夜警を終えて、私は全身を襲う疲労感に耐えながらも、大通りから家までの道を歩いていた。
どうにも最近、身体が重い。吸い込まれるように眠ってしまい、寝覚めも大変に悪いのだ。
幽霊騒動についての結論を知ってしまったから、緊張が緩んでいるのだろうか。……いや、そんな事は有り得ない。
何かの流行病で無ければ良いと思いつつ、家の扉に手を掛ける。木板を繋ぎ合わせた扉を押すと、部屋の中の様子が見えてくる。
最初に、何か普段とは違う香りがして、私は目を丸くした。立ち昇る美味しそうな匂い。これは……スープだ。
夜警を終えて、私は全身を襲う疲労感に耐えながらも、大通りから家までの道を歩いていた。
どうにも最近、身体が重い。吸い込まれるように眠ってしまい、寝覚めも大変に悪いのだ。
幽霊騒動についての結論を知ってしまったから、緊張が緩んでいるのだろうか。……いや、そんな事は有り得ない。
何かの流行病で無ければ良いと思いつつ、家の扉に手を掛ける。木板を繋ぎ合わせた扉を押すと、部屋の中の様子が見えてくる。
最初に、何か普段とは違う香りがして、私は目を丸くした。立ち昇る美味しそうな匂い。これは……スープだ。
あ、お帰りなさい
じんわりと包み込まれるような暖かさがあった。スープを煮込んでいるのか……彼女は私を発見すると柔和な微笑みを浮かべた。小さな明かりは扉の付近までは来なかったが、ぼんやりと彼女を照らしている。
あの程度の明かりならば、大丈夫なのか。
私は鎧を脱いで、部屋の端に置く。
大丈夫でしたか、見回りの方は
ええ。猫一匹、現れませんでしたよ
私がそう言うと、彼女は首を振った。
いえ。走った時、苦しそうにしていたので
それは、いつの出来事だったか。……彼女を助けた時に、夜の道を抱えて走ったからか。そんなにも私は、苦悶の表情を浮かべていたのだろうか。
彼女の観察力が鋭いのか、何もかもお見通しだ。私は苦笑して、食卓の椅子に座った。
動けない訳では無いのですが、最近どうにも胸が痛む事がありまして。……なに、気にする程の事ではありませんよ
大した事ではないと強調したつもりだったのだが、彼女は私に向かって心配そうな眼差しを向けていた。
火を消すと、彼女は皿にスープを盛り、私に手渡した。
家で自分以外の誰かに料理を作って貰う事など、本当に久し振りだ。何年経過しているか分かったものではない。
口に含むと、豊かな香りと味が広がった。
…………うまい。
いつか生涯の伴侶をと思わなかった訳ではないが。まるで実際にそうなったかのような雰囲気に、笑みがこぼれた。
胸は……辛いですか?
だが、彼女はこの雰囲気よりも、私に気を遣っているようだった。吸い込まれるように大きな光彩が、身を乗り出して直ぐ近くまで寄って来る。
息が詰まったような錯覚があり、私は頭に血が上って行く事を抑えられなかった。
い、いえ。……大丈夫です
何を考えているのだろうか。彼女の事は、始めて出会った時から謎ばかりだ。思考が見える訳でもないのに、どうにかして彼女の真意が分からないものかと考えてしまう私も愚かなものだが。
それにしても、独り身だと分かっている騎士の家で夜食を作るなど。……勘違いされてもおかしくないとは思わないか。その点については、どう考えているのだろうか。
……辛いようであれば、仰ってくださいね。私に何か出来ることがあればと思っています
不意に、喉のすぐ上まで迫り上がってくる言葉を、私はついに堪え切れずに吐き出してしまった。
霞のようなひとだ、貴女は
言われた言葉の意味が分からなかったのだろう。彼女はきょとんと目を丸くして、私のことを見ていた。
『霞のような』ではない。彼女は正に、霞そのものだ。彼女のことが見える私の方が、どうかしている――――そんな事は分かっていたが、それでも彼女もまた、人間だ。
霞の彼女にも心があり、意識はある。だからこそ、私はこんなにも彼女に惹かれてしまうのだろう。
霞?
