第2話 密室の接近


常盤主任はなかなかのイケメンである。眼鏡の似合う知的なタイプとでも言えばいいのか、いつも冷静で28歳という歳より落ち着いて見える。

そんな彼を密かに慕う女子社員は多い。けれど主任はそういった類の浮いた噂がない事でも有名だった。

なので。

モブ1

あーあ、私も誰かさんみたいに主任の目の前で派手に転んでみようかしら~?

モブ2

やだー、幾らなんでもそんなのみっともなーい


なかなか主任に振り向いてもらえない不憫な先輩方の妬みはこのように、やたらと助けられる私に集中することがよくあるのだった。



昼休憩はそれぞれの部署内で交代で入る。今日はツイて無いことに私を目の敵にしているプレイコーナーのお姉さま方と被ってしまった。

従業員専用食堂で麻婆豆腐定食を食べている私の後ろを通りながら、聞こえよがしにそんな事を口にする先輩たち。きっと午前の業務中に何かあったのだろう。主任に色目を使って無視されたか、はたまた嫌な事でもあって単なる八つ当たりか。

さっきまで美味しかった麻婆豆腐が、なんだか口の中で味を失くす。さすがに明確な悪意を向けられながら食べる食事は美味しくない。と、その時。

常盤主任

ここ空いてるか


なんと、噂の張本人が定食のトレーを置きながら私の向かいの席に座って来た。

なつめ

常盤主任……

常盤主任

なんだ?この席、誰か来るのか?

なつめ

いえ、空いてますけど

常盤主任

なら構わんだろ。それよりほら、ボケッとしてると服に麻婆豆腐こぼすぞ


そんな事を言いながらクールな瞳を伏せて割り箸を割る主任。さすがに彼を前にして私を口撃する事は出来ないのか、さっきまで私の後ろで嫌味を言っていた先輩たちが早足で立ち去るのが分かった。

なつめ

はぁ……


思わず溜息が零れてしまう。余計な妬みを買わないためにも、主任とはあまり関わりたくないのに。

常盤主任

なんだ、飯食いながら溜息なんか吐いて。悩み事でもあるのか


――大アリです。そしてその原因は主任あなたです。

ズバリ言ってやりたいけれど、味噌汁と一緒にその台詞は飲み下す。いくら迷惑とは云え悪意の無い相手、しかも上司に向かってはさすがに言えやしない。

なつめ

麻婆豆腐がちょっと辛かっただけです


てきとーな理由を口走って食事を再開させると、向かいの席の主任の顔がどこか綻んだ。

常盤主任

ならいいが。何か困ったことがあったら遠慮なく言え


……いい人、ではあると思う。上司としてとても頼れる。過ぎるおせっかいも優しい性格の表れなのだ。けれど。

常盤主任

狭山が落ち込んでいる姿は似合わないからな


ほらほら。そんな風にいつもなら厳しい目元を柔らかに微笑ませちゃったりすると、周囲の女子社員の視線が痛いんですけど。

なつめ

はあ。どうも


思わず目を逸らし、俯き加減に黙々と食事を口に運ぶ。

これ以上私に構わないで下さい。そんな想いで必死に箸を動かしてるというのに。

常盤主任

こら、狭山。そんなに急いで食べるんじゃない。もっとよく噛め

なつめ

はあ

常盤主任

ほら、よそ見をするな。水を零すぞ

なつめ

すみません

常盤主任

ほっぺたに飯が付いてる。子供かお前は

なつめ

失礼しました


あーもー!うるさい!主任こそ私のお母さんかっつーの!

まるで親子のようなやりとりに、近くに座っていた他の社員までもがクスクスと笑っている。

過保護にも程がある。ううん、もうこれは過干渉と言っていい。

恥ずかしさに耐えられなくなった私は残りの食事を勢い良く掻き込むと

常盤主任

こら!そんな消化に悪い喰い方をするな


と言う主任の言葉を無視して

なつめ

ごちそうさま!

と素早く席を立ち、スタコラとその場から逃げ去った。


なつめ

もー!過保護が過ぎると思いません!?私これから主任のこと、心の中で『おかん』って呼ぶ事に決めました!


