朝の風景は昨日の世界を録画したみたいに何も変わりない。
寝癖のついた頭を適当にかき回し、左肩にかかった教科書の重みを確かめながらあまり人の多くない改札を抜け、ホームに向かう階段をあくび混じりにゆっくりとのぼっていく。
朝の風景は昨日の世界を録画したみたいに何も変わりない。
寝癖のついた頭を適当にかき回し、左肩にかかった教科書の重みを確かめながらあまり人の多くない改札を抜け、ホームに向かう階段をあくび混じりにゆっくりとのぼっていく。
市街から外れた住宅街の近くにあるこの駅は、乗り換え接続があることもあってかスーツ姿の人がもうすぐ着くであろう電車のドアを待ちわびて整然と並んでいた。
なんだってんだよ、まったく
木野竜也は誰にでもなくそう呟いて列の隙間を抜け、ホームの簡易イスに腰掛けた。このラッシュアワーにこんなところに座る人間などいるはずもなく、空いた席にカバンを下ろしたところで咎める者もない。
数十分おきに発着する電車には今もわずかな隙間を争うように狭い車内へと人が詰め込まれている。何が面白くてあんなことを毎朝やっているのか、昨日までそれをしていた竜也にもその理由はよくわからない。
ドアが閉まりゆっくりと動き出した電車を見送り、またホームに人の列が形成されていく。どこからか永遠に人が供給され、際限なくこの風景が続いていくのではないかという錯覚すら覚える。
昨日だって同じ景色を見た。もし違うところがあるとすれば、それは竜也の心の内側だけだ。
バカにしやがって
低く呟いた声に竜也の正面で待ちぼうけていた一人が振り向いた。不機嫌そうな竜也の顔を見てそのまま見なかったかのように向き直る。見知らぬ男子高校生、それも見るからにいらついているというなら、関わらない方が身のためだと思ったのだろう。
その一連のまともな行動すら竜也にはどこか気に障った。
――どうせコイツもそう思っているんだろう? 天使なんていないって。
振り向いた背中を睨みつけるけれど、その視線に答えはない。
竜也は意地になった自分を諌めるように一つ短い溜息をついた。心を落ち着ける代わりにポケットから携帯電話を取り出す。表示された時刻は八時と五分。次の電車くらいは見送っても学校には間に合いそうな頃合い。
そして待ち受け画面で微笑むのは片思いの少女。思春期の学生にとってはそんなに珍しいものではない。友達づてにもらったり、ちょっと隠れて一枚、ということも起きないことはない。ただそれが一枚のイラストであれば、その存在は急速に異端へと変化する。
……
……フィーユ
それが彼女の名前だった。どこで見つけたのかも覚えていない。その名前で正しかったのかもよくわからない。ただいつの間にか手元にあって、見ていると何故だか心が落ち着いた。
何か嫌なことがあった時は決まってこうして彼女の笑顔を見る。この笑顔が誰に向けられているのかはわからないが、きっと自分の方だと竜也は信じていた。
昨日のクラスメイトとの諍いもそれが原因だった。
開いた携帯の画面を後ろから覗き込まれて、勝手に笑われたのだ。だからといって怒り散らすほど子供なつもりはないが、笑顔を貼り付けて対応した竜也の心にはなんだかわだかまりが残った。
もう何度かこのやりとりを繰り返している。それでも竜也の確信が揺らぐことはなかった。
いつまでも夢見てるなよ。現実見ろよ
進学校なせいか妙に大人ぶった人間がいるものだ。本当に大人なら何も言わず放っておいてくれた方が何倍も大人だと思うが、大人ぶっているだけの彼にそんなことはわかりもしない。
携帯を閉じて立ち上がる。次に入ってきた電車に今の列が吸い込まれたら、自分もあの集団の一部にならなければいけない。カバンを肩にかけ直し、ゆっくりと立ち上がった。朝の学生にはあるまじき気だるそうな顔で竜也は形成され始めた列に身を投じる。
本当にそんなのがいると思うか?
いるに決まってんだろ
ぼそりと呟く。二列に並んだ隣の女性がびっくりしたように竜也を盗み見た。
最前列で空っぽの線路をぼんやりと眺める。これからここに電車がやってくる。何百人と言う人を乗せて鉄の塊が飛び込んでくる。そこに飛び込めばどうなるか。
来てくれるさ、絶対
黄色の点字ブロック、安全のために設けられたそれを竜也の足が踏み越える。
次の一歩を受け入れてくれるコンクリートの地面はない。
隣で悲鳴があがったことさえスロー再生のビデオグラムのように聞こえた。
電車が参ります。黄色い線の内側に立ってお待ちください
いつものアナウンスはそれを破った人間がいることも知らず、平坦な声で事務的に注意を促している。だんだんと大きくなる線路をひた走る音を聞きながら、達也は体を捻って空を見上げた。朝の太陽がホームの屋根の隙間から覗いている。
さぁ、来い。必ず来る。危機になったらあの太陽から救世主が現れるんだ。
竜也の目はしっかりと開かれたまま、春先の日に日に温かくなる太陽に注がれる。眩むような眩しさの先に願い続けた彼女の姿を探す。
フィーユはいつも微笑んでいてくれた。俺がどんなに辛いときも落ち込んだときも寂しいときも変わらずそこにいた。消えてしまいたいと思ったときは夢の中で囁い
てくれた。
本当の本当にあなたがどうしようもないときは必ず助けに行きますよ
そう言っていたはずなのに。
その光を浮かぶ雲が遮った。
やっぱり来なかったのか。正しかったのは俺じゃなかった。そう気付いたところで体は重力に引かれて線路の方へ落ちていくのをやめない。今さらどうしようもない。
別にいいか。竜也はぼんやりとした頭で雲の端から伸びる光を見つめた。
助けに来ないのなら、この世界にどんな心残りがあるだろう。
天に伸ばした腕を下ろし、瞳を閉じた。うるさくなってきた電車の音に身を任せる。
それでも竜也は最後の一瞬まで瞼の裏にフィーユの姿を思い描いていた。