第3話 男心なんて分かんない!
第3話 男心なんて分かんない!
――24歳にもなって恋愛経験0である事を、こんなにも恨めしく思った事は無い。
地震でエレベーターに常盤主任と閉じ込められた日から、私の頭は馬鹿みたいに自問自答を繰り返していた。
だってだって。やっぱり分からない。主任があの時何をしようとしてたのか。
頬を撫でられて、顔を近づけられて、それで、名前を呼ばれて――。
そこまで考えると頭の中で
ありえなーい!!
とウブな心の叫ぶ声が聞こえる。
そんな訳で今日も私はバスタイム中にあの時の事を思い起こしながら、顔を真っ赤にして
ありえない、ありえない
と浴槽に深く顔まで沈んでいた。ブクブク。
絶対にありえない。分かってる。けれど、あのシチュエーションはどう考えても“それ”の前兆だったように思える。
いわゆる、その……き、キスではなかろうかと。
そこまで考えて私はますます赤くなった顔をさらに浴槽に沈めた。ブクブク。すっかり頭のてっぺんまで沈んでしまって、苦しくなってきたところで勢い良く顔を上げる。
けれど。上げた顔を洗い場の鏡に映せば、やっぱりどうにも
『ありえない』
の答えに戻ってしまうのだ。
だって、鏡に映っているのは『美人』とか『綺麗』って単語とは程遠い私の顔。
万が一、億が一、あれがキスの前兆だったとしてもだ。常盤主任が私にそんな事をする理由が見つからない。気の迷いすら起きそうにないと思うのだ、この顔が相手では。
やっぱりキスなんてありえない。
きっとあれは私の目のゴミでも取ってくれようとしたんだ。うん、そうに違いない。もしくは私の顔が面白くてマジマジと覗き込んだだけなのだ。
今日も今日とて自問自答を繰り返し、情けない答えへと辿り着く。
その答えは私の胸を安心させるのに、けれどどこか虚しくもあって。
やっぱ彼氏のひとりも居た事が無いから、男心が分かんないのかな。あー我ながら情けない
そんな溜息を吐き捨て、私はすっかりのぼせてしまった身体を浴槽から立ち上がらせた。
翌日の就業時間中。
なぜ神様は世界に男と女を作りたもうた……
な、なつめちゃん、何言ってるの?
カウンターでレンタル用品の整理をしながら思わず零してしまった嘆きに、三田先輩があからさまにドン引いた。
私はスポーツアミューズメントに貸し出すシューズの在庫を出しながら、顔だけ三田先輩の方へと向けて話し出す。
三田先輩。私って女子力低すぎると思いません?
え?そう?メイクも可愛いしバッグや小物のセンスも悪くないと思うけど
そうじゃなくって。なんつーかこう、恋愛的な方面で!
ああ、そういうこと。うーん、そう言えばなつめちゃんからそういう話聞いた事ないよね
ですよね!私このままじゃいけないと思うんです!世の中に男と女の二種類しか性別が無い以上、もっと男の人の事を理解しなくては!
力説してしまい思わずシューズを掴んでいた手に力が籠もる。おっと、いけない。
そんなムキになってる私を見つめて、三田先輩はどこか嬉しそうにニヤリと口角を上げた。
ははーん。さてはなつめちゃん、気になる男でも出来たな
瞳を覗き込みながら言った三田先輩の言葉に、心臓が勝手に飛び跳ねる。
な、なななな何を言うんですか!そうじゃなくって!私はただ異性の心情というものを勉強して、どうしてあの時、常盤主任が――
常盤主任?
あわわっ!!
うっかり余計な事まで話してしまいそうになって、慌てて口を噤む。
べ、別にやましい事ってワケじゃないけど。でも、事の真相がハッキリするまでは他言しない方がいいって言うか。
とっ……常盤主任が、なぜ私のおっちょこちょいを阻止してくれるのか、その謎が知りたいだけです!心理学的に!