昼休憩を終え受付ロビーに戻ると、私は三田先輩にさっきまでのいきさつを思いっきり嘆いた。

なのに。後輩がほとほと困ってるというのに、先輩は可笑しそうにケラケラと笑うばかり。ひどい~!

三田先輩

世話焼きすぎな主任もどうかと思うけど、やっぱなつめちゃんも大概だわ。食事まで口うるさく言われるなんて、手が掛かりすぎよぉ

なつめ

そんな事ないですって!私は至ってフツーです!……フツーよりほんのちょっとドジなだけです!


必死に言い返す私に、三田先輩は

三田先輩

それはどうかなあ?


と言って背中を向けると、カウンターの引き出しから数枚の書類を取り出した。

三田先輩

これ、昨日の受付日報。なつめちゃんが当番なのに事務所に提出するの忘れてたでしょう?

なつめ

あっ!


目の前に差し出された書類を見て自分の失態に気付く。

なつめ

すみません!今から事務所に出してきます!


書類を受け取り、走ってロビーから駆け出す私を

三田先輩

ほーら、やっぱり手が掛かる

と、三田先輩はクスクス笑いながら眺めていた。


私は事務所に駆け込むと担当の副主任に、本来なら朝一で提出しなければいけなかった書類をペコペコと頭を下げながら差し出した。

モブ3

気をつけて下さいね

の注意を受け、自分のやらかした失敗にションボリとして事務所を出る。


やっぱり私って本当にドジだ。主任が口を出したがるのも当然なのかも。仕方ないよね、放っておくとどんな失敗やらかすか分かんないおっちょこちょいだもん。そりゃ口うるさくもなるよね……


溜息を吐き出しながら従業員用のエレベーターに乗り込み、受付ロビーのある2階のボタンを押す。

すると。

常盤主任

ちょっと待て!


扉が閉まる瞬間、常盤主任がエレベーターに駆け込んできた。

なつめ

わ、ビックリした!どうしたんですか?

常盤主任

どうしたもこうしたもない。お前が今持ってきた書類、担当印が押してないぞ

なつめ

えぇっ!?失礼しました!


うわー!重ね重ねなんて大失敗!焦っていたせいでそんな基本的な事すら確認するのを忘れていた。

なつめ

本当に申し訳ありません


立て続けに世話を焼かせてしまった罪悪感から涙が滲んでくる。深々と下げた頭をなかなか戻せずにいると、二人きりのエレベーター内に沈黙が流れた。

ああ、さすがにこれだけ手を焼かせると常盤主任も呆れてるのかな。

そう思っておそるおそる頭を戻すと、主任は私の予想に反してなんだか困ったようなもどかしそうな顔をしていた。

なつめ


不思議に思いながらも、彼が何か言うのを待っていると。

なつめ

っ!?なに!?

常盤主任

地震……!?


突然エレベーターが下から突き上げられるような大きな揺れを感じた。

なつめ

きゃっ!!


あまりの激しい揺れに足がもつれてその場に尻餅を着いてしまう。

常盤主任

大丈夫か狭山!


立ちたくても収まらない強い揺れに体勢を保てない。やがて狭いエレベーター内にウーウーとけたたましいサイレンが鳴り響き『強い揺れを感じました。緊急停止します』と、緊急案内が流れた。

なつめ

こ、恐い……!!


狭い密室に鳴り響くサイレン。エレベーターという不安定な場所に、今まで感じた事の無い強い揺れ。命の危険すら感じるその状況に私はすっかり怯え、尻餅を着いた姿勢のまま身を縮こめてしまった。


――ど、どうしよう。こんな時はどうするんだっけ。ええと、まずは避難経路の確保を、って、エレベーターに閉じ込められてるんだから出来ないよ!下手したら私、ここで死んじゃうんじゃない!?

