第3話






 翌日。俺は再度、同窓会の催された街へと電車で出掛けた。時刻は昼過ぎだ。待ち合わせ場所である駅の改札口に着くと、種本――と思しきヤモリ――は、広告の貼られた柱の前に一人立っていた。



おはよう。昨日はごめんね





 おっかなびっくり近づいていくと、彼女から声を掛けてきた。やはり種本だったらしい。小走りにやってきた彼女は、実に申し訳なさそうに続ける。



折角、色々話すつもりだったのに、あたしの都合で

いや、俺は構わないんだけどさ……





 結局、失神した彼女は、同窓会終了間際まで目を覚まさなかった。唯一事情を知っている俺は、救急車を呼ぼうとする旧友たちに対し終始劣勢だったが、彼らの『お前が何かしたんだろう』という云われもない非難の空気がピークに達したところで、何とか彼女は起き上がってくれた。そして、心配する多数の声の中、謝罪しながら一人帰っていったのだ。この時間、この場所で再会する約束と、連絡先を俺に残して。


 無理も無いだろう、と思う。女の子にとって、自分の顔がいきなり爬虫類――あれ、両生類だっけ――に変貌するなど、生き地獄でなくてなんだろうか。下手すれば自殺モノだ。が、こうして混乱と絶望の最中、自分を律し、約束の時間に遅れることなくやってくるとは、やはり彼女の精神力は驚嘆と尊敬に値すると言えよう。



むしろ昨日の今日で落ち着かないのはそっちじゃないのか? 大丈夫か?

ありがとう。でも、もう大丈夫

先輩や街の人達が変わっちゃった時に、実はある程度、考えてたんだ。自分がそうなる可能性もあるんじゃないか、って

えっ、マジで





 歩きだした彼女と歩幅を合わせながら尋ねると、彼女は小さく頷いた。



……まさか爬虫類になるとは思わなかったけど





 爬虫類だったようだ。せめて猫とかなら良かったのにな、などと返そうとしたが、あまりにも無神経な気がして、流石の俺も自粛した。



とにかく、なっちゃったのは仕方無いよ。幸い、虫を食べなきゃ生きていけない、とかじゃないみたいだし

まずは何が起きてるのか、しっかり整理しないと!





 自らに言い聞かせるように、彼女は力強く言った。何と健気な奴だろう。中学時代、彼女に惚れた俺は間違ってはいなかったのだ。爬虫類と化したことが余りにも惜しい。



それで、まず井出君の話を聞かせて欲しいんだけど、いいかな?





 流石にヤモリとのロマンスは無理だなぁ、などと考えていた俺を覗き込むようにして、彼女は言った。ギョロっとした二つの眼には哀しみを禁じ得ない。が、最早ウダウダ考えていても仕方あるまい。


 道すがら、俺は自身に起きた出来事、知っていることを――ヤブメンタルクリニックのことも含めて――全て話した。話しながら思った。彼女に促されるまま歩いているが、俺達はどこへ向かっているのだろう。そう言えば、目的地について一切聞いていないぞ。



そっか、あたしと大体同じだね。あたしは病院には行ってないけど……





 ひとしきり俺の話を聞いてから、彼女は何か考え込むように暫く黙っていた。が、やがて「少し気になることがあるけど」と次の矢を放った。



とにかく、まだ何とも言えないかな。まずは調査してからにしよっか

調査?

うん。あ、そっか、言ってなかったっけ。ごめんね。実は、今日はあそこで色々調べたいと思ってて





 そう言って彼女が指差した方向には、『市立図書館』と書かれた、四階建て程のビルがそびえていた。

 それからは、暫く本の山とにらめっこを続けるハメになった。『調べもの』ときて、『ネット』ではなく『図書館』というのが、いかにも種本らしい。俺はというと、手塚治虫を読む為だけに足を運んだ中学校の図書館を思い出しながら、ひたすら無口を強要されるその空間に耐えなければならなかった。


 ここで誤解を招かぬように告げておくと、別に俺は無口でいることが苦痛だったワケではないし、本を読むことが嫌だったワケでも無い。ただ、取り出して広げた本の数々が、全てキッチリ笑いを取りにきていたのが問題だったのだ。


 イメージとしては、ネットカフェでギャグ漫画を読むことを強いられた、というのが近いだろうか。


 種本に頼まれて読み始めた歴史書では、『人間五十年』と詠った織田信長が「まぁ俺は千年生きるけどな」との想いを鶴になった顔面で表現し、方々に犬猫ウサギが描かれた参勤交代の図は『大名行列』ではなく『妖怪百鬼夜行』の様相を呈している。世界史に至ってはライト兄弟が烏の顔面になっていて「お前らは飛行機が無くても飛べるのでは?」という疑問を浮かび上がらせ、挙げ句の果てにはチャールズ・ダーウィンの肖像画はどう見ても猿山のボス猿そのものだ。進化論の提唱者が進化していないという禅問答にも似た問い掛けに俺の腹はよじれによじれ、最終的には図書館の床で笑い転げることとなった。結果、種本を初めとする善良なる市民に蔑視されてしまったが、果たして誰が俺を責められるだろう。


