家に到着すると直ぐに部屋に入り、二階に上がると女性をベッドに座らせた。埃っぽいベッドだからか女性が咳き込んでしまい、私は改めて普段の掃除を怠っている事を申し訳なく思った。
燭台に火を入れると、女性が驚いて手を振った。何の事か分からず私は目を瞬かせてしまったが、目を擦りながら女性は呟いた。
家に到着すると直ぐに部屋に入り、二階に上がると女性をベッドに座らせた。埃っぽいベッドだからか女性が咳き込んでしまい、私は改めて普段の掃除を怠っている事を申し訳なく思った。
燭台に火を入れると、女性が驚いて手を振った。何の事か分からず私は目を瞬かせてしまったが、目を擦りながら女性は呟いた。
ごめんなさい、明かりは……
――――しまった。
あっ!! す、すみません!!
言うが早いか、私は慌てて明かりを消した。手で火を握り潰した為に、掌に焼けるような痛みが走る。固く両目を瞑り、私はその痛みに耐えた。
!?
同時に、亜麻色の髪の女性は私の行動に吃驚仰天して、口元を手で押さえた。
……私は一体、何をしているのだろうか。
相手は霊だ。明かりを点けてはいけない事など、火を見るよりも明らかではないか。そう思ったのは、既に火が消えて暫くしてからだった。
仕方ない。よく見えないが、このままやるしか無いだろう。
決意を固めると一度下へと戻り、道具一式を持ってから再び二階へと上がる。そこまで動いて、私はようやく気付いた。
敢えてベッドに座らせる必要はなかった。
これではまるで、私が誘っているようではないか。
湧き上がる羞恥心と、胸から顔にかけて迫り上がるような熱を感じた。
鼻の奥が痺れるような緊張を覚えたが、このまま何もしない事ほど愚かな事はない。
……ご婦人。大変申し訳ないが手当の為、私に背を向けて、肌を晒してはくれないか
私の緊張が伝わってしまったのか、女性も僅かに頬を染める。汚い家に物の少ない部屋、女っ気が無い事など一目でばれただろう。
戦場から戻った後に、傷付いた戦士を応急手当した事はあったが……このような状況は紛れも無く、初めてだった。
だが、四の五の言っていられる状況でも無い事は確かだ。女性は少し気恥ずかしそうにしながらも頷き、私に背を向けた。
気を遣わせてしまって、申し訳ありません
そう話すと、彼女は真っ白なチュニックの腰紐を緩める。
締め付けられていた布が広がった。明らかに彼女の身体には合っていないことが分かるほど、それは大きかった。首周りから肩を通し、彼女は私に素肌を見せる。
瞬間、息を呑んだ。
窓から漏れる月明かりに照らされて、白く艶やかな肌は僅かに光を反射する。左肩は血に塗れて汚れていたが、それでも彼女は美しかった。歴戦の勇士を称える、天使のようだとさえ感じた。
明かりが点けられなくては傷口が見えないと思っていたが、逆にこれは見えなくて正解だったのかもしれない。使命よりも羞恥心が上回り、まともに仕事が出来なくなりそうだ。
そのような事を心の裏側では考えつつも、私は彼女の背中から肩に掛けて、包帯を巻いていく。
痛っ!
