皆がとうに寝静まり、間もなく夜が明けるという頃。私は二階にある寝室の窓辺に椅子を用意し、窓の向こう側を眺めていた。

一日の中では、最も暗い時間帯だ。窓枠に肘をついて夜空を見上げると、ほんのりと色付いた光を放つ三日月の姿が目に映る。

私は只その様子を、漠然と眺めていた。

彼女は隣のベッドで、すうすうと寝息を立てて眠っている。時折辛そうに顔を歪める事もあるが、傷が痛みを持っているのだろう。



城下町から城へと目指す、幽霊。私はその噂について、考えていた。



どのような想いで、ここまで歩いて来たのだろうか。一部始終歩き回った後は、どうなっていたのだろう。毎日のように帝国を歩き回るということは、ついに城まで辿り着けず、また同じ場所から同じ事を繰り返す、という事なのだろうか。

しかし、彼女は違う。実際に私の家に着いてからというもの、消える様子も何らかの異変が起こる様子もなかった。

ふと、彼女を見る。

苦悶の表情を浮かべて痛みに耐えている彼女は、しかし眠っているようだった。傷口が塞がりさえすれば、もう大丈夫だろうが――……私はどうしても、彼女の事が気になってしまった。

私と初めて出会った時、大きく目を見開いていた。……私の『傷が治るまで家で様子を見る』という提案に、すんなりと乗ってくれた。

警戒心は無かった。……少しだけ好意を持たれているのではないかと、期待もしたものだ。

だが、どうやら違ったらしい。

無心のまま、彼女の顔を見た。相変わらず額に脂汗を滲ませて、肩で呼吸をしている。

それにしても。彼女は良くなったという話をしていたが、この苦しみ方は随分と……様子が変ではないだろうか。以前は私が眠りこけてしまった為、彼女の寝姿を見るのはこれが初めてだが。

息遣いは熱っぽく、浅い。頻繁に肩を動かしては、時折刺されたかのように目を閉じたまま痙攣して、痛みに悶えている。

彼女の肩は、服に覆われて隠れている。血が出ている様子はない……傷は進行していない。それは、確かだった。ならば、治りつつある筈だ。

そう、毒にでも侵されていなければ。

女性

…………なさい




毒。



その言葉を脳裏に思い描いた時、心臓が跳ねるように鼓動した。胸の奥を締め付けるような感覚があり、私は思わず左手で鳩尾の辺りを押さえてしまった。

冷静を促すもう一人の自分は、諭すように私に言う。彼女は良くなったと言っていた。ならば、問題は無い筈だと。

彼女の危機に警鐘を鳴らす自分と、何事も無いと平静を保とうとする自分。私の中で二人の自分が、せめぎ合っていた。椅子から立ち上がった私は、ベッドで歯を食い縛っている彼女を見下ろした。

その、衣服の肩に手を掛ける。何も無いかもしれないし、何かが有るかもしれない。如何なる状況であっても、二つに一つだと言うならば。

危険が迫っていた時のことを考え、行動するのが最善ではないか。

思い切って左肩の衣服をずらし、素肌を確認した。

女性

私を、殺しなさいっ――――!!


包帯は、相変わらず巻かれたままだった。……しかし、微かに血が滲む左肩は、以前見た時よりも赤く腫れ上がっていた。

僅かに見えた地肌は、紫色をしていた。

居ても立っても居られなくなった私は、直ぐに衣服を元通りにした後、その部屋を飛び出した。











時間がまだあるのか、無いのかは分からない。だが、素人目に見てもあまりに普通ではない腫れ上がり方だった。とても、只の傷で起こるような現象ではなかった。直ぐにそう判断した私は、慌てて階段を降り、一階へと向かう。

騎士

ああっ!!


勢いに任せて繰り出した足の下に階段は無く、私は足を踏み外して階段を転がり落ちた。

しかし、痛み等に構っている場合ではなかった。私は直ぐに立ち上がると、全速力で部屋を飛び出した。背後に気配を感じながらも、後ろを振り返る事は出来なかった。

時間が無い。私は応急処置を学んでいたが、毒については博識ではなかった。

様々な種類が存在し、対処法も違うと言われる。薬に対して専門的な知識がある者でなければ、毒消しなどは作ることが出来ないのだ。

当然、薬に使用する成分についての知識もない。ならば、どうするべきか。彼女の病状を説明して、どうにか医師から薬を貰う他無いだろう。

最悪の場合、連れて来ればいい。医師に彼女は視えないだろうが、黙って殺すよりも遥かにましだ。

狂ったと思われても構わない。幽霊だろうが何だろうが、私にとっては人間だ。それ以外の何者でもないのだから。

小路を抜けて、大通りに出る。鍛えた肉体を最大限に利用し、私は大通りを駆け抜けた。











医師の家までは、そこまで遠い距離でも無かった。家の前まで辿り着くと、私は殴り付けるように、扉を叩いた。

騎士

急患だ!! 夜遅くにすまない、協力が欲しい!!


