第7話










 俺は開いた口が塞がらなかった。だから、構えたリボルバーの銃口が、無意味に地面など向いていることにも、しばらく気付かなかった。



正確に言えば





 女性は――ドクター・ヤブの奥さんは、小さく息を吐き出し、続けた。恐らくは、虚言などではない――ここに来て彼女が嘘をつくメリットなど、一体何があるだろう――歴史改変の実態を。



唯一のコアユニットとして、ヒトを模して作製された、人工生命体。それが彼女よ。私達は、彼女をアストライアと名付けた

彼女は見ての通り、姿も中身も殆ど、ヒトのそれと変わらない。けれど、彼女はこの部屋に居ながらにして、世界中に点在する演算処理ユニットと接続し、私達が求める答えを――どの時代、どの地点でどんな行為を行えば、人類に必要な歴史が導かれるかを出力できる

勿論、改変の結果、予測と若干の誤差が生じる場合もあるけれど、それをどう補填すればいいかも随時出力できるわ。……あなたの守ろうとした種本翠さんも、その補填処理の対象だった





 女性は腕組みをして、こちらを真正面に見据えていた。そこに揺らぎや迷いは一切無い。それが俺に対して、最も有効であることを悟っているようだった。


 俺はというと、頭の中でグルグルと、落ち着きなく忙しなく、ひたすら思考が巡っていた。巡り続けていた。オイオイ、何だよこれ。こんなこと、ドクター・ヤブは一言も言って無かったぞ。何かの機械に銃弾を撃ち込めばいいだけの話じゃなかったのかよ。


 アストライアが女の子だってことは。


 つまり。



さて、では尋ねましょうか。アストライアを破壊……いいえ





 女性はわざとらしく勿体ぶって、言った。



その子を殺すのね? あなたは





 ドン、と、奈落に突き落とされたような錯覚が、全身を襲った。



そうしたいならどうぞ、ご自由に。彼女は破門者。成る程、破門者では無いあなたに、彼女の殺害は出来ない。普通ならばね

でも、あなたの右手には今、あの人から受け取ったリボルバーがある。それはあの人と共に時間移動をした、言わばスクリーンの外に一緒に出てきている存在。それでなら、撃ち殺せるでしょう。呆気なく

……殺人者になる覚悟があるなら





 息が荒くなっていくのを感じた。酷く苦しい。どうしようも無く苦しい。


 俺はまた、アストライアに目を向けた。


 彼女は変わらず、不思議そうに俺を見つめている。自身の何について議論されているのか、それすらも理解していないようだ。


 人口生命体? 馬鹿を言え。ただの小さな子供じゃないか。


 そんな、小さな子供を。



方法が分からない? 仕方ない子ね





 女性がピンと背筋を伸ばしたまま、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。俺は咄嗟に彼女へ銃口を向けた。が、相手は欠片程も脅える様子は無い。警戒もしない。散歩道を歩くかの如く、俺に近付いてくる。



銃を向けるのは、こっち





 女性は俺の腕を優しく掴み、方向を変えた。少女へと。



もう少し銃口を下げて。眉間に密着させれば良いわ。腕はしっかり伸ばして。反動は小さいけれど、ぶれることもあるから、念のため両手で構えましょう。……そう、これで大丈夫。後は引き金を引けば





 嫌味な程に丁寧に、彼女は俺に手解きをした。お膳立て、と言った方が正しいかも知れない。とにかく、彼女のお陰で、『破壊』の準備は全て整ったワケだ。


 俺の気持ちなど、一切関係無く。



さぁどうぞ、いつでも撃ち込んでいいのよ? ただ人差し指に力を込めるだけで、種本翠さんは人間に戻り、あなたは自分の時代に帰り、歴史改変事業もストップする。あなたの望みはすべて満たされるわ

但し。分かるわね?





 あなたは人を殺すのよ、と彼女は言った。優しく、冷たく。労るように、突き放すように。


 自分でも情けないほどに、腕が震えていた。全身が震えていた。歯はガチガチと鳴り、まるで極寒の吹雪に放り出されたかのようだった。


 いま、ここで掴み取れる選択肢は何か? 答えは一つだ。引き金を引かなければ、俺はそもそも自分の時代にすら帰れない。親も友人も恋人も居ない、終末の見えたこの時代で生きていくことになる。種本を救うどころの話じゃなくなるんだ。


 だから。


 何度も深呼吸をする。その度に腹の底が重くなっていく。鉛を飲み込んでいるかのように。


 引き金を引け。


 【銀の弾丸】を撃て。


 手に入れるんだ。俺の望みを。


 殺してでも。


 それ以外に道は無いんだ。


 だから、撃て。


 撃て。


 撃て!




