第6話






 外へ出ると、眩しさに目が眩んだ。


 暫くの間、目を細めて出口で突っ立っていると、無数の足音と喧騒が、細波のように押し寄せてきた。やがて見据えた正面には、気味が悪い程に澄み渡った青空の下、ビル街と雑踏が俺を出迎えている。



おや、もしかして





 街に踏み込んだドクター・ヤブが、こちらを振り返って言う。



ホームシックにでもかかったかい? それとも、改変の検知を?





 何でもねえよ、と告げて彼に続くと、相手は眉を上下に動かし「そりゃ結構」と述べた。



今更ホームシックになられても、私も困っちゃうからねぇ

そりゃな。もう帰れねえし

成功したら帰れるよ? もしくは、タイム・マシンに乗るか

化け物にならねえならそれもアリだけどな

そりゃあ無理だ。文句なら宇宙か奧さんに言わないと

奧さん?

『カミさん』





 そう言ってドクター・ヤブはゲラゲラと笑った。が、やがて無反応のこちらに「あれ、面白くない?」などとほざいてきた。言わずもがなである。



何だァ、調子狂うなぁ。ちょっと前はもっとグイグイ来てたじゃん? あ、緊張してる? もしかして心臓バクバク?

アレ

あれ?





 応えずに歩きだした俺は――我ながら酷い仏頂面だと認識しながらも――正面にそびえる、東京スカイツリーばりに高い灰色の丸いビル、その地上十メートル程の場所に設えられた、巨大なスクリーンを指差した。


 縦十メートル、横二十メートル程のスクリーンには、倒壊・崩壊した、ボロボロのコンクリートビルの俯瞰映像が映し出されていて、布切れを巻いただけの恰好をした無数の人々が、ボンヤリとこちらを見返している。



前に見た時も思ったけどよ。アレ、何なんだ?

あれかぁ。あ、そろそろ始まりそうだし、見ていれば?

始まる?





 尋ね返した途端、ビル街に派手なファンファーレが鳴り響いた。思わず立ち止まると、雑踏を行き交う人々が皆、一様に立ち止まり、笑顔を浮かべてスクリーンを見つめている。何かを期待するかのように。


 つられて正面のビルを見ると、いつの間にかスクリーン左端に、飴や服、肉や缶詰などのアイコンと、『×20』などと個数を示すような表示が並んでいた。ゲームなんかでみるアイテム所持数の表現によく似ている。


 怪訝な視線を向けていると、やがてそれら個数表示が減り始めた。周囲から喚声が上がり、同時に、スクリーンの中の小汚ない人々、その無数の目に異様な光が灯る。



アレもね、社会福祉事業の一環だよ





 隣で、ドクター・ヤブが呟くように言った。スクリーンの人々は軒並み立ち上がり、こちらに手を伸ばしている。声は聞こえないが、何か喚いている。一心不乱に叫んでいる。生者を見つけた亡者が、生き血を啜ろうと襲いくるかのような必死さで。


 スクリーンに、フラフラとゴミのようなものが現れた。それはどうやら、パラシュートをつけられた荷物のようで、人々はそれら『天の恵み』を得ようと必死になっているようだ。やがて次々に舞い落ちるそれらを掴んだ人々は、我先にと荷物の中を漁り、中にはライバルを殴り飛ばし、蹴飛ばして、恵みを手に入れようと群がっていく。



ここより数百メートル下の大地に住む貧民達への慰安の品々、その神聖なる贈呈の儀さ

おっ、小さな子が飴を手に入れて嬉しそうにしてるね。ああいうのに、我々はこの上無い喜びを感じるんだなァ





 スクリーン右端に地上の人々の顔写真が並び始め、その隣に、投下した品々のアイコンが表示されていく。どうやら、誰が何をどれだけ手に入れたかを示しているらしい。方々で「またアイツかー」とか「また当たったぜ」等と声が上がっている。尋ねる前に、ドクター・ヤブが言った。「ま、自然、賭事の対象にもなるよね」と。


 胸糞悪くなって、俺はライヴ映像の右下に拡大して映し出されている、飴を頬張る子供から目を背けた。巻き起こる拍手に耳を塞いだ。とにかく、速足に歩いた。



おや、お気に召さない?

