誰かが頬をつついている。その感覚で竜也は目を覚ました。
授業中に居眠りをして隣の席の女の子につつかれるなんて想像はしたことがあるが、実際にされたのは初めてだ。鋭敏な頬の感覚に女性らしい柔らかな指先が触れている。
ゆっくりと目を開けた。
薄暗い部屋の中でぼんやりとあどけない少女のような相貌が浮かび上がる。
金色の髪を揺らし、ぼんやりとした瞳でこちらを見つめている。少し丸みを帯びた輪郭も長いまつげも金色に光る美しい髪も。
その顔に竜也は見覚えがあった。

竜也

フィーユ!

フィーユ?

……

その顔は何度も画面越しに見たフィーユそのものだった。携帯の画面と比べる必要すらなく、竜也の脳裏に焼きついたあの姿と寸分の狂いもない。

あの、大丈夫、ですか?

優しげな声も想像していたものと同じだ。見れば見るほどフィーユとしか思えなくなってくる。
竜也は上体を跳ね上げるように起こし、びっくりしたフィーユと同じ顔を持つ少女に飛びかかる。

竜也

会いたかっ

シェイド

痴漢撃退っ!

無防備な横っ面を大きな衝撃が貫いた。そういえば線路に飛びこんだのだと竜也はようやく思い出す。だが、今しがたの衝撃は電車の衝突によるものではなかった。
ごろごろと冷たい床を転がり、顔を上げて衝撃の発生源を探す。見上げた先には心配そうな表情でおろおろと目を泳がせている黒髪の少女とバンテージを巻いた拳を握りこんだメイドの姿だった。
長くない髪を後ろに束ね、前髪から覗く眼光は人の姿をしているのに野生動物のそれに近い。その眼力と今や日本の文化の一部と化してしまったメイド服がまったくもって相容れない。メイド仲間を庇うように自分の体の後ろに隠して、腕を伸ばして遮る姿は劇中の主役を任された王子のようにも見えた。
その後ろには今飛びつこうとしたフィーユと同じ顔を持つ少女が冷たい眼でこちらを睨みつけていた。

竜也

なんだ、いったい?

衝撃でくらくらと揺れる頭を左手で支え、竜也は周囲を見渡す。ついさっきまではいつもの家からの最寄駅にいたはずだ。そして線路に飛び込んだ。そして、きっと入ってきた電車に轢かれたはずだ。
それなのに目の前の風景は西洋の城の一画のような雰囲気をしていた。今、竜也は小さな部屋くらいの石畳の床に転がされている。周囲は石柱のようなもので囲われてはいるものの壁も天井もない。
見上げた先には星も月もなく、ただ渦巻くような黒の空が広がっている。床はよく見てみると六芒星が白く描かれている。そしてこの中庭のような空間から三方向に数段の階段があり、どこかへ繋がっているらしかった。
誰がどう見ても現実とは思えない。

竜也

えっと、ここは?

殴られたおかげですっきりした頭には少し理解が追いつかない。天使も魔法も信じている竜也といえども目が覚めたら見たこともない世界でした、では頭を抱えることしかできなかった。
目の前にいるメイド二人に問いかけてみるが、警戒したままで答えてくれる様子はない。フィーユによく似た少女に到ってはもはや不法投棄された粗大ゴミでも見るような絶対零度の視線を竜也に送り続けている。天使がいたと夢見心地で飛びついた自分のせいだけに竜也にはなんともしがたい状況だった。

フィーユ?

寝たふりして隙をつこうなんてなかなかやってくれるじゃない

シェイド

タナシア

諌めるように言ったメイドの言葉にタナシアと呼ばれた少女が口ごもる。フィーユに似た少女は名前と、それから荒々しい言葉遣いが全く違っていた。先ほど優しい声だと思ったのはどうやら黒髪のメイドの方らしい。
目覚めた時には気付かなかったが、改めて見直すと思っていたよりもずっと幼かった。よくて中学生。もしかしたら小学生でも通用するかもしれないほどだ。
薄暗い空間でもよく映える金色の髪を無造作に二本にわけて束ね、どんよりと曇った見るからに不機嫌な瞳で床に転がったままの竜也を見下ろしている。ここの主なのか、それともその令嬢なのか。
メイド服ではなく黒いドレス調の出で立ちだが、見るとノースリーブの袖も短いスカートも破かれたように断面が粗い。自分で破いたのか、ときりりと釣り上がった目を見つめてみる。不機嫌そうな少女の面持ちを見ると気に入らないからとやっていそうなことだ。

タナシア

わかってるわよ、シェイド

シェイド、と呼ばれたのは拳を作ったまま睨みつけるメイドの名前らしい。侍従の服装をしていながら、その目は竜也に向けられたものと変わらず怒りがこもっていた。

タナシア

今回はコイツ? 思ったより若いのね

竜也の視線をせせら笑うようにタナシアは鼻を鳴らす。若いと言うタナシアの方がいくつか年下のように見えるが、もしかしたら本当に天使かもしれないのだ。見た目と不相応な年月を生きていてもおかしくない。

タナシア

でアンタ、覚悟は出来てる?

