目を覚ますと、窓から僅かな光が漏れていた。状況の分からない私は、徐に辺りを見回した。

埃を被った本棚に、すっかりくたびれた鎧と兜。槍は折れてしまったし、壁に立てかけられた剣は、先の戦争からそのままだ。鎧などはもう、穴が空いてしまっていた。

近いうちに、これも直しておかなければ。いざという時にぼろの鎧では、やはり困る。

昨夜、彼女の傷の手当をした。ベッドに寝かされていた私は、気が付けばその部屋で眠ってしまっていたらしい。

朝焼けだろうか。どうやら、まだ太陽も昇っていない時間に目が覚めてしまったらしい。カーテンもない窓の向こう側は、青紫色に染まった雲がのんびりと空を遊泳している。

しかし、どうにもその光景は、私が見慣れたそれだった。太陽は、西の空から顔を出している。……西から太陽が昇る事は無いだろう。

なんだ、夕焼けか…………すっかり、日が暮れている。そう気付いた時に、私は直ぐに左手で頭を抱え、驚愕に目を見開いた。

騎士

…………なんということだ!!

丸一日、寝過ごしてしまったのか。騒々しく、肌着にチュニック、ズボンを履いて、私は部屋から飛び出した。

彼女の姿が見えない。……まさか、消えてしまったのか。

それよりも城に行って、先ず今日の失態について詫びなければならないか。……いや、それはもう間に合わない。ならば、後回しだ。

軋む階段を素早く降りて一階に向かい、すっかり埃が積もり生活感の無くなった玄関の扉を開いて、外へと向かった。


路地に出ると、右を、左を確認する。この時間になれば、自ずと通行人も限られる。路地の奥に見える大通りでは、商人が既に店を畳んでいた。

不意に、私のすぐ隣で小さな物音がした。地面に着地すると、僅かに跳ねるそれは…………小石。しかし、どうして小石など落ちて来るのだろうか。

不思議に思い、私は上を見上げた。その瞬間、探していた人を発見して、私は目を丸くした。

彼女は、屋根の上に居た。私を見下ろしている――……玄関扉の横に梯子が掛けてあるから、それで上がったのだろう。

……良かった。

消えてはいなかった。

思わず、私は胸を撫で下ろした。

屋根の向こうに、彼女の姿が消えた。梯子を登り、私も彼女の後を追う。屋根の上など、二年前に雨漏りがしたのを直して以来だが。彼女は高い場所で涼むのが好きなのだろうか。考えている内に屋根へと手を掛け、その上へと身体を持ち上げた。


視界に、彼女が映る。

彼女は地平線へと視線をやっていた。その先を追い掛けると、先程まで夕日が沈んでいたのか、そこだけはまだ空が橙色をしていた。

騎士

どうして、屋根の上に? ……危ないですから、気を付けてくださいね


声を掛けると、彼女は振り返った。

少し悪戯っ子のような顔をして、私に微笑み掛ける彼女。少しだけ意外な側面を見たような気がして、私は思わず頬を緩めてしまった。

女性

すいません。……でも、綺麗だったもので


城には、行かなかったか。夜になるまで、誰とも話をする事は無かったか。問い掛ける訳には行かない言葉が、頭の中で巡る。

彼女の顔を見る限りでは、落胆しているようには見えない。……ならば、特に何事も無く夜を迎えたのだろうか。幽霊というものが昼間にどのような活動をするのか、私には分からなかったが。

騎士

珍しいですか、夕日が沈むのが

女性

いいえ。……でも、ここは夕日が綺麗に見えますね。私の国は森に遮られていて、地平線に沈む太陽を見る事は叶わないもので


そうか。確かに、ちょうど隣国から見れば、西の空と言えばこの帝国――――即ち、森のある方角だ。ようやく彼女の隣まで歩いて来た私は、屋根の上に胡座をかいて、座り込んだ。

風が気持ち良い。先の戦争以降目立つ動きもなく、帝国には束の間の平和が訪れている。頬を撫でる穏やかな風は、澄んだ空気を私の所まで運んで来てくれる。

気が付けば私は、微笑みを浮かべていた。

騎士

大丈夫ですか、傷の方は


何の気兼ねもなく、自然とそのような言葉が口から漏れる。両膝を抱え込むようにして座っていた彼女は、同じように夜風に当たっていた。

女性

まだ、思い出したように痛む事がありますが……昼のうちに包帯を替える必要はありましたが、傷口は一先ず落ち着いたみたいです


素早い対応のお陰ですね、と彼女は笑った。だが、私は思わず左手をついて、彼女に向かって身を乗り出してしまった。

騎士

…………医師の所に、向かったのですか?


