第5話 恋を知った夜
第5話 恋を知った夜
八木さんとのデート当日。
約束した駅前でベビーピンクのフレアワンピを着た私を見つけると、八木さんは挨拶より先に
なつめちゃん、かーわい~
と、人懐っこい顔をさらに緩ませた。
三田先輩のアドバイスどおりに選んだ服はどうやら好評のようで、私は密かにホッとする。
こんばんは、八木さん
改めて挨拶を交わすと、八木さんはとたんに拗ねた表情になって
違うっしょ、なつめちゃん
と私に詰め寄った。
これからデートするのに“八木さん”はないでしょ?“ゆうちゃん”とか“悠斗くん”とか。せめて“悠斗さん”て呼んでよ
はあ
なるほど、そういうものかと感心してしまう。男の人って名前で呼んで欲しいものなのか。私は心のメモにそれを書き記すと、少し恥ずかしいなと思いながらもおずおずと口を開いた。
じゃ、じゃあ……悠斗さんでいいですか?
けれど、せっかく名前で呼んだのに八木さん、もとい悠斗さんの表情はまだ拗ねたままだ。私何か失敗した?
あーもー、その敬語もナシ!従業員とお客さんじゃないんだからさ~。もっとさ、俺に親しみ感じてよ
なるほど
悠斗さんの言う事も尤もだと思いコクコクと頷く。
親しみね、それもそうだ。これからふたりっきりで食事をしたり遊んだりするんだから、きっともっと馴れ馴れしい方がいいに決まってる。
などと考えていると、悠斗さんは突然私の肩をガバッと抱いて身体を寄せてきた。
まあ、そういう不慣れな感じが初々しくて可愛いんだけど
で、でも。いきなりこれは近すぎませんか?
ほらまたー。けーいーご
あっ、えと、近すぎ……じゃない?
私が言いなおすと悠斗さんは満足そうにニッコリ微笑んで、一層私の肩を抱き寄せる。
そしてそのままの姿勢で歩き出すと
いーの、いーの。スキンシップだよなつめちゃん
そう言って上機嫌そうに笑った。
例え職場じゃなくても私のおっちょこちょいは相変わらずで。レストランに行く途中、慣れない新しい靴で転びそうになったり、人混みの遊歩道ではぐれそうになったりもしたけれど。
あはは、なつめちゃんはそういうちょっと抜けてる所が可愛いよね
悠斗さんは気にもしない様子で笑い飛ばしてくれた。それを聞いて、私の胸がちょっと熱くなる。
過保護じゃない、心配性じゃない、誰かさんみたいに。なんだかそれが同じ目線で扱ってくれてるようで嬉しくもあり――どうしてだろう、どこか物足りない気もする。
悠斗さんがチョイスしてくれたのはカジュアルフレンチのレストランだった。
人気のお店のようで混んでいたけれど、テーブルを予約してくれいたおかげですぐに座れた。
案内された席は夜景の見える窓の側。雰囲気が良くって、彼の手際の良さにまたもや感心してしまう。
ここのチーズフォンデュが美味いんだ、あと子牛のブレゼ。ワインは少しだけにしとこうか、これからアクアリウム行くし。赤のライトボディでいい?
てきぱきと私の好みを聞きながら注文していく彼にまたまた感心。凄いなあと尊敬の眼差しを向けながら、運ばれてきたワインで乾杯をした。
悠斗さん凄い、予約からメニューのオーダーから、何もかも手馴れてる感じ。さてはデート上級者?
上級者って。なんだか遊び人みたいな言い方やめてよ~
あ、ごめんなさい、そう言うつもりじゃ。ただ、私すっごい初心者だから、自分と比べて凄いなあって本当に感心したの
ふーん、なつめちゃん初心者なんだ?嬉しいな
悠斗さんの言葉を聞いて首を傾げてしまう。だって、なんで初心者だと嬉しいんだろう?
