第4話






 平和で呑気な夕方に突入していく筈だった、市立図書館一階喫茶店。そこは今、恐らくは開店史上最大の混乱と静けさに包まれていた。


 誰もが俺たちを見つめている。ある者は蹴り飛ばされて床に転がったままのスーツ男を。またある者は突然ガラスを破って店内に乱入してきたアフリカ系パンチパーマ野郎を。そしてまたある者は、両者の中間で呆然と立ち尽くす俺と種本を。



それで、ミスター・イデ





 自身が身に纏う白衣をパンパンとはたきながら――恐らくはガラス片を払っているのだろう――ドクター・ヤブは朝の挨拶でもするような軽い調子で告げた。



実は私、喧嘩はからっきしでね? 彼女や自身を守りたいなら、ここはひとまず逃げた方がいいんじゃないかなァって思うワケだ

そうはいきません




 後方から声が上がった。見ると、スーツの男が立ち上がっている。そして、「久々の痛みだ」などとバトル漫画のようなことを呟きながら、男はドクター・ヤブをキッと睨みつけた。



まさか貴方とこんなところで出会うとは、思いもよりませんでしたよ、博士。しかし、何故我々の妨げになるようなことを?

勘違いしちゃァいけない。私は面白そうだから君らの事業に手を貸しただけで、正直なところ、君らの思想には何一つ賛同しちゃいなかったりする

そうですか。賛同しないのは良いでしょう。ですが邪魔だけは――

オラァ!





 グダグダ話し続けている両者を好機と見て、俺は思い切りスーツ男にドロップキックをかました。井出君、と種本が驚愕したように叫ぶ。見てろ種本、こんな不審者もう一回吹っ飛ばしてやる――という闘志は、しかしすぐに痛みで塗り替えられた。



いってぇ!





 壁を蹴り飛ばしたかのように衝撃がそのまま返ってきて、俺は受け身も取れずに喫茶店の床に倒れこんだ。両足をさすりつつ悶絶しながらスーツ男を見ると、相手は馬鹿にしたように俺を見下ろしている。


 くっそ、と吐き捨て、今度は立ち上がるなり男の顔面に拳を突き立てた。が、男は微動だにしない。代わりに肩まで酷い痛みが走り抜け、俺はその場でうずくまらざるを得なかった。痛みに、うっすら涙まで出てくる。



なんなんだ畜生!





 骨に響くような右手の痛みに、俺はようやく、スーツ姿の男が只の変質者などではなく、何やら得体の知れない存在なのだということを認識し始めていた。男はまるで壁だ。殴っても蹴っても一向に効いていない――だが、ならドクター・ヤブがさっきこの男を蹴り飛ばしたのは、一体どういうカラクリなんだ?



井出君、こっち!





 種本の声が響いた。見ると彼女は既に、ドクター・ヤブが破ったガラスの外、つまり図書館の外へと飛び出している。「ヒュー素早い」などとドクター・ヤブが呟いた。それを尻目に、彼女は早口に言った。



ひとまず逃げよ! 話は後!

待ちなさい。我々は悪意があって貴女のもとに来たわけでは――





 種本に駆け寄ろうとしたスーツ姿の男に対し、俺は雄叫びを上げてその足にしがみついた。有効かどうかなど考える余裕もなかった。が。



いてっ!





 ひどく人間らしい悲鳴を上げて、男は思い切り前のめりに床に倒れこんだ。これ幸いとばかりに俺は男の体を踏みつける。そして、種本の――かつ、彼女に続いて外に飛び出たドクター・ヤブの――後を追った。



こっち!





 ガラス片を踏みしめながら外に飛び出すと、彼女は先導するかのように走り始めた。俺たちはそのまま、図書館前の雑然と自転車が並ぶ広場を抜け、街路樹が両側に並ぶ幅の広い道をひたすら進む。やがて二車線道路にぶち当たっても、丁度車の途切れたところをこれ幸いとばかりに渡り切った。


 そこでようやく、俺と種本は肩で息をつきながら立ち止まった。ドクター・ヤブはというと、何故かゲラゲラ笑っている。



怪我は!? 大丈夫?

すげぇ痛え! っつうかなんなんだあいつ! 人間の硬さじゃねえぞ!