ああ召さないね。出来るなら適当に二、三人、ブン殴りたい位だ

おやおや、それはまたお気の毒。まァ確かに、キミの時代の倫理観からするとアレかもねぇ。かように歴史、時代によって、人の美意識や善悪は移ろうものだ。なんつって





 でもねぇ、とドクター・ヤブは両腕を頭の後ろで組み、気の無い調子で続けた。



ぶっちゃけ、キミらの時代でも似たようなことあるでしょ? 歴史は地続きだからねえ。あれらは言わば、キミらの時代から連綿と続く文化の終着であり、この時代の人々にとっちゃ、正義以外の何者でも無かったりする

……さっさと行くぞ





 イライラして返す一方、どこかでその説明に『成る程』と思っている自分も居た。周囲にそびえる無数のビルはシックで落ち着いたデザインであり、ゴミ一つ落ちていない路は真っ白で陶器のようにスベスベだ。きっとさぞかし素晴らしい素材で造られていらっしゃるのだろう。だが、そんな街並みも、狂乱の人々も、シルエットで捉えれば、俺の居た時代と大層な変化はない。


 そう。俺は今、未来に居た。


 正確に言うと、俺はドクター・ヤブが元々生きていた時代へと到達していた。と言っても、体感的にはあれから――ドクター・ヤブに【銀の弾丸】計画を持ちかけられてから、二週間ほどしか経っていないため、こうして未来社会を歩いていても、時代劇のセットの中を歩いているような、電車に乗って数時間揺られれば家に帰れるような、そんな呑気な感覚が体を占めていた。


 とにかく、実感が湧かないのだ。俺の生まれた時代は遥か過去、歴史年表の一ページでしかなく、親も友達も種本もずっと昔に死んだことになっているなど、全くピンと来ない。


 ただ――これは恐らくだが――ピンと来ないままの方が、逆にいいのではないかと思う。【銀の弾丸】計画には、こうして俺が未来に来ることが必要不可欠だった。そして事が終われば――ドクター・ヤブの言う通りだと――俺は元の時代に無事戻れる。だから、深く考える必要などなく、魔王の城に乗り込む勇者の気持ちで、威勢よく進めばいいのだ。



おっとミスター・イデ、こっちこっち





 先行していた俺を、ドクター・ヤブが呼んだ。見ると真っ白な道の端に、船着き場の杭を腰の高さまで引き上げたような、真っ黒で小さな柱が立っている。


 近くに寄った俺を見て、ドクター・ヤブが何やら柱の天辺に指を這わせる。と、やがて足下の地面がゆっくりと動き出した。どうやら、道の一部と同化したベルトコンベアのようなものらしい。俺たちをどこかへ運んでくれるようだ。


 大きな駅で見る『動く歩道』をボンヤリと思い浮かべながら、俺はしばらく、ドクター・ヤブと共に、そのままヌルヌルと動く道の上で、過ぎていく未来社会を眺めた。統一感のある丸いビルが延々と並んでいて、住宅地なのかオフィス街なのか判然としない。いや、もう、そういった区別すら無い世界なのか。



未来社会、ねぇ

映画のセットみたいでしょ? 自分の知ってる街並みと中~途半端に違ってて





 言い当てられて思わず隣を見ると、ドクター・ヤブはニカッと笑った。「私も初めて他の時代に向かった時、似たようなことを思ったからね」と。



まァ、今のうちに心置きなくご鑑賞くださいませよ。計画が成功すれば、その瞬間に全ての歴史改変は『行われなかった』ことになる

そうなるとキミがこの時代に来る必要も無かったことになるから、キミは自動的に元の時代へひとっとび!

ん、でもちょっと待てよ?





 今更ながら頭がこんがらがってきて、俺はドクター・ヤブに向き直った。『未来を変えることで過去を変える』というのがこの計画の肝であり、面妖で、分かりづらく、即ち奇妙なところだが、タイム・マシン開発者が言うのだから正しくはあるのだろう。しかし、だ。



俺が今ここに居る、っていう記憶はどうなるんだ? この時代に来なかったことになるんなら、忘れちまうってことになるんじゃねえの?

さぁ? なってみないと分からないねぇ。ダイジョーブ大丈夫、最悪の場合でも、宇宙が時間の捻れ具合を許容出来なくなって崩壊するくらいさ

崩壊ぃ!?