やっぱり男心は難しいなあなんて思っていたら、早速料理が運ばれてきて、テーブルにフォンデュ鍋がセットされた。
美味しそう。私、チーズフォンデュ食べるの初めて
本当に?熱々で美味いよ~。ほら、このフォークで具材を刺して、こうやってチーズに絡めるんだよ
悠斗さんが教えてくれた通りに習って、私もパンにチーズを絡める。トロ~リとろけたチーズがなんとも美味しそうで、零れないように口元まで持ってきたそれをパクンと一口で食べた。すると。
あっ……!!あつっ!あっつ!!
大丈夫なつめちゃん!?ほら、水!
あーまたやってしまった。
溶けたチーズに誘われて熱々のパンを冷まさずに口に入れたせいで、私の口の中は大変なことに。
すぐに冷えた水で流し込んだけれど、口の中は火傷しちゃうし、いきなりカッコ悪い所みせちゃったしで、大失敗だ。
水を飲んだ後の口元をぬぐいながら、肩を落としてションボリと悠斗さんに謝る。
ごめんなさい、せっかくのデートなのに変なとこ見せちゃって
ああ、これがもし常盤主任だったら。きっと私がパンを口に運ぶ前に『熱いぞ』『気をつけろ』って散々うるさく言ったんだろうなあ。それで、私が火傷したら困ったような顔をして『だから言ったじゃないか、全く世話がやける』ってお説教したに違いない。
きっと悠斗さんも呆れてる。さっきまでは大らかに笑って見逃してくれたけど、さすがに今のはカッコ悪すぎた。
そう思ってうなだれてた顔を戻し、チラリと悠斗さんを見やったけど。彼は呆れてるどころかニコニコと嬉しそうな笑みを浮かべていた。
気にしないで、そんななつめちゃんも可愛いから。それに、ちゃんと“デート”って意識してくれてるんだなーって、ちょっと嬉しかった
ゆ、悠斗さんってポジティブ……!
どんな醜態を見せても動じない悠斗さんに、逆に私の方がビックリしてしまった。
まるで、心配性の常盤主任とは正反対……って、私なんでさっきから主任のこと考えてるんだろう。
そうこうしているうちに次の料理も運ばれてきて、
さ、どんどん食べよう
という彼に促されて、私は美味しい食事を再開させた。
あー美味しかった。ご馳走様でした
レストランを出て、ペコリとお辞儀をしてお礼を述べた私に、悠斗さんは
どういたしまして
と微笑んだ後、来る時と同じように再び肩を抱いた。
うーん、やっぱり近すぎる気がするけど。でもこれもスキンシップ、デートの勉強だもんね。もしも常盤主任だったら、きっと肩なんか抱かず手をぐいぐい引っ張って歩きそうだけど。『迷子になったらどうするんだ』なんて。
そんな主任の姿を想像して、ひとりクスッと笑いを零してしまった自分に驚く。
わ、私、なんでまた主任のこと考えてるんだろう!変なの!今は悠斗さんとデートしてるんだから集中集中!
ひとりで笑ったり顔を引き締めたりしてる私を見ながら、悠斗さんは不思議そうな表情をしてから
なつめちゃんて本当に面白いよね~
なんて笑っていた。
そうして肩を抱かれながら歩くこと15分。次の目的地、ナイトアクアリウムに到着した。
水族館は来た事があったけれど、ナイトアクアリウムは初体験の私。建物に入ってその幻想的な世界に目が眩む。
うわー……キレイ。こんなの初めて……
ライトダウンされた館内。水槽には珊瑚や魚がカラーライトに照らされている。まるで夜の海みたいな水槽には白く幻想的に浮かぶ海月。どの光景もロマンチックで夢みたいだった。
ウットリと水槽に映る景色を眺めていると、隣に立った悠斗さんが静かに私の髪を撫でてきた。
喜んでもらえて良かった。今日はなつめちゃん、初めての体験だらけだね
うん、こんな幻想的な水族館見たの初めて。連れて来てくれてありがとう
悠斗さんは本当に凄いな。こんなロマンチックな場所まで知ってるだなんて。
きっと、常盤主任だったら私をこんな場所へは連れて来ないもの。『暗くて足元が危ないからお前には無理だ』って。それでも行きたいって言ったら、きっと『じゃあ俺がおぶってまわってやる』なんて言い兼ねない。
…………
なつめちゃん?どうかした?