そう……彼こそ本物の堅物





 ドクター・ヤブが狙い澄ましたかのように真顔で言い放った。俺と種本、両者がほぼ同時に冷たい視線を向けると、ドクター・ヤブはまたゲラゲラと笑った。おかげでようやく理解出来た。なぜこの男がずっと笑っていたのか。


 これが言いたくてしょうがなかったらしい。



言いたいことはそれだけかこのパンチパーマ野郎!

ノーノーノーノー、私を呼ぶときは! サン、ハイ! ドクタ――!

やかましい!





 頭に来て、俺はドクター・ヤブの胸元を掴んだ。このワケが分からないことばかりの事態の最中、何でよりによって助けに来たのがコイツなんだ。



オウこらヤブ医者、あんた色々知ってるんだな? なら今すぐここで何もかも一から懇切丁寧に洗いざらい説明してくれよ

あいつは何だ、あんたは何者だ、一体何がどうなってる!

井出君、ちょっと落ち着いて! はいどーどーどー!

落ち着いていられるか! コイツがここに居るってことはだ、俺が病院に行った時も何もかも知ってる上で『犬猫の幻覚なんて気にすんな』とか言ってたってことだぞ!

くっそう馬鹿にしやがって、こっちは真剣だったんだ!

あ、そこがポイントなんだ

キミの思考はなんというかチンピラだねぇ、ミスター・イデ

誰がチンピラだ! 笑うな!





 アッハッハッハと笑うドクター・ヤブを、俺は噛みつかんばかりに睨みつける。が、種本はそこで、呆れたように「もー!」と大声を出した。



今はそんなのどうでもいいでしょ! あの変な人が追ってくる前に、また逃げないと!

うーん、賢いヤモリの女性だ。そう、今この場で重要な点は『彼女が追われている』ことであり、かつ『捕まったら何をされるか分からない』ことなワケで、となると、となると?

その薄ら笑いをやめろクソ野郎!

落ち着いて! それと!





 ドクター・ヤブと俺との間に無理やり体を割り込ませて、種本はヤブ医者を正面から見据えた。そして、「井出君の言ってたメンタルクリニックのお医者さんですよね?」と前置きし、続けた。



一つだけ、イエスかノーかで答えて

あたしが今『こう』なってるのは、さっきの男が『歴史を改変した』から、で正しい?

歴史を改変?





 ナニ言ってんだ、と続けようとしたが、それを聞いたドクター・ヤブは、ひどく驚いた様子だった。「これはこれは」と目を瞬かせている。



まさか一人でそこまで考え至ったと? こりゃすごい。マジですごい。二時間サスペンスの主人公バリだ

それは褒めてるのか?

答えて





 じっとドクター・ヤブを見つめる種本。が、その時。



貴女の仰っていることは正しいですよ、種本翠さん





 馬鹿丁寧な声が響いて、俺たちは一斉に振り返った。



そこまで分かっているなら話は早い。ならば同時にお判りでしょう? 逃げても無意味だと





 げ、と思わず声が漏れた。あのスーツ男が二車線道路の真ん中で直立している。無表情に、しかししっかりとこちらを見つめて。



これは貴女のためでもあり、そして我々のためでもある。さぁ、大人しく

危ない!





 種本が叫んだのと、騒々しいクラクションの音が道路中に響き渡ったのは、ほぼ同時だった。スーツ男は驚いたように、自身の向かって右側からやってくる大型トラックを見る。


 が、それも一瞬のことで、棒立ちの男にトラックが突っ込み、派手な爆発音が街中に響き渡るのを、俺たちはただ呆然と眺めることしか出来なかった。



……きゅ、救急車!





 炎と共に灼熱を周囲に撒き散らすトラックの残骸を見つめていた俺が、我に返って懐の携帯電話を取り出すまで、そう長い時間は要さなかった筈だ。が、一一九番に慌てふためきながら現在地を伝える俺に対し、種本は至極冷静な口調で「おかしい」と呟いた。



井出君。あたしたち、逃げた方がいいと思う

言ってる場合か! 大事故だぞ! 変質者だって一応――

トラックは人にぶつかって『大爆発』なんてしないでしょ





 種本が、噴煙巻き上がる道路を見ながら後ずさった。やはりまだヤモリの顔色を窺えるだけの能力は無いが、しかし脳裏をよぎった、殴っても蹴ってもびくともしないスーツ姿の男に、俺は小さく「まさか」と言葉を漏らす。


 果たして。



本当に聡明な女性だ





 天へと昇っていく黒煙、轟々と燃える炎の中に、人影が揺らめいた。



さぁ、あまり手間を掛けさせないで下さい。何度でも言いましょう。我々は貴女に危害を加えるつもりはない

……走るぞ!





