第七話「骰子(サイコロ)」

 恭子のアパートには電気が点いていなかった。薄暗い中、澪があぐらをかいて彼女の帰りを待っている。ボールペンを何度もノックする音が部屋に響いていた。顔には焦燥の色が浮かんでいる。
 階段を上がる足音が聞こえてくると、澪は弾かれたように立ち上がった。アパートの扉が開いて、恭子の顔が見える。途端に澪は詰め寄って早口に言った。

「どうだった? D-6は? 取り戻せた?」

恭子

「ダメだったわ」

 恭子は靴を脱ぐとパソコンの前で椅子に座る。そして長袖シャツを脱ぐと、恭子の肩からは刺青が顔を覗かせた。
 恭子がシャツを椅子に掛けていると、澪はオウム返しに尋ねた。

「ダメだった!?」

 澪はしばらく立ち尽くした。そして頭を掻きむしると、部屋の中を忙しなく歩き回った。
 恭子は悠然と煙草に火を点けると、答える。

恭子

「そ、交番に届けたらしいわ」

「交番……」

 絶望したような表情が澪の顔に浮かんだ。

恭子

「ええ、善良なる市民の鑑ですこと。感心しちゃうわ」

「そんなこと言ってる場合? ねぇ私たち捕まっちゃうよ。顔を覚えてるだろうし」

恭子

「ぎゃあぎゃあ騒いだら外へ漏れちゃうじゃないの。バカバカしい」

 そして澪の頬を指でゆっくりと撫でながら、恩を着せるような調子で彼女は続けた。

恭子

「顔を見られてるか確かめるために、私が会いに行ってあげたんじゃないの、わざわざ。もしあんたの顔を覚えてたら、すぐに落とし主と違うって気が付くはずでしょ」

「そりゃそうだけど……」

恭子

「だから気にしなくてもいいんじゃないの?」

「ねぇ本当に交番に届けたのかな?」

恭子

「どういうこと?」

 それを聞いて、恭子は眉をひそめる。澪は口元をひくつかせていた。

「だって、本人がそう言ってるだけじゃない! もし後からD-6をネタに私たちをゆする気だったら?」

恭子

「どこ行くつもり

「決まってるでしょ? あの子のカバンをひったくるのよ」

 恭子は黙ってしばらく煙草をくゆらせていたが、冷静に言った。

恭子

「あの子がD-6を持ってるってどうして言えるの? ゆする気だったら喫茶店でで何か言ってくるはずでしょ? お小遣いが足らないとかなんとか」

「そうだけど、何か落ち着かない」

 澪はそう言うと泣き崩れた。しばらく手で顔を覆っていたが、ハンドバッグから財布を取り出した。手は震えている。二万円を放ると、恭子にすがりついた。

「ねえ、もっと強いのないの? 早くトリップしたい」

 澪は媚びるように続けた。

「友達一人紹介すると、一つサービスしてくれるんでしょ?」

恭子

「まぁ友達じゃなくてもいいんだけどね。適当にSNSに書き込めば引っかかるでしょ。色っぽい写真を載せれば男なんか特に」

 そう言って恭子は低く笑った。上機嫌に口笛を吹きながらスマホを取り出す。その瞬間、澪は飛び掛かって恭子の手からスマホをもぎ取ろうとした。恭子は身を翻すと、澪は勢い余って転倒する。
 鼻頭を押さえながら、澪は恭子を睨んでいた。そしてヒステリックに叫ぶ。