それもまた滅びの美学……





 ドクター・ヤブは神妙な顔で合掌してみせた。無茶苦茶である。何でそれを早く言わないんだ。俺は宇宙と自殺する気なんて毛頭無いぞ。そんな抗議の意思を表明しようとすると、相手は先手を打って「大丈夫ダイジョーブぅ」と軽く笑った。



宇宙はそんなにヤワじゃあないさ! 親殺しのパラドックスだって実際には起きなかった

結局のところ、たかが地球のたかがいち生命体が、この広大な宇宙に喧嘩を売れると思うこと自体が驕りだと思うね、私は。きっとウマいことあしらって貰えるよ

そんなもんかなぁ





 ぼやく俺に、彼はニカッと笑って、親指を立てて見せた。それを受け取りながら、俺は一方で考えていた。先程の貧民ライヴ映像のことを。計画が成功した後、彼らがどうなるかを。ああして手を伸ばしていた彼らが、更にどうなってしまうのかを。


 既に幾つかの歴史改変が済んだ状態でも、『アレ』なのだ。その改変が無くなってしまうということは、つまり。



見なけりゃ良かった





 吐き出すように呟いた。ドクター・ヤブは珍しく何も言わなかった。


 しばし沈黙が流れて、その間に、動く地面は俺達をぬるぬると運んでいった。快晴で灰色のビル街は、いつしかトンネルに取って代わり、そこからは代わり映えのしない常備灯の灯る、暗い道をひたすら進む。


 何度か分かれ道にも出会ったが、地面は何も言わず、迷わず、一定の速度のままで、進む道を選択していく。どうやら、最初にパチパチと柱を叩いていた効果のようだ。



ようし、着いた着いた!





 やがて地面は音もなく停止し、ドクター・ヤブが盛大な伸びをした。


 トンネルは遥か先まで続いていて、遠くは暗黒に塗り潰されている。そんな真っ暗な道の中だから、俺達の傍に設えられている、オフィスビルの玄関を彷彿とさせる小綺麗な入口は、やたらと目立って仕方が無かった。


 そう、まさにビルの入口だ。見通しの良いガラス張りの正面玄関中央には自動ドアが設えられており、その先に警備員らしきオッサンの詰め所が見える。詰所の前にはもう一枚自動ドアがあって、更にその先には各フロアの案内板らしきものが壁に張られていた。そして、ソファや観葉植物などが置かれたホールの奥には、エレベーターらしき扉が四つ、無愛想にこちらを見返している。



ここが?

うん。あ、もしかして、重要プロジェクトはもっと仰々しい場所で進んでると思ってる派?





 残念だねぇ、とドクター・ヤブは笑った。



世の中なんて得てしてこういうもんだよ





 俺はドクター・ヤブに続いて玄関をくぐった。アフリカ系パンチパーマ野郎は俺のことを「私のファンなの、ハッハッハ」などと警備員に説明したが、不愉快だったのは言うまでもない。ややあって、俺はドクター・ヤブと共にエレベーターホールへ通された。



入館証とか要らねえの? これならまだ、俺の職場の方がセキュリティ高いぞ

凄い職場だねえ! ここも一応、ドアをくぐった時点で生体認証してるんだけど、それよりとはねェ





 鼻歌混じりに言われ、イラついて反論しようとした途端、眼前のエレベーターの扉が開いた。「行くよー」と促され、中に入ると、扉は音もなく閉まり、やがて極々静かではあるが、低い機械音が響き始める。動いているらしい。



いらっしゃいませ、EDさん。 
トーキョーは本日、雨の模様ですよ

……ED?





 エレベーター内に響いた音声ガイドに、思わず疑問が漏れた。あらぬ疑いを予期させる呼び掛けである。まさか挑発ではあるまいが――。



キミの名前だよ? 今のキミはトーキョー出身の二十四歳、趣味は山歩きと川走り、姓がE、名がDのEDさん……という設定なのさ!

さっきのゲートをくぐる時には、この時代の国民に与えられる生体IDと照合されちゃうからね。で、生体認証するとそんな人物だってスキャンされるように、キミが寝てる時にちょっと体をイジらせて貰ったんだ。言わなかったっけ?