 叫び、俺は種本の手を取って全速力で駆けた。そりゃそうだ。殴っても蹴っても平気、とかそういうレベルではない。大爆炎の中で平然とこちらに向かってくる――おまけに衣服に一切の乱れもない――人間など、最早俺たちがどうこうできる存在ではない。



なんだアレ、ターミネーターか!?

OH、当たらずも遠からズぅ! おっと、人混みには行かない方がいい、大混乱間違いなしだ!

だからそのゲラゲラ笑うのをやめろ!





 並走して笑うドクター・ヤブに怒鳴り返しつつ、俺はとにかく走り続けた。大型のマンションが立ち並ぶ住宅街を駆け抜け、子供たちの遊ぶ小さな公園を突っ切り、やがて駅前の繁華街に差し掛かってもスピードを緩めない。が、種本が少し遅れ始めたのと、人通りが多くて思うように走れなくなったことで、逃走から遁竄へと作戦を変更せざるを得なくなった。



大丈夫か、種本





 飲み屋の立ち並ぶ小汚い路地の裏に逃げ込み、汗を拭って尋ねると、彼女はその場にへたり込んだ。今はとても話せる状態では無いようだ。そりゃそうか。俺も似たような状況なのだから。


 俺は人が二人すれ違えるかどうかくらいのその狭い路地にて、目の前の小汚い壁に手を付き、しばらく呼吸を整えることに専念した。


 周囲には室外機やら青いゴミ箱、おまけに違法投棄されたらしき茶色く濁った表面の大型冷蔵庫やサビだらけのマウンテンバイクなどがごちゃごちゃ置かれていて、とても気持ちよく休憩できる環境には無かったが、贅沢は言っていられまい。


 また、久々の全力疾走に俺も座りたくて仕方が無かったが、隣のドクター・ヤブが一切の汗もなく「辛そうだねぇ」などと他人事のような言葉を投げかけたため、意地でも座ってやるかと思い直した。



それで、何なんだアイツ……マジで一から説明しろよ……

うーん、ミスター・イデ、キミはなんてーか頭が硬いね? ヤモリちゃんを見習いなさい、まるで自身の指趾の如き頭の柔らかさ!

んだとこの

つまりだね





 言葉を遮り、うーんと伸びをしながら、彼は極めて呑気な口調で言った。



マジにヤモリちゃんが言った通りなワケさ。彼らは歴史の改変者であり、改変を検知・認識できるキミらを問題視している

ほら、眩暈とか頭痛とかするって言ってたじゃん? 検知ってのはそれのことね。そーゆーふーに歴史が変わった瞬間を感覚で認識出来る、超激レア能力だよ! いいことか否かは置いといて

だから改変者ってなんなんだ!

井出君も図書館で散々見たでしょ……有り得ない歴史とか常識とか





 疲れた声色で(やはり表情は分からない)種本が口を挟んだ。彼女はまだ荒い息ながら、しかし確信に満ちた口調で続ける。



SF映画とか漫画とかで見たことない? 『過去に手を加えて、現代を変える』みたいなお話。それと同じなんじゃないかな

あの人は――あの人たち、かな?――何か理由があって、歴史を塗り替えてる。歴史が変われば常識も変わる。だからみんなは、犬や猫が人間と同じように暮らしてても、疑問にも思わない





 俺は唖然として種本を見つめていた。そうして暫しの思考停止を経てから、「いやいや」と苦笑いした。



じゃあなんだ? タイム・マシンでも使われてるってのか? 馬鹿馬鹿しい! 有り得るかよそんなこと――

有り得る・有り得ないで言えば、まず人がヤモリになることが有り得ないでしょ





 言い返せず、俺は固まる。ふう、と大きく息を吐き出して、種本はドクター・ヤブを見据えた。



あなたが来てくれたお陰で、こちらから出向く手間が省けました。井出君から話を聞いて、おかしいと思ってたんです。あたしたち以外の人はこの事態に異常を感じてないのに、あなたの井出君への対応は、『これを異常だと認識している』人のそれだったから

そして、あなたはもっと色んなことを知ってる。それを伝えて、かつ何かをさせる為にあたしたちを助けた……で、あってます? タイム・マシンの話も含めて

OH! パーフェクト! 素晴らしい!