ガンガンと、扉は強く鳴り響いた。物音がして、扉の向こう側から足音が聞こえて来る。

良かった。どうやら、家に居てくれていたようだ。傷を手当する医師は居るが、薬学も学んでいる人間となると限られてくる。

この帝国には一人居たが、戦争で傷付いた仲間のために駆り出されていたら、もう手はない所だった。

直ぐ向こう側で、音がした。私は数歩下がって、僅かに安堵の溜め息を漏らした。扉が開き、見慣れた禿頭の男が顔を出す。

騎士

深夜に呼び出してすまない、私は夜警の騎士だ。毒に侵された者がいる。金は後で払う、薬を分けては貰えないか


切羽詰まっていたからか、早口で捲し立てるように話してしまった。だが、一刻を争う事態であることも事実だった。

医師の男の瞳が、僅かに見開かれた。

騎士

時間が無いんだ。頼む、薬を――――





そして。




――――扉は、閉められた。



騎士

えっ……


呆気に取られた。

……何故だ? 何時の間にか、彼は耳でも聞こえなくなってしまったのだろうか?

何が起こっているのかまるで分からず、私の中から余裕が失われていく。

騎士

おい!! 冗談じゃないんだ!! 頼む、私には危険かどうかが分からないが、少なくとも何事も無いという事はないんだ!! 力を貸してくれ!!


狂ったように、扉を殴り付けた。

……これは一体、どういうことだ。今、何が起こっているんだ。答えの出ない想いは、渦を巻いた。

叩いても叩いても、扉が再度開かれる事は無かった。この状況が信じられず、私の思考は完全に止まっていた。

騒ぎを聞き付けたのか、近くの民家の扉が開いた。

――――助かった。私は振り返り、扉を開いた婦人に向かって両手を広げた。

あちこちで、扉は開く。民家から顔を出した民衆に向かい、私は両手を大きく広げて合図をした。

騎士

眠っていた所すまない、夜警の騎士だ。実は、急患が居るんだ


皆が、私の方を向いている。助かった。人が集まれば事が大きくなり、薬を貰うことは出来る筈だ。

私はそう思いながらも、胸の奥で引っ掛かった棘のようなものが外れず、身動き一つ取ることが出来ずに固まっていた。

口内が乾いていて、まともに舌が回らなくなっていく。声が凍り付いてしまったかのように、言葉を発することが出来ない。

その理由は、もう分かっていた。だが、私は分かっていて、意味不明なこの状況に、一切の対処をする事が出来なかった。

どうして。誰もが、私の方に顔を向けている筈なのに。












――――誰も、私を見ていないのか。








騎士

…………ご婦人


最後の言葉は、かすれるように小さな音でしかなかった。自分が泣いている事にすら気付く事が出来なくなっていた私は、意味も分からずに笑みを浮かべた。












――――どうにも最近、この帝国には霊が出没すると噂されているらしい。

深夜になると、城門と城とを結ぶ大通りから木組みの家が建ち並ぶ細道までを、硬い牛革のブーツが踵を鳴らす音が聞こえて来ると言うのだ。

民家の明かりも消える時間帯、靴音に眠りから覚めた御老人が蝋燭を持って外を確認するが、何時もそこには誰も居ないのだという。









やだ、またかしら…………


ぽた、ぽた、と、すぐ近くで水の滴るような音が聞こえて来る。私の顎先から垂れる涙にしては、随分と音が大きいようにも感じられた。

堪らない恐怖を覚えた。顔を下に向ける、たったそれだけの動作を取る事が出来ず、私はただ前を見詰めたまま、ひそひそと囁くように話をする民衆の声に耳を傾ける。

隣国から、除霊の為に人が来るんだろう? あれはどうなっているんだ?


涙はついに止まらなくなり、私は滲んだ景色の向こう側で、初めて顔を下に向ける事に成功した。

そうして、ただそこにある事実を。




――――いえ。ただ、消えないのです。

――――隠そう、忘れようと思っても、何度でも蘇って来る。

――――両手に握り締めた、あの槍の感触が。

――――変ですね、戦争なんてものは、既に何度も経験した後だと言うのに。




何だか、不慮の事故に遭ったとかで、まだ到着していないそうですよ


埃を被った本棚に、すっかりくたびれた鎧と兜。槍は折れてしまったし、壁に立てかけられた剣は、先の戦争からそのままだ。

鎧などはもう、穴が空いてしまっていた。

私の槍は、あの戦争で折れてしまっていた。

嫌ね。帝国全体が、呪われてしまっているみたい


気付けば私は、両手に槍を握り締めていた。恐怖に顎は震え、カタカタと不器用な音を立てた。その場に両膝を突き、私は真下に広がる血溜まりに、しゃくり上げるような声を漏らした。

埃だらけの、生活感の無い家。異常な程に寝過ごした、昼間の出来事。彼女が明かりを点ける事を、頑なに拒んだ理由。私を見て驚いた事と、直後に門番が呟いた言葉の真相。

隣国からのお客様、無事だと良いのだけど


私の左胸には、長く重い、一本の槍が刺さっている。

そこから滴り落ちるように、医師の家の玄関先で血は流れ、そこに紅い湖を作っていく。

月明かりの下、唯それだけが、鮮やかな色を発色していた。

民家の扉は閉まり、私は孤独になった。




いや、私はきっと、もう随分と前から、一人だった。

ただそのことに、今。

気が付いただけなのだろう。

Ⅵ  湧きて流れて、冷えて固まる

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