あ、ちなみに名前はキミの苗字の『イデ』から取ったんだ、なかなかイカしてるだろ?





 いけしゃあしゃあと言い放つドクター・ヤブに、俺は何も言わずに掴みかかった。直後、≪喧嘩は止めて。落ち着きましょう≫と音声ガイドが響く。どうやら、こちらの動きを察知して言う事を変えるらしい。やはり未来、伊達ではない。


さて、それではミスター・イデ。ここからが本番だよ





 こちらの動きが止まった隙に、ドクター・ヤブは両手を広げた。



実はこのエレベーターに乗れた時点で、計画の第一段階は成功してる。部外者のキミごと中枢部に向かっていることになっているからね。いやぁ、暇つぶしに身に着けたハッキング技術が役に立った!

あ、どうせならキミも色々覚えておくといいよ。暇つぶしに何か学ぶと、こうして意外なところで使えるから

オイ、姓がE、名がDってどんな日本人だ。悪意しか感じねえぞコラ

でも、肝心なのはここから。キミに手伝って貰った準備が、はてさてどれだけ有効かな?

今すぐ修正しろ。もしくは謝れ

最深部までにどれだけ邪魔が入るかだなぁ。着いたらもう、後は破壊するだけなんだけど

おい!

あ、着いた





 微かな振動の後、やや遅れて扉が開いて、ドクター・ヤブはさっさと進もうとした。罵詈雑言を浴びせる俺を、エレベーターが≪喧嘩は止めてください、争いは何も生みません≫などと諭してくる。腹立たしいことこの上無い。


 と。



 いらっしゃい。 
 お待ちしていましたよ、博士  





 ――聞き覚えのある声がして、俺たちは同時に立ち止まった。


 エレベーターの外は、玄関口とは明らかに趣が違っていた。足元は白く淡く輝いていて、二人がぎりぎり横に並んで歩ける程度の幅を持つ通路が奥に続いているらしい。が、壁らしきものがうっすら見えるのは、足元からの光に照らされる腰の高さ位までで、それより上は真っ暗に塗り潰されていた。頭上には星空を模しているのか、無数の小さな輝きが煌めいている。


 その、真っ白な道の先に。



そして、貴方もね





 図書館から路地裏まで俺たちを追い回した、あのスーツ野郎が仁王立ちしていた。



必ずこのタイミングを狙ってくると思っていましたが、予想通りでしたね

スーツ野郎……

どうも、ご無沙汰しています。息災なご様子で何よりですよ





 厭味ったらしくスーツ野郎は言った。敵意が顔に表れている。だが、それはこちらも同じだ。じっと睨んでいると、向こうは「そう怖い顔をしないで下さい」と鼻で笑った。



これでも、私は貴方を見直しているんです。種本翠さんを元に戻すため、わざわざ破門者にまでなってここへやって来たんでしょう? その決断力は、まさに称賛に値します

その様子だと、気づいているんだね? 我々の狙い目を

当然です。『アストライア』でしょう? 狙うとすればそこで、狙えるとしたらこの時しかないのですから





 少し得意げにスーツ野郎は言った。そう、彼の言う通り、俺たちの目的は、アストライア――歴史改変サポート用プログラムの破壊だ。


 ドクター・ヤブによると、俺たちが居るこの日時は、歴史改変事業が本格稼働する前のタイミングらしい。従って、今ここでアストライアを破壊すれば、そもそも歴史改変は行えなかったことになる。


 劇場の例で言うと、スクリーンの中にちょっかいをかけようとした俳優を、直前で羽交い絞めにしてしまうわけだ。こうすれば、そもそもスクリーンの中へのちょっかいは無かったことになり、映画は元通りのストーリーを辿る――つまり、改変されたすべての事象は元に戻る。ざっくりというと、【銀の弾丸】計画とは、このようなものだった。


 まさに【銀の弾丸】だ。オオカミ男を一撃で葬り去る、特殊な弾丸。あらゆる歴史の歪みを、たった一発の銃弾で矯正する、この計画の名に相応しい。



今更ながら思いますが、博士。貴方は元々、この歴史改変事業を阻止することを前提に、システム開発を行われたのですね?