 ドクター・ヤブはアッハッハと軽快に笑い、へたり込んだままの種本の手を強引に掴んで、ぶんぶんと握手をした。そして、ニカッと白い歯を見せ、俺に笑ってみせる。



そういうことだよ、ミスター・イデ! あの男や私は、実はこの時代の人間じゃあない。キミたちから見て、もう少し未来で生まれたヒトなワケさ。キミが私に『未来感溢れてるなぁ~』って思ってたのも道理だろう?

で、いまヤモリちゃんが言ってくれた通り、彼らはタイム・マシンで過去の時代に干渉し、歴史を改変している、と。ま、過去って言っても文明のブの字もない、遥か大昔の話だけどさ。結果、進化の道筋はキミらの知るそれとは大きく変化し、この地球の知的生命体はヒト一種から複数種へと増加したワケ

パラレル・ワールドじゃ説明がつかないことも、これだと説明がつくの。目の前の人が犬や猫の顔になった。それはつまり、大昔に手が加えられて、現在の事象が『挿げ変わった』ってこと。あたしが『ヒト』じゃなくて『ヤモリ』として生まれた……この世界の歴史は、そういうことにされちゃったんだよ





 種本は淡々と説明をしてくれた。どこか、自分でも整理しようと、意識的に話しているようでもある。


 一方、俺の頭は尚もこんがらがっていた。未来人? このパンチパーマ野郎が? 胡散臭さならまだしも、未来感なんざ微塵も感じないぞ。おまけにタイムマシン? 歴史改変?



ターミネーター……

そう、それ! 何も分かってない割には、なかなかいい感じに言い当ててたじゃん? つまり、目的や正体はともかく、未来からやってきた歴史改変者ってのは正解なワケでね?

でも、まだ分からないことが沢山ある。だから教えて下さい、えーっと……ミスター・ヤブ? どうしてあたしたちに、あなたの言う『超激レア能力』なんてものが?

それはだね

偶然ですよ。そして、メカニズムも良く分かっていない





 最早聞き慣れた声がして、俺達は弾かれたように後方を振り向いた――が、反応は少しばかり遅すぎたらしい。



スーツやろ――!

はっきりしているのは、貴女方の能力が先天性のものであること、そしてそれは、一部遺伝子の突然変異によってもたらされるものであるということだけだ





 臨戦態勢を取る暇も無く、俺はガシリと、真正面から首を捕まれた。頸部を圧迫され、思わず呻き声を上げると共に、必死で相手の手を引き剥がしにかかる……が、ビクともしない。



井出君!

動かないで。でなければ、彼の首をねじ切ります





 路地の奥から――恐らくは、俺のすぐ傍にあった小汚ない冷蔵庫の陰に隠れていたのだろう――姿を見せたスーツ男は、極々冷静にそう告げた。そして、懐から分かりやすく凶悪な物体――黒光りするリボルバーを取り出し、ドクター・ヤブに銃口を向ける。



博士も。私に何か出来るとしたら貴方だけですが、余計な手間は掛けさせないで下さい

そもそも、貴方ならご存知の筈だ。我々には時を移動する術と、何より『アストライア』がある。逃走劇にすらなりはしない

キミ、すっかり悪者口調だねぇ。全くもって笑顔が足りない。その銃の代わりにネギでも取り出せばドッカンドッカンだったのに





 ハッハッハ、とドクター・ヤブが笑い飛ばしてみても、スーツ男は微動だにしなかった。敵はギリギリ俺が呼吸出来る程度に首を掴んでいる。が、息苦しいのは変わらない。その中で思った。


 『アストライア』って、なんだ?