 種本はというと、哲学書や医学書、文学から理学書に至るまで、とにかく有りとあらゆる本を棚から引っ張り出しては読み漁っていた。彼女は俺とは随分ランクの違う高校に難なく合格していたし、昔からこんな感じで知識に貪欲だったのかも知れない。


お陰様で、色んなことが分かったと思う




 数時間後、図書館一階の割高な喫茶店にて、彼女は疲れた声でそう言った。ガラス張りの店内は明るく、座った窓際の席からは街並みが良く見えていたが、流石に今、それを楽しむ心のゆとりは無い。



分かったって、何が





 店員の持ってきたカフェオレに口をつけてから尋ねると、彼女は「まず状況を整理すると」と前置きをした。



あたしたちからすると、犬や猫が人間大になって、人間みたいに生活してるこの事態は、明らかにおかしいよね

そりゃそうだ

でも、大多数の人はそうは感じてない。むしろ、それが普通だって思ってる





 ふう、と息を一つ吐いて、種本は傍らに置いた複数の本の内から一冊を取り出し、広げてみせた。まさにこの図書館で借りてきたらしきその医学書には、『ヒト』『イヌ』『ネコ』などの表記と共に、それぞれ二本足で立たされた骨格が描かれている。



この地球には、生物学的種単位で異なる複数の知的生命体が居る。それが、『この世界』の『常識』なの

『世界』ってまた、大げさに言うなぁ。SFや漫画じゃないんだから





 俺はそう笑ったが、種本は微動だにせず、じっとこちらを見つめていた。大きな二つの目には、ヤモリ特有の大きな筋が縦に走っている。


 半笑いだった俺は、その動かない眼が妙に恐ろしくなって、早口で「マジで言ってんの」と尋ねた。



マジだよ。あたしは大マジ





 種本はまた、極々冷静に言った。



井出君が見てくれてた歴史の本もそうだったでしょ? 大昔から犬や猫が人間と一緒の生活をしてる。それが前提の本だった

ありゃ誤植か、じゃなきゃ単なるオフザケ本だったんだって。だって、写真とか絵以外はまともな内容だったぜ?

クイズです。織田信長が本能寺で暗殺された年は?

きゅ、急になんだよ

いいから答えて





 ねじ伏せるように種本は言った。雰囲気に気圧された俺は、そこで古い記憶を紐解いてみる。確か昔、イチゴパンツ、とか習ったことがあるから……。



……一五八二年?

あたしたちの知ってる本能寺の変はそうだったよね。でもここを見て





 種本はそう言って、広げていた医学書を閉じ、代わりに別の本を広げてみせる。しばらくページを探した後、彼女が開いたページには、俺の笑いを誘った鶴顔の織田信長が描かれている。生没年は……。



一五百二年から一五五十年?

生年も没年も、あたしたちの知ってる歴史より少し早いでしょ? 他もそう

これ以外の本も調べてみたけど、どの年表でも、あたしたちの常識よりも少し早い年代に歴史が動いてる





 改めて、信長の肖像画を見つめてみた。よく歴史の教科書に載っている、あぐらをかいて、右手に扇子か何かを持ち、袴姿で左前方を見つめている肖像画。だが、顔は鶴そのものだ。長い首とクチバシ、頭部中央の赤い皮膚、下半分は黒、上半分は白の羽毛に覆われている。真っ黒な瞳はぽっかりと空いた洞のように虚ろで、俺にはそれが、段々と不気味に思えてきた。



つまり、アレか? もしかして種本、俺たちが『パラレル・ワールド』に来てる、とでも?





 並行世界。SFや漫画なんかでよく見る奴だ。要するに、この宇宙には同じような世界が無数にある、みたいなアレである。


 俺が生きている世界もあれば、死んでいる世界もある。第三次世界大戦が起きた世界もあれば、第一次世界大戦すら起きなかった世界もある。そんな、元居た世界と微妙に異なる世界に来てしまっている……種本はそう言いたいのではないか。



パラレル・ワールド……うん、その可能性も考えたんだけど、それだとあたしがヤモリに『なった』ことに説明がつかないと思うの

それで、他の可能性が無いか調べたんだけどね





 三冊目の本を取り出し、種本はまたページを手繰った。今度は哲学書だ。示されたページには、名前も知らない哲学者の言葉が、何やら解説付きで紹介されている。何かの思想のようだ。



『皆は冗談と笑うが、これは私にとっての真実である。即ち、眼前の待ち人、友人が次々と【別のモノ】に変わっていった。私だけがそれを知っている』




何だこりゃ。俺たちと似たようなこと言ってんなぁこのオッサン

似たようなこと、じゃなくて、きっと同じなんだと思う

つまり――極々少数みたいだけど――あたしや井出君と同じように、この世界が『変わった』って認識してる人は居るんだよ。それも、あたしたちよりももっと古い時代にも

それってつまり、だよ。あたしたちが別の世界に来たんじゃなくて、逆にこの世界が――

失礼。種本翠さんですか?





