第8話






 違和感、という言葉がある。何だか変だ。おかしい。こうじゃない気がする。辞典でも読めばもっと正確な定義も分かるんだろうが、とにかく、それはそんな意味の筈だ。



おい井出、信号、もう青だぞ





 隣の先輩が怪訝そうに肩を叩き、横断歩道への一歩を促してきたちょうどその時、俺にはそんな感覚は無かった。むしろ、「ようやく来たか」という、安堵感のようなものすらあった。



すいません、先輩。先に行っててもらっていいですか?





 横断歩道の向こう、ビジネスマン、キャリアウーマンの群れの中に見えた見知った顔に、俺はそう、先輩に告げる。先輩は俺の視線の先を見て、「知り合いか?」と尋ねてきた。



はい。必ず追いつきますので





 先輩は少しだけ押し黙って、それから「分かった」と諦めたように息を吐いた。



早く来いよ。先方がご指名してきてるのは、俺じゃなくてお前なんだから

大丈夫ですって。絶対に遅れませんから





 へいへい、と言って、先輩は頭を掻き掻き、横断歩道を渡った。一方で、こちらをじっと見つめている前方の二人組も、ゆっくりとこちらへ向かってくる。


 先輩は彼女らとすれ違う時、横目でちらりとその出で立ちを盗み見たが、きっとその胸には、違和感が去来していたことだろう。



久しぶりね

どうも





 横断歩道を渡り切って話しかけてきた女性――ドクター・ヤブの奥さんは、真っ黒なスーツに同色のインナー、黒い手提げバッグと、喪服と思しき恰好をしていた。その隣、奥さんと手をつないでこちらを見上げている少女――アストライアも、同様の恰好だ。



驚かないのね、私たちが来ても

いつか来るって予想してたからな





 信号が赤に変わった。横断歩行の上を、無数の自動車が行き交う。



悪いけど、俺も仕事中だからさ。話は歩きながらでいいか?





 ええ、と女性は言った。俺はゆっくりと歩きだした。



それで。ドクター・ヤブは?





 横断歩道を迂回し、オフィス街を進みながら、俺は傍らの女性に尋ねた。女性は静かに首を振った。




歴史が元に戻っても、あの人の死は変わらなかった。予想はしていたけれどね

そっか





 口にして、しかし一方で「やっぱりそうか」と思った。分かってはいたのだ。俺の前に現れたのが、彼ではなく彼女らであった時点で。


 ドクター・ヤブは破門者だった。スクリーンの外側に居る人間だった。だから、例えすべての事象が元に戻ったとしても、それが彼にまで適応されるかどうかは、かなり怪しいところだったのだ。


 一方で、この通り、俺の記憶は無くなっていない。つまり。



元に戻るものと、元に戻らないものがあるみたいね。私たち破門者や、あなたたち改変検知者には

ドクター・ヤブのことは残念だけどな。……ま、宇宙までは崩壊してないし、これでもまだ、ウマいことあしらって貰えたってことになるんだろうな

誰に?

さぁ。カミさん?





 気のない返事をすると、女性は不満そうに俺を見た。一方のアストライアはというと、きょろきょろと周囲を見回している。いつも通り、不思議そうに。



この子は私が引き取ったわ





 俺の視線を見てとって、ドクター・ヤブの奥さんは言った。そして、続ける。結局というべきかやはりというべきか、歴史改変事業は凍結となったのだ、と。



良かったわね。種本翠さんもヤモリでなくなり、あなたも元の時代に戻れた。そして、こうして恵まれた時代、恵まれた国で、また元通りの生活に戻れている

元通りじゃあ、ないかな





 俺は小さく笑った。と、そこで女性は立ち止まり、まじまじと俺の顔を見つめた。



あなた

何だか、雰囲気が変わったわね。軽い感じがなくなった

それ、丁度この前、種本にも言われたよ





 どれだけ軽かったんだよ、と苦笑して、しかし、どこかで納得してもいた。成る程、何の目的もないなら、ただ生きるだけなら、それでも良かったのだろう。


 だが。



それにしても





 アスファルトを叩く無数の足音の中、女性は溜息をついた。俺たちは丁度、ビル街の中にぽっかりと出来た、円形の公園を歩いていて、アストライアは女性の手を放し、中央の噴水へ、吸い寄せられるように向かっていく。