貴重なご意見をどうも。さて、では種本翠さん。聡明な貴女ならお判りな筈だ。私が何を望むか

『井出君の命が惜しければ』……ってことですか





 緊張した声色で、種本が立ち上がる。スーツ男は無表情に頷き、リボルバーを持ったままジャケットの前ポケットをまさぐって、やがて種本へ、例の掌大の注射をぽんと投げた。


 拾って、とスーツ男が静かに告げる。種本は俺とスーツ男の顔を交互に見て、素直にそれに従った。



要求は一つ。それの先端を首筋に当てて、押子を親指で押し込んでください。丁度、ボールペンのペン尻を押すようにね

大丈夫。痛みはありませんし、適当に打っても問題ないように作られています。それに、既にお伝えしましたが、それは貴女に危害を加えるものでは無い。歴史改変検知をもたらす遺伝子に働きかけ、無効化する――つまり、ヒトでなくなったことに違和感を持たなくなる薬です

楽にはなっても、苦しむことはなくなるはずですよ

やめろ、種本! こんな変態野郎の言うことなんて信用す





 絞り出した言葉は、より強い力で頸部を圧迫された結果、散り散りになった。男は溜め息をつく。勘違いしておられるようですが、と。



我々は、貴方がたが誤解されておられるような、悪の組織ではありませんよ。歴史を改変するのも、私利私欲からではありません。それが人類にとって必要だからです

なら井出君を開放して

なら私の要求に従って下さい

どうして、そこまでしてあたしにこれを?

二つあります。一つは、先ほどからお伝えしている通り、貴女の心情を慮っての人道的な措置

もう一つは、我々の活動において、貴女が改変を検知出来るままだと『不都合』だと判断されたから

どうして

私には測りかねる問題です。全ては『アストライア』の出した答えのままに





 また奇妙な名が飛び出した。俺は苦悶の中で許された唯一の攻撃手段――即ちキックを必死に繰り出すが、やはり男には通じないようだ。


 畜生、と胸中で呟く。まさか、自分が人質と化す日が来るなど、思ってもみなかった。



さて、そろそろいいでしょう、種本翠さん? 念のため言っておきますが、もし貴女がこの場から逃げおおせたとしても、私は時を移動して貴女を追えば良いだけのことです

それこそ、昨晩に移動して、自宅で眠っておられる貴女に注射を打つことだって出来る。このやり取りですら、本来は不要なことなのですよ

それでも、こうして面と向かって事態を話し、交渉しているのは、改変の影響を受けてしまった貴女へのせめてもの償いと、その聡明な頭脳への敬意の表れである、とお考えいただきたい

これが交渉なの? 発想がユニークですね、未来のヒトって

お褒めいただきどうも。さて、返答は?





 野郎は冷たく言った。種本はしばし、そのぎょろりとした爬虫類の眼玉で自身の掌に収めた注射器を見つめていたが、やがて観念したように嘆息を漏らした。



種本

大丈夫だと思うよ、井出君。どうなっちゃうのかよく分からないのが怖いけど……少なくとも、死んじゃうことはなさそうだし





 そう言うと、種本は少し笑ったようだった。少なくとも俺にはそう見えた。


 それが、途轍もなく苦痛だった。


 ゆっくりと、種本が注射器を首筋へ持っていく。成る程、変態野郎の言うことが本当なのだとすると、それは彼女にとって幸せなことなのかもしれない。同窓会で気絶して、ショックのまま一人帰って。自分の顔がいきなり爬虫類に変貌した、その生き地獄から抜け出せるのだから。


 だが。


 そうして、自分がヤモリであることを受け入れた時。


 彼女は、種本のままで居られるのだろうか。混乱と絶望の最中、自分を律し、約束の時間に遅れることなくやってきた、驚嘆と尊敬に値する精神力を持つ、今の種本のままで。


 種本が、首筋に注射器を当てた。親指で押子を押し出そうとする。その直前、全脳細胞が一丸となって、俺に怒鳴った。


 ――死んでも阻止しろ!


 理由は自分でも分からない。が、すべては一瞬だった。


 俺は狂ったように周囲に目を走らせ、自分でも何を考えたのか判然としないままに雄叫びを上げた。そして、傍の小汚い大型冷蔵庫の頭部ドアポケットを引っ掴み、全体重をかけてスーツ野郎に倒れ込んだ。


 冷静に考えてみると、愚かな行為であったと断ずる他は無い。相手はトラックの正面衝突も効かない化け物だ。たかが違法廃棄冷蔵庫と共に倒れ込んだくらいで、何が変わるわけでもない。


 筈だったのだが。



ぐえっ!