恐怖と何も出来ない自分のふがいなさとで、すっかりパニックになり身
体を震わせていると。

常盤主任

……落ち着け。大丈夫だ、お前は俺が守る


恐怖で縮こまっている私の身体を、常盤主任が覆うように抱きしめてきた。

なつめ

しゅ、主任……


大きな手でグッと背中を抱き寄せられ、ワイシャツ越しの胸板に顔を埋めてしまった。伝わるぬくもりと鼓動が、恐怖でいっぱいだった私の心を落ち着かせてくれる。

気が付くと私は縋るように、広い背中に手を回していた。



固く身を寄せ合っているとやがて揺れは治まり、ガタガタとうるさかった不穏な音も止んだ。そこで私はハッと我に返る。

なつめ

緊急事態だったとは言え、私、めっちゃ主任と抱き合ってる!!

ものすごく恥ずかしくなって

なつめ

す、すみません!失礼しました!!


と腕を突っ張り、身体を離そうとするものの……どういう訳か、主任は私を抱きしめる腕を弛めてくれない。

なつめ

あ、あの。主任?


疑問に思い声を掛けたところで、ずっとエレベーター内で鳴っていたサイレンが止み、代わりにプープーという耳慣れないコール音が聞こえた。

すると、主任はゆっくり私の身体から離れポンポンと安心させるように頭を撫でてから、立ち上がって備え付けの緊急電話の受話器を取った。

常盤主任

もしもし……ええ、大丈夫です。はい……エレベーター内は2人、総括主任の常盤和海と受付課の狭山なつめです。……はい、分かりました


どうやら管理センターからのコールらしい。主任は受話器を置くとこちらに向き直って

常盤主任

今の地震で電流ケーブルに支障が出たらしい。エレベーターが再稼動するまでに少し時間が掛かるみたいだ


そう説明してくれた。

つまりそれって、閉じ込められちゃったって事だよね。この密室に。地震は収まったとは云え状況はあまり喜ばしくない。

なつめ

そうなんですか……復旧……どれぐらい掛かるんでしょう?

常盤主任

早ければ30分くらい、長くても2時間は掛からないだろう


2時間!?告げられた時間に密かにショックを受ける。

だって2時間も主任とエレベーターから出られないだなんて。もしトイレに行きたくなっちゃったらどうすんのよ~。

そんな情けない心境でいるとは露知らず、主任は再び私の元まで戻ると、隣の床に静かに腰を降ろした。

常盤主任

怪我は無かったか?

なつめ

あ、はい。大丈夫です


主任の質問に、ふいにさっきの状況を思い出して顔がまた赤くなる。

なつめ

あの……さっきはありがとうございました


恥ずかしさのあまり顔を背けながら言ってしまったけれど、主任は気にする様子も無く冷静に

常盤主任

ああ

とだけ返した。



――幾ら緊急時だったとは言え、あんな風に抱きしめられちゃったなんて。うう、イヤでも意識してしまう。

だって、この狭山なつめ24歳。実は生まれてこの方1度も彼氏がいたことが無いんだもん。

とーぜん男の人に抱きしめられるのも初めてで……ああっ思い出すとまた赤面してしまう!


ドキドキうるさく音をたてる胸をギュッとおさえながら顔を俯かせていると、常盤主任はポケットから出したスマホを操作しながら

常盤主任

駄目か、電波が入らないな

と冷静に呟いていた。

その様子を見て、こんな緊急事態に赤面してる場合じゃないと気を取り直しおずおずと話し掛ける。

なつめ

スマホ、使えないんですか?

常盤主任

ああ、電波が全く入らない

なつめ

困りましたね。お店どうなってるんだろう。緊急時で主任の事みんな探してるかもしれないのに

常盤主任

大丈夫だろう。エレベーターだから揺れを大きく感じたが、震度は4だそうだ。緊急避難するほどでもないし営業も続けられる。それにさっき管理センターに俺とお前が閉じ込められている事は伝えたから、店にも連絡が行ってる筈だ。心配するな


その説明に少し安心しコクリと頷くと、主任はこちらを見てわずかに目を細めた。

常盤主任

大丈夫だ。お前が心配することなんか何も無い。エレベーターが再稼動するまでのんびりしていろ

なつめ

の、のんびりってそんな!出来ませんよ!


緊急時にそぐわない言葉に思わず言い返すと、主任は口元に手を当ててクスクスと可笑しそうに笑った。

……あ。もしかして、今の冗談?緊張してる私をリラックスさせようと言ってくれたのかな。

常盤主任

狭山が何かしようとすると余計に手が掛かるからな。お前はのんびり欠伸でもしてた方がいいぞ

なつめ

失礼なこと言わないで下さい!