アストライアは一見すると非常に堅固なシステムだ。無数の演算処理ユニットと唯一のコアユニットに分かれていて、演算処理ユニットは世界中に点在し、一斉破壊しない限りシステムは止まらない

そしてこの先に安置されているコアユニットも、事前に時間移動を行わせることで――貴方のお好きな劇場の例でいうと、スクリーンの外側に持っていくことで、世界からのあらゆる干渉を防ぎ、物理面での耐久性を百パーセント確保している

しかし、破門されているが故に、同じ破門者に破壊されてしまうと、もう取り返しがつかなくなってしまっている

Yes! コアユニットは希少な存在で、代替品をすぐに用意出来るようなシロモノじゃあない。よって、我々がコアユニットに辿り着いた時点で、この社会福祉事業は一巻の終わりてワケだね!

させませんよ。貴方がたの計画、その唯一の問題点は、時間移動自体が逆探知されやすいということだ。だから私もこうして動きを察知し、今ここにいる

博士、この事業に関する誓約は覚えていらっしゃいますね? 仮に参加者が反旗を翻した場合





 スーツ野郎は静かに、懐から黒光りする塊を取り出した。路地裏で見たものと同じ、リボルバーだ。



超法規的措置により、同参加者がその者を処分することは罪に問われない





 星空の廊下の空気が、痛いほどに張りつめた。スーツ野郎も本気なのだろう。銃口は揺らぐことなく、ドクター・ヤブを見据えている。俺については……一瞥すらしない。どうやら、歯牙にもかけていないらしい。



ですが、博士。私はこれでも、貴方を尊敬しています。だから、大人しく拘束されてほしい

逃げても無駄ですよ。いつでも貴方がたを追えるよう、わざわざタイム・マシンまでここに持ってきましたからね

えっホントに?





 珍しくドクター・ヤブが驚いた様子を見せた。俺は銃口が向いていないことをいいことに、スーツ野郎へと近づいてみる。すると、成る程、暗くてよく見えていなかったが、先は小さなホールになっていて、スーツ野郎はそこに居るらしい。その背後には大きな両開きの扉が、そしてその隣には、何やら二メートル強の細長い物体が置かれていた。


 それは丁度、SF映画なんかでよく見る脱出ポッドのような形状をしていた。楕円形の、カプセルを縦に巨大化させたようなシルエットで、表面は街で見た、あの陶器のような道と同じ材質らしく、真っ白で、かつ滑らかだ。中央部分には扉らしきものもついている。



へぇ、これがタイム・マシンか





 物珍しさからマシンに近づいていく俺を、スーツ野郎は止めもしなかった。表面に触れてみると、やはりすべすべだ。軽く叩いてみると、空洞音が響いてくる。予想通り、中に入り込むタイプらしい。



そういやぁ初めて見たな。うーん、確かに割とでかいし、こりゃ置ける場所も限られるか

……妙なことを言いますね。貴方も博士のタイム・マシンでこの時代にやってきたのでしょうに





 ようやく、スーツ野郎は怪訝な視線を俺に向けた。俺は真顔で言った。



いや? 俺、タイム・マシンになんて乗ってねえけど

えっ、じゃあどうやって貴方、この時代に来たんです? それに、時間移動の痕跡は確かに――

時間移動したのは私だけだよ!





 ドクター・ヤブがニカッと笑った。俺は踵を返し、もとの位置に戻ってから、再びスーツ野郎を見据える。



悪いけど、俺だけはコールド・スリープ――冷凍睡眠でこの時代までやってきてるんだよ。だから破門者にもなっちゃいねぇ

えっ……何でそんな、わざわざ鈍行列車に乗るような面倒な真似を





 理解不可能、と言った様子でスーツ野郎が問い返してくる。俺は隣を見た。ドクター・ヤブが楽しげに頷き返してくる。


 俺は気乗りしなかった。この手法はあまりにもゲスい。だが、仕方ない。すべては改変阻止のためだ。


 俺はズボンの後ろポケットから、折り畳んだ一枚の紙片を取り出した。紙切れを広げているこちらを、スーツ野郎は実に不思議そうに見つめている。だが、その顔色はすぐに豹変することになる。



『愛の導き』

? 何を――

『恋というのはね、いつしか愛に変わるものなんだよ。君と居た七色の時代も、いつしかモノクロに色褪せてしまうのかもしれない』





 まさか、と、スーツ野郎が何かを思い出したかのように呟いた。俺は続ける。



『だけど僕らのシンフォニーは永遠さ。狂おしいほどに美しく、切ないほどに愛を語ろう。きっとその先に――』

やめろ!