 俺は雄叫びを上げた。




 引き金に力を込めた。




 少女はやはり、不思議そうに俺を見つめ返していた。




 ――ドン、と、重苦しい音と共に、反動が両腕を伝った。



畜生





 吐き気がした。呟いた俺は、力なく、その場に膝をつく。


 撃ち込んだ銃弾は、真っ白な部屋の天井に受け止められ、無言で俺たちを見下ろしていた。少女は自分の頬を掠めた弾丸の意味を分かっているのかいないのか、何も言わずにじっと立っている。



分かっていたことよ。初めから、あなたにこの子が殺せないことは





 女性がゆっくりとやってきて、俺の手からリボルバーを奪う。俺はなすがままだった。全身に力が入らない。無力感と虚脱感が全身を支配している。



アストライアはあなたへの措置を提示しなかった。それはつまり、あなたにこの子は殺せないということ

歴史の改変方法を提示するシステムがそう見なしているのだから、至極当然の帰結ね





 黒い、重たい凶器が手から取り除かれて、しばらく俺は空になった掌を見つめていた。それから、一人呟いた。「何でだよ」と。



あんたなんて旦那すら殺せたのに、何で俺は

『見ず知らずの女の子も殺せないのか』? そうね。もしここに居るのがあなたではなく、あのヤモリになった女の子だったなら、アストライアは殺せたでしょう。もしくは、ここに来たのがあの人だったら





 カラカラと、金属が落ちるような音がした。ゆっくりと振り向くと、女性は俺から奪ったリボルバーの、その銃弾をすべて床に落としていた。そして、空になった銃を後方へ投げ捨てる。



答えは一つ。見ず知らずの人間を殺せるだけの動機が、あなたには無い





 がん、と、重い音が響いた。リボルバーはもう見えない。女性は入り口でまた、腕組みをしてこちらを見つめている。どこか、憐みのこもった視線で。



元来、人は人を殺したくないものよ。戦争の時でさえそう。戦闘命令が無い時は、敵味方関係なく煙草をふかすこともある

兵士でさえそうなんだもの。平和な時代に生まれたあなたのような人間が、突然人を――それも、何も知らない子供を――殺せと言われても、そうそう殺せるわけがない。例え、愛する人のためだとしてもね

……ヤモリになったのがあなた自身であったなら、話は別だったでしょうけれど





 つい先ほど聞いたドクター・ヤブの言葉が、頭をふっとよぎった。我が事でもない、真に迫って無い事なんだから、人間なんてこんなものさ。


 そう。そうだったのだ。


 俺も『こんなもの』でしかなかったのだ。



私の場合は





 ドクター・ヤブの奥さんの言葉が、近くに居るのに、ひどく遠くで聞こえる。頭がぐらぐらした。その中で、俺はただじっと、彼女を見つめることしか出来なかった。



私には、責任があるから。この事業を失敗させないために、人類のために。せざるを得なかったから、撃った。ただそれだけよ

良かったじゃない。人を殺すこと、殺せることは、勇気でもなければ蛮勇ですらない。あなたはただ、他を犠牲に出来ない、優しい人間だった。そう考えましょう





 俺は何も言わなかった。何も言えなかった。ただ硬い地面に膝をつき、女性の言葉を受け止めるだけで精一杯だ。



さて。あなたはこれからどうするつもり?





 どうするって、と、問い返そうとしたが、言葉はもごもごと口の中で詰まるだけだった。どうする。そう問われても、もうどうしようもない。


 俺は威勢よく歩くことだけが取り柄の、非力な人間だったのだ。誰かが何かをしてくれること、それだけに頼っているだけの馬鹿者だったのだ。だから、そんな俺に出来ることと言えば、すべてを諦めてこの時代に投降するか。

 それとも。



……そう。それもいいかも知れない





 思い至って、ゆっくりと懐に手を突っ込む俺を見て、女性はただ、頷いた。取り出したのは、注射器。あの路地裏で受け取った注射器だ。種本をヤモリに変えた注射器だ。


 これを打たれた種本は、それまでの自分の行動をすべて忘れていた。そして、自分がなぜそこに居るか、その経緯すら勝手に創り出し、納得していた。だから。



それを打てば、あなたもきっと、楽になれるでしょう。歴史の改変を受け入れ、何故自分が今ここに居るのか、その理由や経緯すらも脳が創り出す

その時、あなたがどんな理屈でこの時代に居ることを処理するかは、予想も出来ないけれど





 少なくとも、この無力感と絶望からは逃れられるだろう。俺はそう思った。


 ゆっくり、注射器を持ち上げる。首筋へと持っていく。脳裏にはドクター・ヤブの、そして、人間だった頃の種本の姿が浮かんだ。ただただ後悔しか湧き出なかった。この、どうしようも無い結末に。