ちょっと意地悪そうに笑った主任の言葉に反射的に返してしまったものの。私はさっきの書類の件を思い出し、あながち冗談でもないなと口を噤んでしまう。

黙って下を向いてしまった私を見て、彼は自分が言い過ぎたと思ったのか、顔から笑いを消して訊ねてきた。

常盤主任

なんだ、本気にしたのか?

なつめ

……だって。考えてみたら本当にその通りだなあって。さっきだって失敗しちゃったし、いつも主任の手を焼かせてばっかりだし、何やってもドジばっかりで……私、働くの向いてないのかも


なんだか悲しくなってきた。今さらだけど改めて自分のダメさを痛感する。閉じ込められている不安な空間が、なんだか余計に私の心を弱らせてるみたい。ああ早く外に出たいな。

抱えた膝に顔を突っ伏し落ち込んでいると、ふいに肩を強く抱き寄せられる感触がして、私は驚いて顔を上げた。

常盤主任

そんな事で落ち込むな。ドジだろうが手が掛かろうが、お前はお前のままでいい。何度失敗しようと俺が必ず助けてやる


上げた瞳に映ったのは、そう言って私をまっすぐ見つめる常盤主任の顔。

その眼差しがあまりにも真摯で、肩を抱き寄せる手が力強くて、私の胸が再びドキドキと音を立てる。

なつめ

で……でも……


上手く言葉が出てこなくて、何度もまばたきばかり繰り返してしまう。

けれど、主任はそんな私から目を離さないまま言葉を続けた。

常盤主任

ドジでも失敗を恐れずに前を向き続けるのが狭山のいい所だろ?だから俺はそんなお前を放っておけないんだ


自分の胸がギュウっと締め付けられる気がした。主任の言葉が苦しいくらい嬉しくて、涙が出そうになってくる。

なつめ

……主任……


思わず潤んでしまった瞳で主任を見上げ小さく呟くと、肩を抱き寄せていたのと反対の手が私の頬に伸びてきた。

常盤主任

狭山…………俺はお前を――


――え?

まっすぐに見つめていた主任の眼差しがどこか切なげに細められると、端正なその顔がゆっくりと近付いてくる。

え。え。え?これはえっと……何?

なつめ

しゅ……主任……?

なつめ

!?

あと数センチで唇が触れ合いそうになった刹那。緊急電話のコール音が、静かだったエレベーター内に鳴り響いた。

その瞬間、我に返ったようにパッとふたりとも身体を離す。そして主任は急いで立ち上がると緊急電話の受話器を取った。

常盤主任

はい。分かりました


短い会話ですぐ受話器を置くと、主任はこちらを振り返り

常盤主任

配電ケーブルの修復が完了したそうだ。エレベーターが動くぞ


冷静かつ何事も無かったかのように、そう告げた。



――……さ、さっきのはなんだったんだろう……


私がボーゼンとしていると、突然エレベーターがガクンと揺れ、再び上昇の稼動を始めたのが分かった。そしてすぐにポーンと到着音を鳴らして扉が開かれる。

なつめ

わあ!外だ!


時間にしてみればたかだが30分も無かっただろう。けれど、閉鎖された密室から解放された安心感は大きい。

私は開かれた扉から2階の通路に飛び出すと、大きく身体を伸ばし深呼吸をした。

なつめ

ああ良かった出られて!あのまま一生閉じ込められてたらどうしようかと思っちゃった


思わず安堵の言葉を零し、ふと振り向けば。

常盤主任

……良かったな


どこか複雑そうな表情をした常盤主任と目が合った。

なつめ

あ……別に、主任とふたりだったのが嫌だったとか、そういうんじゃありませんから!


誤解を与えてしまったかと思い、ブンブンと手を振りながら慌てて訂正をする。

そんな弁解を聞いて主任は苦笑いに顔を綻ばすと、通りすがりにポンと私の頭を撫でてからロビーフロアへと出て行った。
 

 


つづく

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