おっと、暴力は止めた方がいいんじゃないかな? 私はいい詩だと思うよ! キミが昔、趣味で書いてたポエム!





 銃口を俺に向けるスーツ野郎に対し、ドクター・ヤブは笑いながら言った。スーツ野郎は耳まで真っ赤にして、怒鳴るように尋ねてくる。「なぜ貴方がたがそれを」と。



これがミスター・イデにわざわざ鈍行列車でこの時代に来てもらった最大の理由さ。彼にはこちらで指定した時代に起き、そして歴史改変事業参加者の内でも、特に我々の邪魔をしそうな人間の身辺調査――もとい、弱みを握ってもらっていたんだ

キミは少し前に私に言ったね? 『自分たちにはアストライアがある』と。でも、アストライアの基礎理論を組み立てたのは私なんだよ? その理論をもってすれば、こうしてキミたちがいつ頃、恥ずかしい思い出を残していそうか位はすぐに算出できる

恥ずかしいって言うな!

『母なる大地に寄り添いながら、今こそ恋を愛に変えてみよう!』

黙れェ!





 ノッてきた俺に対し、スーツ野郎はいよいよ激高した。銃口が震えている。ドクター・ヤブはゲラゲラと笑った。



じゃ、ここからが交渉なんだけどね? 実はキミのこのポエム、今日の特定の時刻に全世界に向けて放送されるようになってるんだ。あと、タイム・マシンでの時間移動時にもこのポエムが流れるようにしちゃった!





 唖然とするスーツ野郎。完全にこちらのペースだ。



キミの最大の誤算は、時間移動の痕跡だけを見て、私に協力者が居ることの意味を考えなかったことだね! ま、要するに私は囮さ。ミスター・イデの諜報活動をキミたちに悟られないためのね

さ、どうする? ここで我々を拘束し、ポエムを全世界に知れ渡らせるか。それとも、我々をコアユニットのもとへ通し、事が終わった後、私に設定を解除してもらうか





 スーツ野郎は歯軋りをして俺たちを睨んだ。この卑劣漢共、などとも呟いた。俺はピラピラと紙切れを振って見せる。にやにや笑いながら。


 ややあって。……スーツ野郎は膝をついた。



……必ず設定を解除してくれますね?

我々だってキミが憎いわけじゃあない。約束するよ!





 畜生、とスーツ野郎が地面を殴る。可哀想に。敵ながら同情する。



じゃあ、お先~





 ドクター・ヤブは手をひらひらと振って、スーツ野郎の傍を通り抜け、その背後の扉の横に設えられたパネルに、何やらパスワードのようなものを鼻唄交じりで入力した。電子音が鳴り、扉が開いていく。



っていうかキミ、どうやってタイム・マシンをここまで持って来たの? このマシン、座標移動までは出来ないでしょ?

……台車に載せて

ふぅん。でもさぁ、もし我々がこれを破壊しちゃったり、これに乗って逃げたりしたら、キミ、もう我々を追えなくなってたよ?





 ハッとした表情を見せるスーツ野郎。どうやらそれも考えていなかったらしい。アホなのか賢いのかよく分からない奴だ。恥ずかしい奴ではあるけれど。



くっ……ですが、いい気にならないでください。この先には私と同じく、貴方がたの計画を阻止するために三人ほど同志が待ち受けている

私は脅しに屈しますが、果たして貴方がたの思い通りに事が運びますかね?

何で全員でここで待ち受けてなかったんだ? 四人もいりゃあ力づくで俺らを拘束出来ただろうに

通路が狭くて……





 頭が痛くなってきた。こんなアホどもに、種本はヤモリにされたのか。



ま、我が事でもない、真に迫って無い事なんだから、人間なんてこんなものさ。さ、ミスター・イデ、先に進もう!