すいません、今暫く耐えて下さい
素肌は艶かしく、まるで生きているかのように感じられる。本当は既に、亡くなっているにも関わらず。
……いや、生きているのだ。他の誰がどのように彼女を扱ったとしても、今私には彼女が見え、こうして触れる事が出来ている。
ならば、これを『人』と呼ばずして、どう呼ぶべきだろうか。
複雑な想いは、脳裏を駆け回った。
……すいません、ありがとうございます
痛みに少し声は上擦っていたが、彼女は私に礼を言った。
背を向けている状況では彼女の顔を見る事は出来なかったが、私は微笑んでいる事が伝わるよう、努めて柔らかい声を出した。
構いませんよ。それより、私の方こそ申し訳ない。緊急時とは言え、無骨な男の部屋にご婦人を招き入れるような真似をしてしまい……
いえ、騎士様は手荒な真似はしないと信じておりましたから
一応、信頼してくれていた、という事なのだろうか。女性の拉致や暴行問題が帝国でも発生していることは、彼女も知っている事だろう。
まあ彼女に限って言えば、他の男に目を付けられる事は無いのだろうが。
落ち着いたようで、彼女は左肩の痛みに顔を顰める事なく、柔和な笑みを浮かべた。
騎士様は、お城に住んでいらっしゃらないのですね
ええ、ここの国王は今時珍しいほどに、大変人情に厚い人柄でして。石造りに慣れない私に、木造の家を与えて下さいました
まあ、それも珍しいですね
口元を隠して慎み深く笑うというのも、豪快で短気な女性の多い我が国では珍しい態度だ。
好きなんです、木材の香りが。石は少し、冷たい雰囲気があって
分かります。暖かいですよね
透き通るような笑みを見せる彼女に、私はついに、気になっている事を聞くことにした。
処で、貴女はどうしてこのような時間に、森を歩いておられたのですか
包帯で傷口を塞ぎ、彼女の服を元に戻す。開けた部分を再び戻し、腰紐を締める……つもりだったのだが、どうにも上手く行かない。
サイズの合っていない服は、綺麗に戻そうとすれば戻そうとする程、崩れていくようにさえ感じられた。
彼女はくすりと笑い、私の手を避けた。自身の服に手を掛けると、私が苦戦していた純白のチュニックがみるみるうちに整っていく。
……器用な人だ。
……隣国より、呼ばれて参りました。一刻も早く、と。黙秘の使命故、騎士様と言えどお話する事は叶いませんが
隣国というと、森を抜けて直ぐ近くにある国か。彼女は鞄から帝国の紋章が入った手紙を取り出し、ちらりと私に見せる……なるほど。どうやら、本物らしい。
一人で?
彼女は頷いた。
ふと、考えた。
彼女は隣国から来る最中、狼に襲われるという事故に遭ったのではないか。だから、城の大通りを歩き続けていたのかもしれない。
永遠に辿り着けない城。その場所へと向かう為、幾度となく夜道を歩いていたのだとしたら。
そういえば、彼女は明かりを持っていなかった。途中で使い物にならなくなってしまった、と考えるのが普通だろうが……不運な事故もあったものだ。
ご身分について、お伺いしても?
一体、どういった関係で帝国に来たのか。何気無い一言ではあったが、彼女は少し困惑したように私を見た。
その表情に思わず、まずい事を聞いてしまったのかと考えてしまう。
私は……魔女です
だが、返って来た言葉は、想像を絶する一言だった。
……確かに今、魔女です、と。私には、そう言ったように聞こえた。
月明かりに溶け込むような彼女の姿はどこか幻想的で、確かに魔女と言われても納得できるような風貌ではあったが……自分で自分のことを『魔女』だと自称する人間を、私は見たことがない。
魔女?
私が問い掛けると、彼女はぞっとする程に冷たい笑みを浮かべて、言った。
はい。人の命を、いたずらに奪う『魔女』……そのように、認識して頂ければ
それ以上、私は何を問いかけることも出来ず、彼女から目を逸らしてしまった。
私とて、帝国に仕える国王の騎士だ。当然騎士として、神を信仰している。……その私に『魔女です』と公言するということは、殺してくれ、と言っているようなものだ。
どうしようもなく、前髪をかき上げた。彼女の考えていることが分からず、途方に暮れてしまう。
……あまり、ご自分を悲観なさらないよう
そう言うのが、精一杯だった。思い出したかのように私は、着ていた鎧を脱いでいく。
彼女はベッドに腰掛けたまま、何事も無かったかのように私を見た。
騎士様は、こんな夜更けに何をしていたのですか?