竜也

覚悟?

問いかけたタナシアにオウム返しで聞きなおす。ちょうど今しがたシェイドに覚悟もなく殴られたばかりだが、あれ以上に覚悟がいることならあまり受けたくないと思う。

タナシア

わざわざ説明しなきゃいけないの?

シェイド

それはお前の仕事だろう

また諌めるようにシェイドが溜息をつく。その様子に少しむっとしたような顔をしかめてからタナシアはさも面倒そうに竜也に語り始めた。

タナシア

えぇと、ここは人の生と死を峻別する天界機関、裁きの間。これからあなたの現世での行いを基に我々があなたの行く末を判断します。素直な心で人の時間で一週間の時を我々と過ごし、自分の身の振り方を考えてください

丁寧な言葉遣いと正反対の気だるそうな声。言わされているのがありありとわかる。タナシアもそれを隠すつもりはないらしくいい終わったそばから大きなあくびをしている。

竜也

それはどういうことだ?

タナシア

別にいいのよ、わからなくても。一週間後にアンタは死ぬ。それだけよ

じゃあね、と踵を返し、タナシアは三方向に伸びた通路の一本へ消えていった。

シェイド

あ、待て!

その後をシェイドが走って追いかける。竜也はすっかり取り残されたまま走り去るシェイドを見送った。

竜也

一週間後に死ぬ、ってことは俺はまだ死んでいないのか?

線路に飛び込んだ。フィーユは助けに来なかった。目を閉じた後のことは今になっても思い出せない。ただ死んでいないにしてもこの空間は異常だった。少なくとも病院ではありえないし、竜也の知る限り駅の近くにこんな古びた城のような建物は存在しない。
それに見上げた先にある空が真っ黒に染まっていることが世界の違いを明らかに主張している。

竜也

裁きの間、って言ってたか

裁かれるとしたら、どんなことか。自死を選んだことか、親より先に逝ったことか、天使なんて信じていたことか。

あのー?

ただ一つ言えるとすれば最後の一つは罪ではない。つい先ほど見つけたのだから、天使を。
多少性格と外見年齢に問題はあるけれど、それはイラストからは読み取れなかったことだ。それに今はあんな風でももしかしたら少しずつ態度が軟化してくれるかもしれない。
この世に天使がいるとわかった以上、このことをクラスメイトに、いや、全世界に伝える必要がある。そのためには一週間後、死ぬと宣言されたその日までにここを出なくては。あの娘を連れて。
そこまで考えたところで竜也の頬にまた指が刺さる。

聞こえてますか? もしかして私、無視されてますか?

震える声に振り返る。竜也の頬をつついていた指が深く刺さった。
その痛みもさほど気にならない。少し潤んだ目で竜也を見つめる顔を見てこちらが悪かったのだと反省するほどだ。

竜也

えっと、なんでしょう?

いきなり突きつけられた理解不能の状況と去っていく二人に気を取られてすっかりシェイドの後ろで震えていた彼女のことを忘れてしまっていた。
改めて彼女の姿を真っ直ぐ見る。ようやく気付いたが、彼女もまたシェイドと同じくメイドの格好で長い丈のスカートが汚れるのも気にせず石畳の床に膝をついている。彼女もまたあのタナシアの侍従をしているんだろうか?

さきほどから何か独り言を呟いているみたいですが、大丈夫ですか?

竜也

あぁ、わかってます。少し混乱していて

そうですよね。人間は私たちのことを知らないですし、こんな不可思議なところに来たこともないでしょうし

彼女の言う混乱と竜也の言う混乱の原因は全く違うのだが、お互いにそれとは気付かない。竜也は自分が床に座ったままだと気付いて立ち上がる。その姿に安心したように黒髪のメイドも立ち上がった。

フィニー

私はさっきの金髪の女の子、タナちゃん、じゃなかった。タナシアの補佐役をしています、フィニーというものです

立ち上がったスカートの裾を両手で払い、丁寧に竜也にお辞儀をする。ゲームでは何度か見た光景だが、本物らしいメイドにこうして目前で礼を受けるのは初めてだった。美しい黒髪を少し乱しながら頭を上げたフィニーの表情は嫌悪感に満ちたタナシアやシェイドと違って柔らかくそれだけでどこか安心できる。

竜也

それじゃ、フィニーさん。俺が今どういうことになっているのか教えてもらってもいいですか?

もちろんです、とフィニーは微笑み返す。どうしてフィーユに似たタナシアがこの性格ではなかったのかと理不尽な願いを思いついて竜也は心の中で頭を抱えた。

フィニー

ここは裁きの間と呼ばれる天界の機関です。人間界で事故や病気などで早逝した方について生死を判断する機構の第一審となっています

竜也

第一審?