 ひどく人間らしい悲鳴を上げて、スーツ野郎はさしたる抵抗もなく、俺と冷蔵庫様の下敷きとなった。正確に言えば、スーツ野郎の上に俺が、その上に冷蔵庫様が覆い被さったような形だ。したがって、自然、俺の背中にもひどい痛みが突き抜ける。が、同時に俺は思い出してもいた。


 図書館一階の喫茶店、しがみついた俺のせいで、あっけなく転んだ野郎のことを。


 つまり。



おー、なんだやるじゃんミスター・イデ!





 もがくスーツ野郎を必死で掴んでいると、軽い調子の声が頭上から響いた。やがて「やめろ!」という声を最後に、すぐ下の野郎は大人しくなった。



そう、実は彼らにも、一つだけ弱点がある。『重いものに乗られると身動きが取れなくなる』だ!

えっ、何で?

井出君!





 注射器を放り出し、種本が駆けつけてきた。彼女にも手伝ってもらって何とか冷蔵庫様を退けると、果たして、野郎は実に気持ちよさそうに眠っていた。



大丈夫!? 怪我は?

ああ、大丈夫……すまん、よく分かってないんだが、こいつ、何で寝てるんだ?

睡眠薬で夢の世界へと。あ、弱点はもう一つか。そう、それがこの私ッ!





 ヒュウッ、などと楽しげに口笛を吹くドクター・ヤブは、スーツ野郎が持っていたような注射器を俺たちに見せ、ニカッと笑った。珍しく怒る気にはなれない。理屈も意味も分からないが、こいつは何だかんだで俺たちを――というか、種本を助けてくれたのだ。



ありがとうございます、ドクター・ヤブ。でも、何で重いもので身動きが取れなくなるの?

さぁ? ま、重力の影響すら受けなかったら、こうして地球に張り付いてもいられないからねぇ。重力だけは特別なんじゃないかしらん?

キミ超弦理論って知らない? アレでも重力子だけはえこひいきされてるじゃん?

あー……そう言えば

それよりホラ、礼を言うなら彼に、じゃないかいヤモリちゃん? いやぁ見事な起死回生のボディ・プレスだった!





 アッハッハッハとドクター・ヤブは笑い、種本はハッと気付いた様子の後、改めて俺に向き直って「ありがとう」と言った。俺はつくづく思った。


 なんでヤモリなんぞになっちまったんだ。畜生め。



さてと……しかし、こいつはどうしたもんかね





 痛む背中を片手でさすりながら立ち上がり、俺はスーツ野郎をまじまじと見つめた。本当によく眠っている。油性ペンを持っていないことがとにかく悔やまれた。何か落書きしてやりたい。額に『肉』とか。



ひとまず、逃げるか?

ダメだよ。ねぇ、ドクター・ヤブ。この人が使ってるタイム・マシンを、物理的に破壊することは出来ますか?





 何やら物騒なことを言い出した。やはり、彼女もかなり頭にきているらしい。うんうん、分かるぞ、と頷いていると、彼女からは「腹いせの嫌がらせとかじゃないからね?」と否定が入った。



この人が言ってたじゃない。例え自分から逃げても、時間を移動して追い掛けるだけだから無意味だ、って

だから、こうしてグッスリ寝てる今の間に、その移動手段を叩き潰さないと!





 力強く、種本は言い放つ。やはり若干は頭にきているような気がする。



で、ドクター・ヤブ。どうなんです?

出来るよ? 時間移動をすると空間に特定の粒子が散布されるからね

私の科学力やら何やらを持ってその痕跡を解析すれば、マシンの場所くらい、逆探知は容易ッ!





 ちょっと待ってね~、などと言いながら、ドクター・ヤブは上機嫌で、何やら腕時計をパチパチし始めた。どうやら、アレが逆探知マシンらしい。よく分からないが――と言うより、分からないことだらけだが、まずはすべきことを片付けた方が良さそうだ。幸い、ドクター・ヤブは俺たちに協力的だし、落ち着いてから色々聞けばいいだろう。


 とはいえ。



えっとだね。うーん……おゥ、ちょっと遠いなぁ。ここから三駅くらい離れたところに置いてるよ、彼。良い停め場所が見つからなかったのかしらん

停め場所って、そんな自家用車じゃあるまいし……あ、ねえねえ、タイム・マシンってどんなものなんだろうね

さぁ……なぁ、それよりコイツはどうするんだ?





 目の前の二人に、俺は足下のスーツ野郎を指差してみせる。どうも気になって仕方がない。



うーん。粗大ゴミをかき集めて封印しちゃうってのはどうかな?