ええ、私は夜間の見回りで。そろそろ、終わる予定でした
もう直、昇り詰めた月は頂点を過ぎ、下降していくだろう。怪しい人物が居ないことは確認出来たので、後は門番に任せる、といったところだ。
帝国の呼ばれ人となれば、彼女は招待客だ。傷付いて動けないとあらば、助けない訳にもいかない。
この時間では、医師も既に眠っているだろう。朝まで私の方で休ませ、先ず医師の所へと連れて行くのが良いだろうか。
やはり……騎士様は、先の戦争の英雄様でございますか
ふと、外した鎧を床に下ろしながら、私は彼女の様子を見た。
頬には薄っすらと、涙の筋が浮かんでいた。思わず目が覚めるような想いで、私は彼女の事を見詰めてしまった。
青白く輪郭を光らせる、美しい女性。見る者に儚げで頼りない印象を与える彼女は、私の事を見詰めて泣いていた。
不覚にも、その表情に愛おしさを感じてしまった私は、思わず目を逸らした。
……え、英雄などではございませんっ。予想も出来ない奇襲に対処する事もまた、我々騎士の勤めでありますから
お会い出来て、良かったです。助けて頂いたことも……本当に、ありがとうございます
そう言って、彼女は私の手を握った。
少し冷たい手に、気恥ずかしさを感じていた私は我に返った。
……やはり、彼女は既に死んでしまっているのかもしれない。
やがて、予想は確信へと変わっていった。このように幻想的な美しさを持った女性を、私は嘗て見た事が無かった。
透き通る絹のように滑らかな肌も、しっとりとして繊細な指先も、全て私を魅入らせる為に神が齎したのではないかと思える程に、綺麗だった。
それは、綺麗過ぎた。あまりに現実的ではなかった。
朝には先ず、医師に見せる。
自分で考えたのは、つい先程の事ではあったが。……本当に、それで良いのだろうか。
燭台の明かりでさえ消して欲しいと願うような人だ、よく考えて見れば陽の光になど晒してしまえば、一瞬にして消えてしまうかもしれない。そう、今日の出来事が正に、夢であったかのように。
口には出さずとも、彼女の心は傷付いている。……欲していたのではないか。何か、そう……魂が救われるに足る、何かを。
帝国に呼ばれて向かった女性が、夜の森で狼に襲われて死んでしまった。
そのような悲劇が現実に起こった等と、考えたくもない。他所で考えている私でさえ目を背けたくなる出来事なのだから、当人である彼女は絶対に認められないだろう。
呼ばれて、帝国に行く。光に当たれば消えてしまうかもしれない。例え消えなかったとしても、辿り着いた所でもう、彼女の事に気付く者は誰も居ない。……あの、怪訝な表情を浮かべて城門を閉めた、門番のように。
……本当に、それで彼女は救われるのだろうか。
助けて頂いたのが騎士様で、本当に良かった
柔和な笑みだった。頬はほんのりと甘い桃のように、薄紅色に染まっている。
彼女が本当に望んでいる事を叶えるなら、医師に見せる事も、帝国に向かわせる事も、してはならない。
隣国からの招待客だ。緊急で呼ばれた、とも言っていた。永遠に到着しない、隣国の呼ばれ人。とうに話など、隣国から帝国に至る隅々まで、回っているに違いない。
傷が、治るまでで、構わないのですが
私は、覚悟を決めた。
此処で、病状を看るというのは、如何ですか。例えば……隣国の人間を……帝国の医師が、快く診るとも思えないのです
苦しい言い訳だろうか。私が嘘を言っている事が、ばれてしまうだろうか。
彼女は目を丸くして、私の事を見ていた。変な事を言っているという事は、百も承知だ。一歩間違えば、傷を言い訳にして彼女を手篭めにしようとしている、と勘違いされるかもしれない。
……そんなにも、お医者様は、帝国への忠誠が深い方なのですか?
目を逸らした嘘は、女性にはすぐ分かると云われる。
私は彼女の視線を真っ直ぐに射抜いて、口の端を僅かに吊り上げた。笑う訳ではないが、緊張を与えないようにしたい、という意味合いだった。
実は、そうなのです。この国には一人、傷だけではなく薬にも詳しい医師が居ますが、如何せん偏屈な男でして……かと言って隣国へ戻ろうにも、その傷では苦しい事もありましょう。遠慮せず、暖かいスープと美味しい野菜で栄養を取って、傷を治してください。帝国の事はその後でも遅くはないかと思います。体調を第一に考えた方が良いかと
これで、どうだろうか。如何にも話の辻褄の合った、巧い提案ではないだろうか。
駄目押しの一言を、最後に添えた。
帝国には、私から国王に説明しておきますので
明かりひとつ点いていない夜の部屋に、沈黙が訪れた。
彼女は頷いて、私の提案について考えているようだった――――私は国王の判決を待つ罪人のように、胸の奥を鷲掴みにされたような感情と、絶え間なく流れる嫌な汗に耐えていた。
帝国の騎士ともあろう男が女の尻を追い掛け回している等と、妙な勘違いをされはしないだろうか。
様々な想いは、体中を駆け巡ったが――……
…………分かりました。お言葉に甘えさせて頂きます
彼女はそう言って、笑った。
すうと、肩の荷が下りたような、安堵の感情に支配される。帝国を彷徨う奇妙な足音の正体がこのように美しい女性だったとは思いも寄らなかったが、これで国民の不安も少しは和らぐかもしれない。
傷が治っている訳でもなく、問題はまだ何も解決していない。どう喜んで良いものか分からなかったが、私は彼女に微笑みを返す事にした。