フィニー

はい。近年人間界で人口の増加とともに天界に上る魂の数が増え閻魔様が多忙となっていまして、その負担を軽減するために設置されました。こちらではここに来た人間を人間界に戻すか、天界へ送るかを判断させていただきます

それは人間で言うところの生きるか死ぬか、ということだった。天上人である彼女らにとっては仕事の一つに過ぎないが、竜也にとっては大きな分水嶺と言える。

竜也

それで、一週間ここで過ごすってことですか

フィニー

えぇ、その通りです。今までの人生では善とも悪ともつかない人間を我々が確かめるということです。とは言っても根っから悪が心に巣食っていそうでもなければ生還させるのが常なんですけれどね

竜也さんは大丈夫そうですね、とフィニーは笑った。確かに竜也は悪人ではない。ただちょっと人と交流するのが苦手で、青春をマンガやらアニメやらゲームやらで浪費し、未だに空から女の子が降ってきて自分のことを好きになってくれるとか、自分に隠れた才能が開花してどこかの秘密組織と戦ったりする妄想に日々を無駄遣いしているだけだ。
とにもかくにも触らなければ害はない。夢見がちに天使の少女のイラストを眺めていても下手に囃したてなければ竜也自身も悪意を溜め込まないで済む。

竜也

でもさっきあのタナシアは俺を殺すって

フィニー

そうなんですよね。タナちゃんは今職務放棄中と言いますか、判断することをやめてただただ天界送りにしてしまっているんですよ

竜也

そんなむちゃくちゃな

たった一人の少女に気分次第で殺されてしまっては竜也としても納得がいかない。もはや命などどうでもいいと思っていた心は既にどこかに飛んでしまった。天使の存在を現世に知らしめるためにも竜也は生きて戻らなくてはならないのだ。

フィニー

ちょっと人間不信になっていまして。根はいい子なんですけど

乾いた笑いを浮かべたフィニーもフォローする言葉が見当たらないらしい。直属の上司が仕事を放り出していて内心穏やかでいられるほうが難しいのだが。

フィニー

竜也さん。よかったらタナちゃんのこと協力してもらえませんか?

竜也

何で俺が?

突然思いついたように言われて竜也は戸惑った。もしかして、これが審判、つまり自分の心の善悪を測っているのではないかとさえ思う。

フィニー

ここに来る人間というのは性質上今すぐ死にたいと嘆く者や逆に生き永らえたいと訴える者が多くなってしまうので、竜也さんみたいな人って珍しいんです。きっとタナちゃんも気に入ってくれると思います

竜也

だから?

フィニー

こういう人間もいるって思ってもらえれば、少しはいい方向に向かうんじゃないかな、と

ダメですか、と顔を覗きこまれて竜也は困惑する。断る理由はない。タナシアが心開いてくれるなら悪いことじゃない。何よりこの儚げなメイドのお願いに断りを入れる度胸が出なかった。

竜也

……わかりました

フィニー

本当ですか!? きっとタナちゃんも竜也さんのこと気に入ってますからそれとなーく距離を縮めていってください

さっきの印象を思い起こす限りではそんな様子は少しもなかったが。ともかくフィニーはどこか勝算ありげに竜也の答えにはしゃいでいる。その姿を見ても竜也にはいったいどこからその自信がやってくるのかわからなかった。
もしも自分の生活をいくらか知っているなら女の子とまともに話すことすら困難だということくらいわかっていそうなものだ。それどころか竜也は恋愛シミュレーションゲームの二択すら外すほどの恋愛音痴だというのに。
それでは、とフィニーがもう一度頭を下げた。長いスカートに厚手のメイド服でありながら、その動きは軽やかだ。泣きそうな顔で竜也の頬をつついていたのと同じには見えない。まだ聞きたいことがある、と階段に足をかけたフィニーを竜也が追いかけようと走り出した三歩目、何もないはずの空間に竜也は頭を強く打ち付けた。

竜也

痛ってぇ!

何の予測もしていなかった不意打ちに思わず尻餅をつく。石畳の床で腰を打ち、さらに悶絶させられた。そういえば左頬も殴られている。散々な日だ。

フィニー

だ、大丈夫ですか?

竜也

えぇ。それよりこれなんですか?

竜也は自分がぶつかったのはなんだったのかと前を見るが、フィニーの後ろには五段だけの短い階段と暗くて先の見えない廊下が続いているだけだ。

フィニー

ごめんなさい、言い忘れてました。ここタナちゃんが結界を張っていて、竜也さんは出られないんです

石畳の床に描かれた白い六芒星の魔法陣に触れてみる。ペンキでも石灰でもない謎の線は手で擦ったくらいでは少しもかすれる様子はない。その六芒星を囲む円に向かってゆっくりと手を伸ばす。
やはり何も見えない空間のはずなのにガラスのような冷たい何かに触れた。

フィニー

私たちは通れるんですけど、竜也さん、というか人間には通れなくなっているんです

竜也

人間には、ということはやっぱりフィニーさんたちは人間じゃないんですね?

わかっていたことだが、竜也は聞かずにはいられなかった。ここが天界だと聞いたときに竜也の中に浮かび上がった気持ちは後悔でも諦めでもなく希望だった。
竜也の目の前に立つ人間ではないメイド服の少女。彼女の口からその答えが告げられる。

フィニー

そうですね。人間界で私たちはこう呼ばれています

――死神。

今度こそ立ち去ったフィニーの後ろ姿を見送って、竜也はその場にへたり込んだ。
やはりここにも天使はいなかった。

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