ぼんやりとしていて、すぐ近くに居るようなのに、どこか遠くに居る気がする。全身をくまなく見ていて、はっきりと記憶していた筈なのに、どこかその記憶は朧気で、ふとした時に忘れてしまいそうになる。……私には、そう見えています
夢の様な夢。自分で言っている言葉の意味が分からなくなりそうだ。
私が困惑している事に気付いたのか、彼女は堪らずといった様子で吹き出した。思わずむっとしてしまう私だったが、彼女は堪え切れずに吐き出した笑いを、部屋の中に浸透させていった。
冗談を言ったつもりはないのですが
いえ。……おかしくて
彼女の笑顔の理由が分からず、さらに私は頭を悩ませた。一頻り笑うと、彼女は不意に、儚い表情になった。
ひょっとすると、幽霊ですら無いのかもしれない。
儚い、と表現するのは正しいのかどうか。やはり、彼女は幻想だ。
幽霊の足音に感化されて私が創り出した、幻の女性だとしたら。まだ出会って間もない筈なのに、こうも昔から見ていたような気がするのは。
私にとっては、騎士様こそが、『霞のようなひと』でしたから
いや、昔から見られていたような気がするのだろうか。それは、分からない。
想像から始まる想像は既に収拾が付かず、言葉遊びの領域を出る事はない。ならば、考えるだけ無駄なことだ。目の前に居る彼女は、私にとっての現実。それで良いのではないか。
無理矢理に自分を納得させる為の言い訳でしかないと考えつつも、私は彼女の両肩に手を掛けた。
どうでしょうか。……ずっと、此処に居るというのは
何故か、出会ったばかりの彼女に対して居心地の良さを感じていた。それは、私が創り出したものだからなのかもしれない。疲労の末に、何とも都合の良い幻覚を見ているのかもしれない。
…………いや。
幻覚を見ていると仮定する位なら、幽霊が居ると信じていた方が、まだ救いがある。
初めて会った気がしないのです。直ぐには、無理かもしれない。でも、私の隣に居てはくれませんか。隣国とのことは、追々話を付けましょう
彼女の頬が、薄っすらと朱色に染まった。……願わくば、同じ想いで居たら良いと、私は思っていた。
例え本当に幽霊だったとしても、私にとっては一人の人間だ。それは唯一つ、私にとっての真実だった。
いつ消えるとも分からないのなら、せめて最後を見届けたい。
どうして此処に来たのか、どういう事情があったのか、共有をしたいと思えた。彼女の心の支えになることが、自身の心の支えにもなる。
例え最後が辛い別れであっても、私は――――
しまった、と思った時には口に出していた。その瞬間、彼女は大きく目を見開いた。
例え、とはなんだ。まるでこれでは、最後が辛い別れになることを知っているようではないか。
そうでなくても、既に散々変な事を言っている。それは分かっている。怪我を口実に家へと連れ込み、挙句惹かれたなどと口走っている。これではまるで、悪戯に女をたぶらかす男ではないか。
柄にもない事をしていると思いながらも、言わずにはいられなかった。
彼女の大きな瞳孔が揺れた――――私には、必死で涙を堪えているように見えた。私の言葉の意味を噛み締め、反芻し、返答を考えてくれているのだろうか。
私は掴んだ彼女の肩に知らず力を入れてしまっていたが、しかし――……
……辛い別れは、苦手です。……ですから今は、お気持ちだけ、頂いておきます
そのような、返答があった。
当たり前だ。脳内では、冷静なもう一人の自分が私に声を掛けていた。あまりに唐突過ぎる。
突拍子もなく声を掛けて通用するのは、余程顔の良い者か、話が巧い者だけだろう。そして、私はそのどちらでもない。
――――そう、ですか
声色に落胆の意思が見えてしまう事を恐れたが、隠す事は出来なかった。
彼女の傷が治れば、彼女はここを出て行くだろう。そうして、物事の真実に気が付くに違いない。たとえ幻でも、微温湯に浸かったように居心地の良い毎日も、悪くはないと思ったのだが。
まあ、私では駄目だということだ。遅かれ早かれ、別れは来るのだから。ならば、後腐れが無い方が良いのかもしれない。
何故か、苦しそうに胸を上下させている彼女の姿が、妙に印象的だった。