「何考えてるの!? 誰が聞いてるか解らないじゃない?」

 それを聞いて、恭子は呆れ顔で言った。

恭子

「盗聴されたのはアプリだったから。ケータイは傍受されにくいの。特に日本のは」

 澪は納得が行かないような表情である。顔も赤い。しかし恭子は何食わぬ顔で電話を掛けているのだった。

恭子

「……もしもし。梨絵さんですか? 恭子です」

「そろそろ巡回の時間か……」

 そう言うと、目頭を揉んで廊下に出る。角を曲がると茜の声が聞こえてきた。

「飯田か。もうそろそろ帰れよ

 祐介は型通りに声を掛けると、茜と園村が話している姿が見えた。天野の姿もある。茜たちに歩み寄ると、祐介は声を掛けた。

「どうしました? 刑事さん。飯田が何かしましたか?」

「私何もしてないってば」

 茜が頬を膨らませると、園村は頷いた。

園崎

「ええ、何もしてません。あくまでも目撃者の一人としてお話を伺ってるんです」

「目撃者? 何のです?」

 祐介が聞き返すと、天野はポケットから写真を取り出す。澪の写真だった。

天野

「この女性なんですけど、見覚えはありませんか?」

「こないだぶつかった女の人に似てない? ね? 先生」

「似てないかって聞われてもなぁ。遠くからだったし……」

天野

「覚えてないと」

 天野は確かめると、祐介は頭を掻いて頷いた。

「ええ、飯田が言うように、こないだ会った女性と似てるような気はしますけど」

 天野は園村に目配せを送ると、祐介に言った。

天野

「それはおかしいですね。お会いしてるはずなんです。公園の小学生が見てましてね」

「……僕が会っていたからとして、それが何の証拠になるんです? 確かにちょっとした知り合いですけどね」

 祐介が笑うと、園村は鋭く尋ねた。

園崎

「どのようなお知り合いなんでしょうか」

 天野は引き継いで言う。

天野

「実はですね、この女性、危険ドラッグに関わってるんですよ」

「え? ウソ!?」

 それを聞いて、茜は思わず身を乗り出した。口を手で覆っていたが、叫び声が漏れている。
 天野は二人の顔を見ると、気さくに尋ねた。

天野

「そういうことですので、ご協力お願いできますか? 知ってることだけで構いませんから」

園崎

「このままだと先生は関係者の一人になってしまいますよ。事情によっては署までご同行いただかなくてはいけません。それでもいいんですかね? お互い面倒な事は止めませんか」

 園村がそう祐介に囁く。低い声だった。

「参ったな。……あ、いや。女子生徒の前じゃ……ちょっとね」

 祐介は頭を掻くと、茜を一瞥する。彼女は不貞腐れたような顔になったが、黙って渡り廊下に行った。
 祐介はそれを見届けて、園村に囁く。

「実は昔の恋人なんですよ」

園崎

「なるほど、でもどうして女子生徒には秘密なんです?」

「この年代の女子生徒は恋愛話に目がないんですよ。今はSNSでそういうウワサも駆け巡りますからね。特に今回は知らなかったとはいえ、元恋人が犯罪者となると、ね」

天野

「なるほど。先生も大変ですね」

「全くですよ。保護者との関係もありますし」

天野

「それで改めてお聞きしたいのですが、室生さんと土曜日お会いになりましたよね?」

 天野の問いに、祐介は神妙に頷いた。

「ええ、会いましたよ。昼間に」

園崎

「どちらが公園を指定したんです?」

 園村が尋ねると、祐介は答えた。

「僕です」

園崎

「先生はどうして公園を? ご友人が殺された現場でしょう? 何か特別な思い入れでも?」

 園村は畳み掛けてきたが、祐介は平然としている。

「いえ、僕のアパートから一番近い公園でしたので」

天野

「なるほど。その時、何か気が付いたことはありませんでした? もちろん付き合っていた時でも構いませんが」

 天野が聞くと、祐介は首を傾げる。

「さぁ、香水がきつくなったことくらいですかね? 以前はあんな強い香水なんか付けてなかったと思うんですけど」

 天野と園村は頷き合う。何事か囁き合ったが祐介には聞こえなかった。園村は彼に向き直って尋ねる。

園崎

「もう少しお時間いいでしょうか。いくつかお伺いしたいのですが」

 祐介のうんざりしたような声が返ってきた。

「何でしょうか。巡回の続きもありますし、小テストの採点をしなくちゃいけないんですよ」

園崎

「すみません。お時間は取らせませんので。昨日お会いになった時に室生さんとどんなことをお話しに?」

 園村がそう尋ねると、祐介は腕を組んで答えた。

「別に。近況報告でしたよ」

園崎

「そうですか。なら殺された谷口弘さんについてはどうでしょう? 何か話題になりませんでした?」

 天野が聞くと、祐介は素気なく答えた。

「別に」

園崎

「そうですか、解りました」

 天野がメモを取り終えると、しばらく沈黙が流れた。祐介は焦れて尋ねる。

「で? 何です? まだあるんでしょう?」

園崎

「先生はD-6を持ってますよね? 土曜日拾ったそうじゃありませんか」

園村が言うと、天野は付け加える

天野

「サイコロみたいなものなんですけどね……赤い」

「あぁ、家にあります。交番に届けようと思って忘れてました。雑務が多くてつい……すみません」

 祐介が言うと、園村は硬い顔で言った。

園崎

「解りました。できるだけ早く最寄りの駐在所にまでお持ち下さい。……もう一つだけよろしいですか?」

 祐介はスマホを取り出して、メモを取る振りをした。一文字も打たれていなかったが、メモアプリから顔を上げて尋ねる。

「それで最後の質問は?

 園村は胸ポケットから一枚の写真を取り出す。祐介が目を落とすと、梨絵が写っていた。昨日の日付。撮影場所は渡辺の事務所。机の上にはUSBメモリが置かれていて、少し緑色に汚れていた。
 園村は言った。

園崎

「この写真の女性なんですけどね」

「あぁ、父の秘書ですね。彼女がどうかしましたか?」

園崎

「最近お会いになったことは?」

 園村が尋ねると、祐介はきっぱりと首を振る。

「ないですね。父とも大学を卒業してからは会ってません」

園崎

「どうしてです?」

 園村が尋ねると、祐介の顔は無表情になった。

「言いたくありません。じゃ僕はこれで」

 そして祐介は慇懃に一礼すると、階段を上がっていく。天野たちはしばらく後ろ姿を見ていたが、渡り廊下に向かったのだった。

第一部 第七話「骰子(サイコロ)」

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