 ……と、その時。


 ふと思った。




 ――アストライアは、どうしてヒトの姿をしているんだろう。




 何故、そんな疑問が湧き出たのかは分からない。絶望で頭がおかしくなったのか、それとも。だが、いずれにせよ、その一筋の疑問は、俺の頭に次々と、更なる問い掛けを矢のように放った。


 そもそも、何故ドクター・ヤブは、俺をこの場に連れてきたのだろう。よくよく考えれば、その必要は無かったのでは? 立ちはだかりそうな奴の恥を調べて、それを報告させるだけで良かったはずだ。


 事実、ここに来てから、俺が何か特別なことをした記憶もない。すべて彼一人出来たんじゃないか? むしろ、俺という部外者を招き入れること自体に、要らぬリスクが生じていたはずだ。


 それに、俺にアストライアを殺せないことが確定済みの事実だったのだとしたら、何故ドクター・ヤブはそれに気づかなかったのだろう? あれだけ何でも出来て、他人の思考まで読めた人間が、何故あっさりと撃ち殺されたのか?


 何故。


 何故、彼は最期に、「後は頑張れ」などと、わざわざ言い遺したのだろう。


 俺はゆっくりと、背後の少女へと目を向けた。入り口の女性が怪訝そうにこちらを向けている。その中で、俺は思い返していた。ここに至るまでに聞いた、幾つもの言葉たちを。




『歴史の改変っていうのはモノすごぉくリスクを伴うからねぇ』




『コアユニットは希少な存在で、代替品をすぐに用意出来るようなシロモノじゃあない』




『どうしてあたしたちに、あなたの言う超激レア能力なんてものが?』




『偶然ですよ。そして、メカニズムも良く分かっていない』




 ――それは、ほぼ同時だったと思う。俺が答えを導き出したのと、ドクター・ヤブの奥さんがこちらの視線の意味を汲み取ったのと。そして、彼女が静止の声を上げて銃を構えるのと、俺がアストライアの背後に回るのと。


 同時だった。


 本当の【銀の弾丸】が何なのか、俺たちが気付いたのは。



アストライアから離れなさい!

撃つなよ! あんたが今、この場でこの子を間違えて撃ち殺しても、結果は一緒なんだろ!?





 恥も外聞も無く、俺は少女を盾にして怒鳴った。やはりアストライアは微動だにせず、俺たちのやり取りを沈黙のまま見つめている。そんな彼女の首筋に、俺は右手を添えていた。


 あの注射器を握りしめて。



そうやって焦ったってことは、俺の考えが正しいってことだな? で、あんたに取っても盲点だったわけだ。こいつをこんな風に使われるのは!

しくじったわ。気づくべきだった。何故あの人が、あなたをここへ導いたのか





 厳しい表情で彼女は言った。やはりそうなのだ。漠然とした、雲のようにふわふわした感覚のまま、直感の命じるままに動いた。だが、正解だった。


 何故アストライアがヒトの姿をしているのか? 答えは一つだ。



この子は、俺や種本と同じなんだな? 歴史改変を検知できる能力を持ってる。そして、歴史改変には、この力がどうしても必要だった!





 目の前の女性は言った。改変の結果に予測と誤差が生じていた場合も、それをどう補填すればいいか、アストライアは出力できると。


 それは、つまり。



うまく言えねえけど、何となく分かるぞ。改変して『誤差が出る場合がある』ってことは、予測した改変と、改変した結果がどう違うのか、毎回確認しなきゃならないってことだ。何せ、『歴史の改変っていうのはモノすごぉくリスクを伴う』んだからな

で、誤差が出てる場合は、それが分かった時点ですぐに修正しなきゃいけない。あんたが、スーツ野郎を倒した俺たちの後ろに、すぐに現れたように!





 怒鳴る様に言った直後、突然、部屋の中に大きな警報が鳴り響き始めた。それは丁度、避難訓練の時に鳴り響く、不安を掻きたてるようなアラートで、それと呼応するように、部屋の照明も赤く点灯し始める。



正しくは『一定の閾値に達した誤差を検知するため』よ。私たちの介入によって、歴史は常に変動してる。だから、危険域に達した誤差を検出したタイミングで、それをどう修正すべきかを算出する必要があった

ああそうかい、で、今がちょうどその時なワケだ! 俺のこの動きで、今のこの世界から見て『危険域に達した誤差』が出てるんだな!?





 俺は冷や汗を流しながら笑った。皮肉な話だ。この行動の意味するところを、彼ら未来人自身が証明してくれているワケなのだから。



あなたの言う通りよ。歴史改変検知の能力は、ヒトにのみ与えられた偶然の産物。私たちには、その能力を消すことは出来ても、創り出すことだけはどうしても出来なかった

だから無数の人口生命体を創り出し、その中で唯一、能力を持ったその子を、時間移動までさせて『永遠』にした。そして確かに、その注射で――私と共に時を移動したその注射器を使って、アストライアの検知能力を消滅させることは、この計画の崩壊を意味する

助かったよ。俺じゃこの子は殺せない。けど、注射を打つくらいなら出来る!