彼女の目を見て、真偽を問い質すかのように、言った。

医師に会ったとあらば、私が嘘を付いている事がばれてしまう。あの医師はとても温厚で優しく、凡そ偏屈とは反対側に居るような人物だ。

そう思ったが彼女は口を抑えて、堪え切れないといった様子でくすくすと笑った。

女性

大丈夫です、行っていませんよ。騎士様の言う通り、帝国への連絡もお任せする事にしました


よく考えれば、居場所を教えていないのに向かう事が出来る筈もない。私は疑り深すぎる……少し、反省した。

しかし、今日のうちに国王には話を通さなければならないだろう。彼女の事ではなく、見回りの休暇を取る事について。


それにしても。負傷していたのは左肩だ。屋根の上に登る事が出来るのなら、傷は良くなっていると考えても構わないのだろうか。

彼女は遠い草原を見詰めて、ぽつりと呟いた。

女性

……大変でしたね、先の戦争では


そういえば、あの場所は――――奇襲の際、敵兵が構えていた辺りか。

不意に、彼女は私にそのように言った。当時の状況を思い出し、やり切れない想いに包まれる。深刻な声色でそう話す彼女に、私は頷いた。

騎士

あんなものは、騎士の戦いとは言えません。市民を無差別に傷付ける、投げ槍など……


戦争の結末は、目の前で儚げな美しさを見せるこの夕暮れと、似たようなものだった。

音も無く、一切の声が止み、人々は静寂に包まれた。

いや、聞こえていなかっただけ、なのかもしれない。傷付いた騎士達は呻き声を上げていた。その声さえ、私の耳には届かなかったのだ。



時間が止まっていた。



私がその男を――――騒ぎの首謀者の胸を貫いたのだ、という真実。それが投げ槍による奇襲から始まった戦争の、紛れもない終焉となった。

騎士

無関係な人々が、どれだけ死んだことか……


自らの息でさえ、止まっているかのようにも感じられた一瞬。緊張の中、自分の取った行動だけが何度も繰り返し、脳裏に再生されていた。

女性

でも、貴方が救ってくれたのでしょう。騎士様の功績は、隣国にも伝わって来ましたよ


私は苦笑して、彼女に向かって両手を振った。

騎士

私は、何も。自分に出来る事が何かを考えて、行動していただけです

女性

素晴らしい事ですよ。どうして、そんなに悲観なさるのですか?


奇襲の首謀者が遠い国の国王だと分かった。その事実は、正義よりも何よりも、私の心に深く伸し掛かった。当時の感触は、未だ私の中に残っていた。

両手を見詰めると、何もかも思い出す事が出来る。

あの時の風景、臭い、悲鳴。

そして、血の温かさ。

その一瞬には喜びも悲しみもなく、ただ圧倒的な現実味だけがあった。

私の表情があまりに剣呑としていたからだろうか。彼女がふと寂しそうな表情になったので、慌てて私は笑った。

騎士

いや、私は――――


ところが彼女は私の真意を探るべく、透き通るような赤銅色の瞳で、なおも私の双眸を射抜いて来るのだ。

困ってしまった。気にしないで下さいと言った所で、納得はしてくれないだろう。

理解して貰えるかどうかは分からないが、相手は幽霊だ。

……ならば、胸の内を明かしてしまった方が、気が楽かもしれない。彼女から外部に漏れる事は無いのだし、無理に隠す事でもないだろうか。

騎士

いえ。ただ、消えないのです。隠そう、忘れようと思っても、何度でも蘇って来る……






両手に握り締めた、あの槍の感触が。




騎士

変ですね。戦争なんてものは、既に何度も経験した後だと言うのに……


まるで初めて人を殺した時のようだった。人の生命というものは、こんなにも呆気無いのだと思う感覚にも似た。

軟弱者だと、思われてしまっただろうか。だが、それは私の本心だった。

不思議な事に、未だに実感だけがそこにはあった。私の手で、その戦争を終わらせたのだという実感だけが。

彼女は私の姿を舐めるように見ていたが…………ふと、私の左手を彼女の両手で、包み込むように握った。

女性

事が大きいので、まだ実感が湧かないのかもしれませんね。……ですが、もう騎士様は、英雄と呼ばれています


聖母のような、微笑みを浮かべていた。その表情に胸が高鳴る事を彼女に悟られまいと、私は表情を固めて誤魔化そうとした。

この左手に感じる絹のような感触も、全てはまやかし。彼女は、霊なのだから。この歳になって一目惚れ等と、青臭い事を言う訳にもいかない。

女性

間違いなく、戦争には勝ちました。騎士様のお陰で……それを、お忘れなきよう


この世を去った者に、戦争の勝利を喜ばれるとは、なんとも奇妙な気分ではあったが。不思議と、私の胸の内では重たい荷物を降ろして自由になった時のように、何とも表現し難い解放感のようなものに満ち溢れていた。

紫色から群青色へと変わり、やがて完全な黒へと変化していくであろう夜空には、我先にと自己主張をするかのように、星が光り輝いていた。

Ⅲ  夕暮れを見詰めて思い出す

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