不自然な言いワケだっただろうか。けれど三田先輩は不思議そうな表情を浮かべた後、肩を竦めて笑うと
あはは、心理学的にって。そんな、大げさよなつめちゃん。単に目の前で部下がおっちょこちょいな事してたら、助けたくなるのが人情ってもんでしょ?
とても賢く簡潔な回答をしてくれた。
なるほど人情かあ。私と主任の関係ってそういうものなのか、と妙に納得したところで、またもやさっきの疑問がよぎってしまう。
主任が私を助けるのは人情で……放っておけないって言ったのも人情だとすると、やっぱりキスされそうになったなんてのは私の勘違いに思えてくる。ううん、勘違いだ絶対に。
そう答え付けて頭がスッキリしたところで。
こーんにーちは、なつめちゃんっ
受付カウンター越しに明るい声を掛けられた。
八木さん。こんにちは、いらっしゃいませ
慌てて手にしていたシューズを置き、キーボックスからバーコードキーのリストバンドを取り出してカウンターへ向かう。
八木さん、今日もアーケードのフリータイムでいいですか?
オッケー。さすがなつめちゃん、俺のことよく分かってる~
会員カードを差し出しながら人懐っこい笑顔を浮かべるこのお客さんは、八木悠斗(やぎゆうと)さんと云ってうちの常連さん。平日の真昼間からゲームをしにくるこの男性、実は今をときめく若き売れっ子作曲家なのだ。
なんでも動画サイトで大人気のボカロPで、最近では有名アイドルの作曲やプロデュースまで手掛けているとか。
そんな多忙な八木さんのストレス解消はアーケードの音楽ゲーム。画面に表示されるリズムに合わせてボタンをタッチしたりステップを踏んだりする、いわゆる『音ゲー』ってやつ。
仕事に煮詰まるとこうしてうちへやって来て、思う存分音ゲーに耽るのがいつものパターンなのだ。
そんな彼の現状を汲み、ニコリと微笑みかけてキーバンドを差し出す。
お仕事お疲れ様です。ゆっくり楽しんでストレス解消して行って下さいね
あ~なつめちゃん、やっさしいなー!それだけで俺、ストレス吹き飛んじゃうよ~!
八木さんは大げさにそう言うとカウンターの上の私の手をガッシリと握った。うわっ。
八木さんは人当たりが良くて、たまに私たち受付にジュースを奢ってくれたりするようなイイ人だけど、ちょっと馴れ馴れし過ぎるのが問題だ。
はいはい。それではいってらっしゃい
あまり調子付かれては困るので、ニッコリ笑顔のまま握られた手を抜け出し、それをヒラヒラと振って見せる。
いつもならここで
『いってきまーす』
と八木さんも手を振り返しさっさとアーケードコーナーへ向かうんだけど。……何故だか今日はじっとカウンターの前から動かない。
ねえ、なつめちゃんって彼氏いるの?
ハァッ!?
いきなり突拍子もない質問をされて、素っ頓狂な声が出てしまった。いけない、いけない。慌てて周囲を見回し口を噤む。
けれど、八木さんはそんな私をジッと真剣な表情で見ていた。
いきなり何言ってるんですか。そんなプライベートな質問はノーコメントです
ふーん
突っぱねて言ってみたものの、八木さんは全然動じてない。それどころか、カウンターに肘を乗せるとそこに頬杖をついて、私の顔を覗きこんできた。柔らかな目元がまっすぐに私を捉えて、なんだかドキリとする。
なつめちゃん、今度俺と食事行かない?
ハぁ!?……っと
再び、八木さんの突拍子も無い言葉に素っ頓狂な声が出そうになったけど、今度は手で口元を押さえグッと堪えた。そして、驚きの気持ちを飲み込むように一拍置いてから、努めて冷静に答える。
変な冗談は止めて下さい。スタッフへのナンパ行為はお断りですよ
場所柄、浮かれた気分になるからだろうか。わりとお客様からスタッフへのこういったナンパ行為はよくある話なのだ。
もっとも。いつも声が掛かるのは三田先輩のような美人なスタッフで、私みたいな平凡でドジで手の掛かる女なんかには滅多にない事だけれど。
けど、滅多にないとは言え動揺してる場合じゃない。こういうのはキチンとお断りしなくっちゃ。そう考えてキリッと表情を引き結んだというのに。
ナンパじゃないよ、これは告白。俺、ずっとなつめちゃんと付き合いたいと思ってたんだよね。だからマジなの
(えええええ~!!?)