ううん……なんでもないの
どうして私……ずっと主任の事ばっかり考えてるんだろう。
隣にいるのは悠斗さんなのに。
大らかで私の失敗を笑って流してくれる悠斗さん。過保護じゃない、過干渉でもない。子ども扱いしない悠斗さん。同じ目線で関わってくれてるみたいでとっても嬉しかった筈なのに。
どうして私……おせっかい焼かれないと淋しいんだろう。
濃紺色の水槽を眺めながらボンヤリと考えている私の髪を、悠斗さんはずっと撫で続けてくれていて。
やがてその手は髪をなぞって輪郭をつつみ、ボンヤリしている私の唇にチュッと軽いキスが落とされた。
……っっ!!!??
あまりにふいうち過ぎて頭が真っ白になる。
えっ!?えっ!?今、私、何された!!?今!今!チュッって!!??
完全にパニックになっている私を見て、悠斗さんは苦笑するように目を細めて言った。
もしかしてこれも初体験だった?
その言葉で、やっと自分の身に起きた事態を把握する。
――私……キスしちゃった。ファーストキス、しちゃったんだ……
“キス”。
その単語を意識した途端、急にあの日の――エレベーターでの主任との事が胸に過った。そして。
な、なつめちゃん!?
気が付くと私は、両目から大粒の涙を零していた。
自分でもよく分からない、なんで泣いてるのか。でも、胸が痛くて痛くて仕方ない。
さっき一瞬近付いた悠斗さんの顔が、あの日の常盤主任の顔を思い出させて。それがどうしようもなく胸を苦しくさせる。
驚いて困っている悠斗さんに何か言おうと口を開くけど、上手く言葉が出てこない。どうしよう、困ったな。
ゴメンなつめちゃん。イヤ……だったんだよね?
上手く言えない私は弱々しく首を横に振る。
イヤだったんじゃない。悠斗さんは素敵な男性だもの。優しくてリードが上手くて大らかで、きっとこのままお付き合いすれば幸せになれる。それに、これはデートなんだからキスのひとつやふたつぐらいあったって不思議はない。
けれど。
――主任が良かった。初めてのキスは、常盤主任が。
そんな想いが溢れて止まらなかった。
ふたりきりの食事も、肩を抱かれるのも、初めてのキスも。馬鹿みたいに世話を焼かれながら、『まったくお前は』って溜息を吐かれながら、それでも主任と経験したかった。
泣き続ける私を、悠斗さんが心配そうに見ている。その表情にまたひとつ胸を痛めながら、私は手で涙を拭ってから口を開いた。
ごめんなさい悠斗さん。私……好きな人がいるみたい……
本当にごめんなさい、と消え入りそうな声だけど思いの丈を籠めて頭を下げた。
本当に申し訳ないと思う。デート中に、それもキスをされた直後に、自分の本当の気持ちに気付くなんて。最低の大失敗だ。
どんなに怒られても仕方ない、そんな覚悟で下げた頭を戻したけれど、悠斗さんはちょっと困ったように笑ってるだけで。
しょーがないなあ、なつめちゃんは。そんな大事な事に今気付くなんて
そう言って私の頭をポンポンと優しく撫でてくれた。
ごめんなさい……本当にごめんなさい
その優しい手が切なくてますます涙が零れてしまったけれど、悠斗さんは穏やかな笑顔のまま首を横に振った。
俺こそゴメンね。そんな人がいるのにキスしちゃって
ゆ、悠斗さんは悪くないから!だって、これはデートなんだから
あはは、ありがとうね。最後までデートって思ってくれて。それだけで俺は満足だよ。今日は色んななつめちゃんを見れて楽しかった。どうもありがとう
――生まれて初めての恋に気付いた夜は、恋の痛さも知った夜で。
駅まで送ってくれた悠斗さんの背中を見送りながら私は
(やっぱり私って全然一人前じゃない。まだまだ未熟者だなあ)
キュウキュウ痛む胸でそんな事を思っていた。
つづく