 種本は軽く言った。俺は確信した。絶対に怒っている。だが妙案だ。



よし、じゃあまずこの冷蔵庫様を被せてあげよう。種本、悪いけどそっちから引っ張ってくれねぇ?

   そんなことしなくても  





 見知らぬ声が割って入るのと、俺が種本の後ろに人影を見たのと――そして、種本が声もなくバタリと倒れたのは、ほぼ同時だった。



えっ





 何度か、パチパチと目を開いて、閉じた。頭が追い付かなかった。


 種本が路地に倒れている。ドクター・ヤブが珍しく目を丸くしている。その視線の先に。



ほら。これで手間が省けた





 スーツ姿の女性が居た。


 歳は三十代半ばといったところか。ネクタイは無く、スラックスとジャケットは黒で、シャツは白い。背筋はピンと伸びていて、髪は丁寧に撫で付けられており、理知的な淑女といった雰囲気を醸している。


 女性は右手を軽く掲げて見せていた。その手には、見覚えのある注射器が握られている。



……種本!





 頭が真っ白になって、俺はうつ伏せのまま動かない種本に駆け寄った。抱き起こすと、彼女は眼を閉じている。気を失っているらしい。俺は彼女の頬を何度か叩いた。叩きながら名を呼んだ。


 ざらついた、ヒトのそれとは余りにも異質な感触が跳ね返ってきた。



驚いたなぁ





 ドクター・ヤブが後ろで何か言っている。キミまで来るとは、などと言っている。どうやら知り合いらしい。いや、今はそんなことはどうでもいい。しまった。すっかり油断していた。


 相手が一人きりである保証など、どこにも無かったのだ。



大丈夫。危害は加えていないわ

うるせぇ!





 怒鳴りつけた刹那、種本が小さく呻いた。種本、と再度名を呼ぶ。……ゆっくりと彼女は目を開いた。



種本! 大丈夫か!?

ああ、井出君……あれ、私、どうしたんだっけ





 彼女はしばらく寝起き直後のようにボンヤリしていたが、やがて「あ、そっか」と呟いた。



ごめんね井出君、私、ちょっと体調悪いみたい。まさか、歩いてる途中に、こんなに強い目眩がするなんて

種本?

昨日も倒れちゃったし……ちょっと私、仕事頑張り過ぎなのかも





 種本はそう言うとスッと立ち上がり、俺から離れた。パンパンと服についた埃を払い、やがて「丁度いい時間だし、私、今日は帰るね」と告げた。



今日は誘ってくれてありがとう。久しぶりで楽しかった

おい……種本?

でも、ごめんね井出君。ホラ、やっぱりその……私たち、種族が違うし





 つられて立ち上がっていた俺は、ただぽかんと口を開いて彼女を見ていた。彼女はバツが悪そうに頬を掻いた後、ぺこりと頭を下げた。そして言った。「またね」と。


 それから、彼女はそそくさと路地裏から出て行った。



……なんかフラれたみたいになったぞ

なんかフラれたみたいな感じだったねぇ





 呟く俺の肩に、ドクター・ヤブがポンと手を置く。俺は呆然と種本が立ち去った空間を見つめていた。既に日は陰り、薄暗くなった小汚い空間。彼女は言った。「またね」と。


 だが、そう。俺は気づいていた。何となく分かっていたのだ。


 俺が知っている種本とは、もう二度と会えなくなったのだと。



『アストライア』はあなたへの措置を提示しなかった。だから、あなたにこれを渡す必要は無いけれど





 ふと、女性が俺に近づいた。口を開いたままの――さぞかしアホ面に見えたことだろう――俺の、力なく垂れ下がった腕を持ち上げ、その手に何かを渡してくる。


 見ると、例の注射器だった。



忘れたいならば、そして日常に戻りたいのならば、あなたもそれを使いなさい。……きっとその方が楽になれる





 そう言うと、女性は俺の掌をそっと閉じさせた。そして何も言わず俺から離れ、足元でぐうぐう寝ているスーツ野郎の顔面を一蹴りしてから、小気味よい音をアスファルトと奏でつつ立ち去って行った。



うーん……とりあえず、一旦うちの病院に来るかい?





 珍しく困った調子で、ドクター・ヤブが言った。



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