結局のところ、何もかもがすべて、あの人の思惑通りになったみたいで、私は少しシャクだわ





 風が吹いて、女性の髪がなびいた。



『検知が出来なくなった今、仲間を失ってまで続けるべき事業なのか。他に道は無いのか』。あの事業参加者の大半は、今、そんな意見を持っているわ

言わばあの人は、自分の命を使って歴史改変を止めたと言ってもいい

何でそこまでしようと思ったんだろうな





 俺はゲラゲラ笑うドクター・ヤブの姿を思い浮かべた。「頑張ってちょーだい」と軽く笑って死んだ、天才科学者のことを想った。


 彼女の言う通り、奴はすべて計算していたに違いない。俺に注射器のことを伝えなかったのも、それでいてヒントらしきものを散りばめておいたのも、俺が気付くそのギリギリの瞬間に賭けていたのだろう。


 もし、事前に直接、彼から答えを教えられていたら、アストライアはその時点で、俺を危険分子と見なしたことだろう。そうなれば、俺はあの部屋に辿り着いた時点で、目の前の女性に『補填処理』されていたはずだ。



あの人は探究心の塊だった。だから、研究が出来るなら、どんな事業にも参加した

でもその一方で、負い目を感じる部分もあったんじゃないかしら。善悪を省みない探究心が、あなたや種本翠さんのような人々を追い込んでいたことは事実だもの

負い目ぇ? あのオッサンがぁ? 無い無い、そりゃーねえって





 シャチホコを失って憤慨していたドクター・ヤブを思い浮かべて否定する俺に対し、ドクター・ヤブの奥さんは表情を変えなかった。変えずに言った。



剽軽な人だったけれど、純粋な人でもあったのよ





 俺はドクター・ヤブの奥さんの、その横顔をじっと見つめた。それから、噴水に手を伸ばすでもなく、ただその前に立ってじっと水の流れを見つめる、少女の後ろ姿を見た。



……奥さんのあんたがそう言うなら、そうなのかもな





 ふと、メンタルクリニックでの夜を思い出す。そう言えばあのオッサン、やり残したことがある、とかなんとか言っていた気がする。それがつまり、自分の創り出したものの後始末をつける、ということだったのだろうか。


 もちろん、今となってはすべて想像でしかない。結局のところ、俺にとってドクター・ヤブは、ゲラゲラとよく笑い、よく分からんツボに一人ではまって、客に自分も満足に飲めないような珈琲を出し、そのくせ金のシャチホコに固執する、どうしようもないオッサンだった。


 そして、そんなどうしようもないオッサンだったからこそ。……ここに彼が居ないことが、ただひたすら残念だ。



でも





 女性はゆっくりとアストライアのもとへ歩いた。平日の公園は静かで、彼女が奏でる足音が、噴水の水音を冷たく掻き消していく。



これだけは言っておくわ。歴史改変事業は凍結こそしているものの、消滅したわけじゃない。それこそ、その気になれば、あなたを拉致し、アストライアの代わりに使うことだって出来る

あなたたちが成したことは、ただ問題を先送りにしただけで、根本的なところは何も解決していない





 鋭く、そして厳しい口調だった。立ち止まった彼女の後ろ姿を見つめながら、俺は頭を掻く。



【銀の弾丸】

何?

ドクター・ヤブが俺に持ちかけた、歴史改変事業を止めるための計画の名前だよ。でも、そう。あんたの言う通りだ

あの計画は結局のところ、【銀の弾丸】になんてなっちゃあいない。そんなもの、無いんだと思う





 ゆっくりと歩き、俺は女性を追い抜いた。そして、じっと立ったままのアストライアの頭にポンと手を置いて、優しい水音を奏でる噴水を、小さな虹を作る水飛沫を見つめる。



でもさ。だからって、『仕方ない』で終わらせるのは、違うと思うんだ

俺はあんたらの理屈には納得できないけど、未来社会のひどさを見ちまったし、あれを無視できるほど図太くも無い。……それに何より、全部が全部、あのオッサンの思い通りになるのがむかつく

アマチュアカメラマン活動を始めたのは、それが原因?





 驚いて振り返ると、ドクター・ヤブの奥さんは真っ直ぐにこちらを見つめていた。どうやら、調査済みでここに来たらしい。



お休みの日に発展途上の国へ行き、片っ端から写真を撮って、世界中にそれを拡散してる。経済的不平等の実態を、この時代の人々に知らせる……それが、あの日に『思いついたこと』かしら?