 こうして、ドクター・ヤブに促されるまま、俺は開いた扉の先へ進んだ。


 そこからは、大体同じような流れだった。進んでいくと小さなホールにぶち当たり、そこには閉じた扉と、初対面の未来人が待ち構えている。みんなスーツ姿で、男の時もあれば女の時もあった。が、皆、こちらが握っている弱み――それは特定個人へのラブレターであったり、女装している写真であったり、ドン引きするようなゲスい犯罪の証拠でもあった――をちらつかせると、悔しそうに俺たちに道を譲った。


 が、やがて、その恐喝ロードにも終わりが来たようだ。



よし、ここが最後のゲートだ





 恐喝によって開いた扉を抜けて、ドクター・ヤブが嬉しそうに言った。成る程、確かに、広がった光景は、それまでの雰囲気と大きく異なっている。







 そこは半球状の、広々とした空間だった。十数メートル先に支柱と思しき丸い柱が立っているだけで、その他には何もない。壁は全面が白く、床には対照的に黒いタイルが敷き詰められていて、距離感が狂ってしまいそうな錯覚を受ける。


 ドクター・ヤブは中央の柱にずかずかと近づいて行った。その後ろについていくと、成る程、柱にはこれまでの扉と同様、パネルがくっついているようだ。彼はそれを、これまでと同様ぱちぱちと叩き、結果、柱の一部分に音もなく穴が開いた。人が一人入り込めるような、楕円形の入り口だ。



はい、成功~! いやぁ天才科学者の私にとっちゃ、何重ものセキュリティプログラムも、事業参加者たちの邪魔も、あってないようなものだったね!





 アッハッハッハッハと笑うドクター・ヤブだったが、俺は逆だった。あまりにも何もかもがスムーズ過ぎて、ここにきて不安が押し寄せていたのだ。


 本当にこのまま、何事もなく、この計画は終わりを迎えられるのだろうか、と。



後は……フッフッフ、この通り。用意したリボルバーでコアユニットを撃ち抜けば、すべての歴史改変は木端微塵! 私の金鯱も元通り! さぁミスター・イデ、栄光の一歩をそこの入り口から――

   はい、そこまで 





 ウキウキなドクター・ヤブの言葉を、至極静かな声が遮った。二人して振り向くのと、一筋の銃声が響いたのは、ほぼ同時だった。



これ以上、手間を掛けさせないで頂戴

あんたは……





 入ってきた扉の近くに居たのは、スーツ姿の女性だった。種本に薬を打ち込んだ、あの女性だ。右手には軽くリボルバーを握っていて、銃口こそこちらに向いていないが、その視線はこれまでの誰よりも鋭い。



キミかぁ。いつか来そうな気はしてたけど、このタイミングとは中々、いやらしいじゃあない?





 ドクター・ヤブが肩をすくめてみせる。女性の後ろから無数の足音が響き、やがて十数人のスーツ姿の男たちが、彼女の周囲に並んで、俺たちに銃を向けた。持っているのもスーツ野郎やドクター・ヤブが持っているようなリボルバーではなく、銃身の長い、両腕で持つタイプの奴だ。


 あまり詳しくない俺でも、それが自衛隊などで使われているアサルトライフルとかいう種別の銃であることは、容易に判別できた。



せっかく、後ちょっとだって言うのにさぁ

だからこそ、よ。それに、率直に言うと、途中で諦めて欲しかったのもある。……後ろの人たちがしっかりしていれば、こうはならなかったんだけれど





 冷たく言い放つ女性の後ろから、バツの悪そうな顔で、これまでの扉を遮っていたスーツ男女たちが姿を現した。女性は彼らを一睨みしてから、嘆息を漏らす。



でも、私もいつかこうなるって予想はしていた。仕方なかったのかもしれないわね、何もかも

キミは賢いねぇ

これでもあなたの妻ですから

妻ァ!?





 俺は女性とドクター・ヤブを交互に見つめた。なんだそれ、聞いてないぞ。そんな意図を含む視線に対し、ドクター・ヤブは「だって聞かれなかったし」と笑う。



さぁ、井出健君……だったかしら? 諦めて降伏しなさい。私はあなたにまで、無駄に痛い思いをさせたくない

おい、どうするんだヤブ医者。こりゃ弱みでどうにかなるような相手じゃないぞ





 思わずホールドアップしてしまいながら、俺は隣に小さく尋ねる。ドクター・ヤブはアッハッハと笑った。



いやぁ、しまったねぇ。やっぱりこうなっちゃったか

やっぱり?

