわざわざ挙動を大げさにする輩がどうにも嫌気がするのだ。

イグニス

しかし殺風景ですね。あなたがふて寝したくなる気持ちもわかりますよ

竜也

別にしてねぇよ

この言葉は嘘ではない。もうほんの数秒後には寝るという体勢には入っていたが、完了はしていなかった。そう胸の内で竜也が言い訳を並べるのも目の前に男との格差によるものか。

イグニス

そうですか、まぁよいです。そんなあなたに一つプレゼントです

赤髪の男がそう言いながら今しがた自分が歩いてきた方を見やる。するとそこから真っ白なテーブルセットを抱えたフィニーがさして辛くもなさそうに歩いてきた。
小さなものとはいえフィニーは片手に一本足のテーブルを抱え、もう片手にイスを二脚を持っている。小柄な体にいったいどこにそんな力があるのか。昨日だってこの大きなベッドを一人で抱えてきたのだから、彼女にとっては大したことではないのだろうが。やはり可愛らしい見た目をしていても死神は死神ということか。

竜也

で、なんだこれは?

イグニス

テーブルセットですが?

そんなことは見ればわかる。確かに真っ白で飾り気の少ない一品は古城の中庭のような竜也の仮宿にはなかなか似合っている。しかし、暇な人間に対してのプレゼントがこれではちょっと物悲しい。このテーブルが活躍するような何かがなければ悲しさが増すばかりだ。

イグニス

天蓋付きのベッドなんかで寝ているくらいですからこういう家具なら気に入るかと思いましてね

竜也

別に好きでこれに寝てるわけじゃねぇよ

イグニス

まぁそうでしょうね。これも私が立ち話が嫌なので持ってきただけですから気にしないでください

てめぇ、と漏らしそうになった声を喉の奥に押しやった。顔だけじゃない。やはり言葉の端々に滲み出る性格の悪さに竜也はいらつかされる。ただその中身を少しも隠そうとはしないところだけは竜也にも好感が持てた。
人間なんてものは多かれ少なかれ誰かに嘘をついているものだ。それがないことがありありとわかるこの男は素直に生きられるほど馬鹿なのか強者なのかのどちらかということだ。それは弱い竜也にとっては気に障ることでもあり憧れでもある。
フィニーが置いたテーブルセットに早々に腰をかけ、赤髪の男は左手で小さく手招きする。そのしぐさに竜也は素直に従った。

竜也

紅茶でも飲みたくなるな

キズも曇りもないテーブルの上にはさっき赤髪の男が持っていた薄汚れた手帳があるだけだ。肉体がないから食事を摂る必要がないとはいえ、十数年に渡ってやってきた習慣がなくなるというのはどうしても違和感があった。

イグニス

ほう、紅茶ですか。確かにここでは物を食べたり飲んだりしないですからね。そういうのも面白いかもしれません

竜也

何が面白いんだよ。っていうかお前は誰だ?

考え込むように顎に手を当てた美青年に竜也はようやく問いかけた。出会った瞬間から完全にペースを握られてしまっている。自分のことが一番重要という考えを少しも隠そうとしないこの男に既に振り回されて疲れてきた。暇でしょうがないと思っていたが、こうしてみると暇なことも悪くないと思ってしまう。

おや、名乗っていませんでしたか? 天界では私を知らない者はいないのでつい忘れていましたよ

竜也

悪名高そうだしな

にやりと笑った竜也に男は苦笑いを返す。一つ言い返してすっきりした竜也は背もたれにだらりともたれかかった。

イグニス

意外と言ってくれますね。私はイグニス、彼女らと同じ死神です。まぁ端的に言ってしまえば上司と言ったところでしょうか

竜也

上司?

イグニス、と名乗った男の顔を竜也はまじまじと見た。確かに三人よりは年上に見えるが、それでも二十歳そこそこくらいにしか見えない。老け顔なら高校の同級生に紛れ込んでいても違和感はないだろう。
だが、あくまでもそれは人間でも話だ。フィニーがその小柄な体に竜也を優に上回る身体能力を持っていたり、タナシアがあんななりでシェイドとフィニーを従えていたりするのだ。人間の常識が死神にそのまま当てはまるものではない。

イグニス

はい、その通りですよ。何か聞きたいことがあればなんなりと

竜也

俺のところに来るより先にやることがあるんじゃねぇのか?