やめなさい。あなたは分かっていない。計画が無に帰すこと、それが一体何を示すのか





 アラート音が鳴り響く。部屋中を刺し貫くように点灯する赤い光は、俺たちを瞬間的に染め上げ、また消えていく。



私たちがなぜ歴史改変を行い始めたか。それは、あなたにとっても無関係な話では無いのよ





 女性は厳しい視線を俺に向けていた。銃口と共に。



歴史改変が無に帰せば、改善傾向にあったこの時代も元に戻る。あなたにとって遥か未来でも、あなたの子孫が暮らす時代が、また地獄に近くなる!

あなたは見たことが無いかもしれない。でも、この時代の人々にとって、人類にとって、これはもう死活問題なの!





 俺は街で見たスクリーンを思い浮かべた。空を虚ろに見上げる人々を思い出した。


 見なきゃよかった、と呟いたことを思い出した。



お願い、その注射器を捨てて。よく考えなさい。ヒトは自身のためだけでなく、後世に何かを残すためにも生きるべきだわ。その為に自分が今、何をすべきなのか――

その答えが





 俺は大きく息を吐き出した。そして、少女の肩越しに、女性に尋ねる。



あんたにとってのその答えが、旦那を撃ち殺すことだったのか





 女性の眉がぴくりと動いた。銃口はぶれない。アラート音はまだ鳴り響いている。



ええ





 女性は強張った表情で、硬く、冷たく、それでいてどこか哀しそうに、そう言った。



そっか





 返事をした。しながら考えた。今更ながら考えた。この【銀の弾丸】を放つ、その意味を。



お願い





 ドクター・ヤブの奥さんが、小さく言う。懇願するように。彼女も必死なのだ。本気で未来を考えている。だから、私情を押し殺し、旦那を撃ち抜くことすらやってのけた。


 人類のため、未来のために、自分を犠牲にする。シンプルに考えて、それが素晴らしいことでなくてなんだろう。


 ――だが。



『キミはキミ自身の、私は私自身のために』



あんたの考え方は、さ





 口を開いた俺に、女性は微かに体を震わせた。



凄く立派だと思うし、尊敬できる。ドクター・ヤブなんかより、よっぽど





 女性は応えなかった。黙ってこちらを見つめている。



でも





 そう。でも、だ。



それ、あんた自身が辛すぎない?





 俺はじっと女性を見つめた。見つめながら思い返していた。手鏡を見て、種本が卒倒したことを。ドクター・ヤブが突然、前のめりに倒れたことを。強張った表情で返事をした、目の前の女性のことを。


 そんなことが起きて、そして、これからも続くくらいなら。



俺はそれ、認めたくねえ





 言い放つと、女性は嘆息を漏らした。呆れたような、諦めたような、そんな溜息だった。



ならば

だから。……一つ、思いついたことがある





 そう告げた、その直後だった。


 騒がしく響いていた警報が、突然、嘘のように鳴り止んだ。


 女性が、驚いた様子で頭上を見る。部屋の中の照明も、元の柔らかな光しか放たない。


 警報は――アラートは、消えた。



あなた……





 その時、ドクター・ヤブの奥さんは、どういう気分で俺を見つめていたのだろう。警報が消えたことを、その意味を、どう捉えただろうか。


 ひょっとすると、安堵だったかもしれない。俺が注射を打つのをやめたから。【銀の弾丸】は放たれなくなったから。だから、『危険域に達した誤差』が無くなったのだと、そう捉えたのかも知れない。


 だが、そうだとすれば、実態はまるで逆だ。そして、逆だからこそ――俺はその、鳴り止んだ警報の意味するところに、小さく笑った。


 それは俺にとってエールであり、激励だった。ドクター・ヤブが提示したものでも、目の前の女性が提示したものでもない、第三の選択肢。これまでの俺では成し遂げられそうにない、途轍もなく困難な筈の獣道。にもかかわらず、警報は鳴り止んだのだ。


 ならば。


 もう、やるしかないだろう。



見てろよ、ドクター・ヤブ





 呟いてからは、何もかもが一瞬だった。右手の注射器を再度、握りしめたこと。親指に力を入れ、一息に押子を押し出したこと。ドクター・ヤブの奥さんが悲鳴のような叫び声を上げたこと。注射を打たれたアストライアが、床に崩れそうになったこと。


 そして、それらすべての時の中で。


 俺の目の前は、何の前触れもなく、真っ白に塗り潰された。

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