大マジメな表情をして告げられた八木さんの言葉に、私は動揺丸出しで心の中で叫びを上げてしまった。声に出さなかっただけマシだと自分を褒めてやりたい。
八木さんは自分の上着から名刺を取り出すと裏にサラサラと何かを記入し、こちらへ差し出しながら言った。
これ、プライベートの電話番号とラインID。じっくり考えていいから返事はここに頂戴
で、でも
頭の中がパニックでオロオロしている私に八木さんは強引に名刺を握らせると、ニコリと優しく微笑んで
仕事中にゴメンね。そんじゃ、行ってきまーす
そう言い残し、ヒラヒラと手を振りながらアーケードゲームコーナーへと向かって行った。
ボーゼンと立ち尽くす私に
ヒュ~♪
とからかうような口笛が背後から掛けられた。振り向けばコトの顛末を見ていた三田先輩がニヤニヤと楽しげな笑みを浮かべて私を見ている。
やるじゃない、なつめちゃん。なんだっけ、男心が知りたいんだっけ?絶好のチャンスじゃない
か、からかわないで下さいよ!そんな、いきなりあんなコト言われたって、私にだって都合ってものが……
なんで?やっぱ他に気になる男でもいるの?
三田先輩の言葉を聞いて頭に常盤主任の顔が過った。
な、なんで!なんで今常盤主任の事を思いだなくちゃいけないのよ!?
一生懸命頭を振って、過保護な上司の顔を脳内から追い出すと、私は拳を握りしめて三田先輩に食って掛かった。
気になる男もいなければ、八木さんの誘いに乗るつもりもありませんから!私は!
なつめちゃんてば、そんなにムキにならなくってもいいじゃない。男女の縁なんてのはそんな仰々しいモノじゃないのよ
いいじゃない、八木さんと食事に行ってくれば。それで気が合うようなら付き合えばいいし、そうじゃないならそれっきりにすればいい。女子力上げたいんでしょ?勉強のつもりで行って来なさいよ
なんという説得力。さすが我が店で幾人もの男を骨抜きにした美女と名高い三田先輩だ。恋愛に関しちゃ言葉の重みが違う。
私は三田先輩の言葉を噛みしめながら、手に握られたままの名刺に視線を落とした。
勉強のつもり、ねぇ……
何事も無鉄砲な私だけど、確かに恋愛に関してだけはどうも及び腰だ。おかげでこの歳まで彼氏がいないなんて恥ずかしい事になってるんだけど。
どうしよう、食事の誘い乗ってみようかな。1回ぐらい勉強のつもりなら。でも、なんとなく心がうしろめたいのは何故なんだろう。
そんな風にモヤモヤと迷いながら名刺とにらめっこしてる時だった。
狭山。何してるんだ
うわっ!主任!?
いつの間にか巡回に来ていた常盤主任にカウンター越しに声を掛けられ、慌てた私は咄嗟に名刺を持っていた手を後ろに隠してしまった。
……今なにか隠さなかったか?
いいえ!全然なんにも!!
ブルブルと必死に首を横に振る。自分でもなんでこんなに慌てているのかよく分かんない。けれど、なんとなく常盤主任には知られたくない気がした。なのに。
なつめちゃんてば、たった今お客さんに告白されてデートに誘われたんですよ~
み、三田先輩っ!!
私の背後からヒョッコリ顔を出し、それはそれは楽しそうに三田先輩が口を挟んだ。な、な、なんてコト言うのっ!!
焦って視線をカウンターの向こうに向け直せば。
……なんだと?
ものすごくしかめっ面をした主任が、私の方をじっと見つめていた。
つづく