いや、まぁ、あの時点ではそこまで具体的じゃなかったんだけどさ。とにかく、何か出来ることをやろうって思ったんだ。で、こっちに帰ってきてから必死に考えた結果が、それさ

事情を話して、種本にも一部手伝ってもらったりしてさ。疲れるし、大変だし、色々面倒なことも多いけど……ま、何とかやってるよ

偽善だの何だのと言われてるみたいだけど

言われてるなぁ





 だからって、特に気にはしていない。何せ、俺のこの活動の大元にあるのは、目の前の女性や未来人たちが持っていたような、崇高でご立派な動機じゃあ無いんだから。


 ある意味、人々のご指摘は、実に的を射ていると言えよう。



それで。そんな草の根活動をして、何か変わると?

変わるさ。それを教えてくれたのは他でもない、あんたらだぜ?





 俺もまた、真正面から彼女を見つめた。また風が吹いて、アストライアが静かに、女性のもとに歩いていく。手を繋ぐ。



だってあの日、アストライアの部屋の警報は、俺が決意した途端に鳴り止んだんだ。それってつまり、俺が頑張ったりすれば、少なくともあの日より状況は悪くならない、ってことだろ?

だから、とにかくやってみようと思う。アストライアの太鼓判を嘘にしないようにな。そうすれば、俺たちもあんたらも、どっちもいい感じだろ?





 そう告げてから、俺はふと、空を見上げる。あの日、未来社会で見た空は、今日と同じ、腹立つくらいの快晴だった。


 その快晴の空を、フラフラと、真っ赤な風船が飛んでいく。天へと吸い込まれるように。あの日見た、無数のパラシュートとは丸っきり逆に、優しく浮かんでいく。



……狡いわね





 視線を戻すと、未来人二人はじっと俺を見つめていた。意味を尋ねると、ドクター・ヤブの奥さんは言う。だってそうでしょう、と。



どんな未来があるのか、あなたは分かっている。私達とは違って

いやぁ、それは違うと思うぜ。俺もあんたらも、違うことなんて何もない。一緒だよ

俺がアストライアに伝えてもらったのは、『本気で頑張れば何とかなる』っていうことだけだ。でもそんなの、俺よりずっと頭がいいあんたらなら、最初っから分かってることじゃん





 言って、ふと腕時計を見ると、そろそろ時間が迫ってきていた。多分、走ってギリギリだ。下手すりゃ遅れかねない。


 走ろう、と思った。結果、どうなるかは分からない。だが、世の中なんて、得てしてこういうもんだ。



悪い、そろそろ行くよ。取引先に遅れちまう





 一つ、大きく伸びをして、それから、またポンとアストライアの頭に手を置いた。もう彼女と会うことは無い気がした。何となくだけれど。



お前も元気でな、アストライア

さようなら





 不意に少女が言葉を発して、俺はいたく驚いた。喋れたのか、この子。



おう、さようなら。……あ、そうだ、ドクター・ヤブの奥さん。最後に一つだけ





 走りかけたところで、ふと大事な用を思い出して、俺は再度、二人に向き直った。そして、尋ねる。


 ドクター・ヤブの家の写真を持ってないか、と。



写真? なんでそんなもの

いいから頼むよ、ちょっと確かめたいことがあるんだ





 ドクター・ヤブの奥さんは不思議そうに俺を見つめたが、やがて無言で、手にしていた真っ黒なバッグを開いた。そして、中から財布らしきものを取り出し、そこから一枚の写真を取り出す。


 受け取ってみると、写真には二人の男女が映っていた。にっこり笑うドクター・ヤブと女性が、いつか見た、幾つもの尖塔を持つサクラダ・ファミリアのような建築物の前に佇んでいる。写真の中の二人は若く、その表情には、幸せとはにかみが見え隠れしていた。


 そして。しばらく、その写真を、目を皿のようにして見つめた後――俺は思わず、ガッツポーズをとっていた。



一体なに?





 女性がきょとんとしている。無理もない。だがそれは、俺にとってはこの上無い朗報だったのだ。



なぁ、悪いんだけどさ。ドクター・ヤブに言っておいてくれよ。墓に向かってでいいから





 俺たち皆を掌の上で躍らせたドクター・ヤブ。そんな彼への、俺に出来る、ささやかな嫌がらせ。この写真は、俺の活動によって――即ち、富裕層の富が貧民たちに流れたことによって、それが成功しつつあることを意味している。



『ざまぁ見ろ。この調子であんたの家を、もっと質素にしてやるぞ』って





 金のシャチホコが半数近くの尖塔の頂点から消えているその写真を手に、俺はニカッと笑ってみせた。





(完)

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