 熱を帯びてきた種本の語りを、不意に静かな声が遮った。見ると、俺たちが向かい合って座るテーブルのすぐ傍に、スーツ姿の男が立っている。


 歳は二十代後半くらいだろうか。青い地味なネクタイをしていて、眉が見える程度の黒い短髪に彫りの深い顔立ち――念のため付け加えておくと立派なヒトだ――をしていた。種本の知り合いだろうか、と思って彼女を見たが……ヤモリの表情を窺えるほどの技術を、俺は持っていなかった。



えっ、はい……あの、どちら様でしょうか?





 どうやら知人では無さそうだ。男は「突然申し訳ありません」と言って律儀に頭を下げ、そしてちらりと、俺たちのテーブルの上に広げられた本の数々に目を遣った。



なるほど、やはり改変前の記憶があるようですね。突然自身の種族が変わったのですから、さぞやお辛いことでしょう





 男は馬鹿に丁寧に、しかし一方的にそんなことを告げた。俺はしばし、男が何を言っているのか理解できなかったが、種本は瞬時に事態を察知したようだ。



誰なのあなた





 彼女は立ち上がり、警戒するように男から距離を取った。と言っても、俺たちは窓際に座っていたから、後ずさり出来るのはたかが知れている。



あたしに何の用なの

そう警戒なさらないで。危害を加えるつもりは毛頭ありません。むしろ貴女のためにも良いことです

何せ、人間だった頃の記憶など、今の貴女には苦痛以外の何物でもない

おい、なんなんだあんた





 事態の異常さをようやく察知し、俺も立ち上がった。話しぶりから察するに、この男は知っているのだ。種本のことを――彼女がヒトからヤモリに変わったことを。


 男はちらりと、その時になってようやく、少しだけ俺に目を遣った。だが、すぐに取るに足らぬ存在だと判断したらしい。



ここに薬があります。これを打てば、自身に起こった異常を、貴女は認識しなくなる。改変を受け入れられるのです





 スーツの内ポケットからインスリン注射を彷彿とさせる細いペン状の物体を取り出しつつ、男が種本ににじり寄る。異様な状況に周囲の客や店員も気づいたようだ。


 俺は男の肩を掴んだ。が、男はそれらをものともしない。どれだけ腕に力を込めても、だ。まるで、巨大な岩を相手にしているかのように。



おい!

やかましい





 男がぶんと腕を振った。それに思い切り吹き飛ばされ、俺は後方のテーブルに派手な音を立てて突っ込んだ。数年前、酒に酔って友人と殴り合いの喧嘩をしたとき以来のひどい痛みが体中に走り、たちまちそれは男への怒りに変化する。


 ばん、と近場の椅子に手をついて立ち上がると、種本が男に腕を掴まれていた。そんなにヤモリが好きか、この変態野郎。



井出君!





 種本が叫ぶ。俺は駆け寄ってきた店員が手にしていたトレイを奪い取り、男の後頭部めがけて思い切り振り下ろした。直後、男が衝撃に種本から手を放し、頭を押さえてうずくまる……なんてことはなく、逆に振り下ろした木製のトレイが粉々に砕け散り、俺の眼は点になった。



すっげぇ石頭

感心してないで!





 悲鳴に近しい声で種本が再び叫んだ。その首筋に、男が注射器を突き立てようとした、その直後。



   Heyそこまで! 





 突然、えらく陽気な調子の声が響いたと同時に、種本のすぐ隣のガラスが派手に弾け飛んだ。そして、飛び込んできた人影が、思い切りスーツ姿の男を蹴り飛ばした。男はこれまでの鉄壁さなど嘘のように吹き飛び、喫茶店のよく磨き上げられた床の上を滑っていく。


 俺は再び眼が点になった。何故か? 単純な話だ。



ハロー、ミスター・イデ。ハラハラしてるかい?

や……ヤブ医者

ノーノーノーノー、私のことはドクター・ヤブと!





 外から飛び込んできた胡散臭いアフリカ系パンチパーマ野郎は、そう言って白い歯を見せ、ニカッと笑った。

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