うん。悪いけど、私はここまでみたい。ま、後はテキトーに頑張ってちょーだい





 そう言うと、ドクター・ヤブは突然、ばたんと前のめりに倒れた。そして動かなくなった。ピクリとも。



えっ





 意味が分からず、俺はただ、目を瞬かせた。何で倒れたんだろう、などと思いながら。が、その疑問は、ドクター・ヤブの倒れた黒いタイルの上に、何やら液体が広がっていくのを見た瞬間、先ほどの銃声と結びつき、氷解した。



おい





 ホールドアップも忘れて、跪き、倒れたままのアフリカ系パンチパーマ野郎の背中を、恐る恐る揺らした。反応は無い。ガチガチと歯が震え始めた。強く揺すってみる。


 やはり、反応は無い。



嘘だろ

嘘でも幻でもないわ。今後、私たちの中からこういう『反逆者』を出さない為にも、毅然とした対応は必須だったから





 冷たい言葉が降ってくる。ドクター・ヤブの体を仰向けにしてみる。


 腹部の辺りから溢れた血が、白衣を赤黒く、汚らしく染め上げていた。



もう一度言うわ、井出健君。抵抗は止め、投降しなさい。私たちは、歴史改変に巻き込まれたあなたまで攻撃したくはない

それにどうせ





 言葉を最後まで聞きたくなくて、俺はドクター・ヤブが握ったままだったリボルバーをむしり取り、猛然と立ち上がった。そして、駆ける。柱に開いた穴へ向かって。



私が行くわ。どうせ、彼には何も出来ない





 女性の言葉が追いかけてくる。その時、俺はようやく、自分の置かれた立場を理解した気がした。


 ドクター・ヤブは言った。この計画に失敗すると『えらいことになる』と。



畜生!





 猛烈な恐怖が全身を突き動かした。失敗した時のことをまるで考えていなかった、単細胞で猪突猛進な自分がほとほと嫌になった。嫌になりながら、俺は柱の中に突入した。


 中では、螺旋状の階段が真下へと続いていた。真っ黒な壁面、真っ白な階段。まるで地獄への一本道のようにすら見えたが、俺はただただそれを駆け下りた。


 そう、まだ望みはあるのだ。アストライアさえ破壊すれば。破壊すれば、すべては元に戻り、無かったことになる。歴史改変も、そして――これは祈りに近かったが――ドクター・ヤブの死ですらも。


 きっと。



畜生ッ!





 叫ぶように、喚くように言いながら、階段を下りていく。やがて木製の扉が見えた。ドアノブのついた、この時代ではひどくレトロに見える、しかし俺たちの時代では至極一般的なドアだ。ノブに手を掛けると、扉は呆気なく開いた。







 駆け込んだ先には、十畳程の空間が広がっていた。柄付きの白い壁、奥には一人用のベッド、傍の壁には別室があるのか、また木製の扉が一枚ついている。それ以外は何もない、殺風景な部屋だ。そして、リボルバーを構えて入ってきた俺を、女の子が一人、不思議そうに見つめていた。







 十歳くらいだろうか。真っ白なワンピースを着ている。裸足で、肌は白く、腰まで伸びたストレートの長髪は黒い。顔つきはアジア人のそれに近い。



畜生、どこだ! どこにあるんだよ!





 部屋の中にずかずかと入り、機械らしきものを探した。やはり何もない。別室へ続いているらしき扉を開いても、三点ユニットバスが広がっているだけだった。



なぁ! アストライアってどこにあるんだ!





 縋る様な気持ちで女の子に詰め寄っても、彼女はただ、無言で俺を見返すのみだ。言葉を理解しているかどうかすらも怪しい。と、その時。



いるじゃない、そこに





 例の冷たい声がして、俺は弾かれたように入口へ向き直った。リボルバーを構えても、戸口に立つドクター・ヤブの奥さんは眉一つ動かさず、俺を見返している。



分からないの?

何が!!





 言い返してから、ふと思った。よくよく考えればおかしい。何でこんなところに女の子が一人居るんだ?


 しばし、考えた。結果。



まさか





 辿り着いた答えに、思わず言葉が漏れる。女の子に視線を移すと、入り口の女性は「その通り」と静かに言った。



その子がアストライアよ

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