竜也は言ってしまえば裁かれる身だ。死神にとってはそれほど大きな存在でもないことを竜也は自覚していた。イグニスが上司だと言うのなら、何よりもやるべきことは竜也を放り出したままどうしようもないほどに仕事をしない部下の説教だろう。

イグニス

それと少しくらいは関係があってあなたに会いに来たのですよ

竜也

俺と?

オウム返しにイグニスの言葉を繰り返す。フィニーといいシェイドといい妙に竜也に期待をかけているのが気にかかる。特別何か力を持っているわけでもない。相手は死神といえど女の子だ。人間相手もまともにできない竜也に誰かと交流をして説得するなんて人選ミスもはなはだしい。

イグニス

えぇ、どうやら私の持っている情報ではあなたはタナシア、いえタナシアに似た少女に憧れを抱いている。中身はあんなのですが、お近づきになるには悪くない相手でしょう?

竜也

だったらなんなんだよ?

イグニス

あなたがタナシアと恋仲になりたいというのならご協力しましょう、というご提案です

にっこりと笑ったイグニスと対照的に竜也の顔は引き攣っていた。
この爽やかなイグニスの表情を見れば彼にとって恋仲などという言葉はそれこそ日常よくある関係の一つに過ぎないかもしれない。しかし、竜也にとっては誇張なしに最も縁遠い言葉だといってもおかしくはない。
生まれて死んで一五年。そんな相手などいたことはない。別におかしくはないはずだ。中学生のうちから付き合っているだの別れただのという話は耳にしたし、高校生になった途端に焦ったように恋人を見つけてくる奴もいる。だが、決して今まで彼女がいたことがない竜也が圧倒的少数派ではない。
明らかにイグニスの期待は間違っているのだ。

竜也

何企んでんだ?

イグニス

いえ、企んでいることなどありませんよ

そう言いながらイグニスは薄く浮かべて微笑を崩さない。その表情だけで世の女性の半分くらいは彼を勝手に優しい人物だと勘違いさせられるだろう。ただ竜也にとっては見慣れているほど嫌味な顔だった。

竜也

何か悪いことを考えている奴はたいていそんな顔でそう言うんだよ

イグニス

いやはやそう言われましてもね

それでも微笑みを絶やさないのは彼の経験からかそれとも本心からなのか。元々こういう顔だったのかもしれない。

竜也

とにかく今はそんなこと言ってる場合じゃねぇよ。俺はここから帰らなくちゃいけねぇんだから

イグニス

だからこそタナシアと良きように、と言っているのですよ

堂々巡りする話に竜也は頭がくらくらする。話が通じない人間は嫌いだが、わかっているのにわざわざ話を進めない人間はもっと嫌いだ。まして向こうの方が情報を持っているとなれば話には付き合ってやらないといけないといオマケまでつく。
だから人と話すのは嫌いなのだ、と竜也は涼しい顔で座る赤髪を睨みつける。

イグニス

タナシアの職務放棄は人間不信によるものですから。あなたを利用、もとい手助けしようということですよ

竜也

本音が漏れてるぞ

イグニス

いやはやこれは失敬

イグニスは開いた手帳で自分の顔を隠す。それに意味がないことなどお互いに承知のことだ。彼にとっても今の言葉は失言ではない。ただ竜也をからかっているだけのことに見える。竜也が興味を示さなければそれまでのことと思っているのだ。
彼が竜也を訪ねてきたのは竜也の身を案じているわけでもなく、タナシアを更正しようとしているのでもなくただ単に面白そうだったからという好奇心のみのことだ。

竜也

それにしたってなんでアイツは人間不信になったんだよ?

三人ともそうは言うもののタナシアが人間不信だという理由も程度も話そうとはしない。シェイドは知らないと言っていたが、このイグニスの態度を見ているとそれも本当なのかと思えてしまう。

イグニス

さぁ、そこまでは私も。そういうことは本人に聞いてみるのがいいのではないですか?

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