風呂から上がり、置いてあった服を着て脱衣所を出た。
薄暗い、長い廊下が目の前に現れる。
その先に、明かりの漏れている部屋が見えた。
ぎしぎしと音を立てて廊下を歩き、部屋へと向かう。
風呂から上がり、置いてあった服を着て脱衣所を出た。
薄暗い、長い廊下が目の前に現れる。
その先に、明かりの漏れている部屋が見えた。
ぎしぎしと音を立てて廊下を歩き、部屋へと向かう。
部屋に入ると、ちゃぶ台の前に坪倉が座っていた。
ごはん、残り物だけど
ご、ごはん?
俺の顔を見るなり、そんなことを言う。
ちゃぶ台には、食器が3つ載っていた。
こんもりと米の盛られた茶碗。
里芋と人参の煮物。
たくあん。
こう言っては悪いが、かなり地味なラインナップだ。
突然出された夕食に俺が戸惑っていると、坪倉が小首を傾げた。
ちゃぶ台に並べられたそれらを数秒見つめ、ぽんと手を打つ。
夕ごはん、残り物だけど
何を言い直しているんだこいつは。
いや、そうじゃなくて……
……食べないの?
い、いただきます
坪倉の表情が少し陰ったように見え、思わず俺はそう返してしまった。
お茶、淹れるね。座って
うながされるまま座布団に座り、米が盛られた茶碗を手に取る。
先ほど民宿でたらふく食べた後なので、正直なところあまり入る気がしない。
もそもそと煮物とご飯を口に入れていると、坪倉が急須でお茶を淹れてくれた。
はい、どうぞ
ん、ありがとう
お茶の入った湯飲みを受け取り、ずずっと一口啜る。
玄米茶だ。
かなり美味い。
これは高級茶葉に違いない。
いや、違う。そうじゃない。
何を順応しているんだ俺は。
あ、あのさ
ご飯のおかわり、あるよ
いや、そうじゃなくて
煮物も、まだあるよ
だから、そうじゃなくて
……!
坪倉は不思議そうに俺を見つめると、はっとした顔をした。
泊まっていって、いいよ
違うわ!
俺は思わず、坪倉の額に手刀を入れた。
坪倉は額を抑え、涙目で俺を見上げてくる。
こいつ、こんなキャラだっただろうか。
……痛いよ
ご、ごめん。つい、いらっときて……
次やったら、あの海に帰すよ
そう言われた瞬間、一気に血の気が引いた。
わずか数十分前に見た恐ろしい光景を思い出し、息が詰まってしまう。
よく分からないまま坪倉のペースに流されて夕飯なんぞをいただいているが、それどころではない。
あれはいったい、何だったのか。
俺はどうして、ここにいるのか。
思考がぐるぐると回り、だらだらと全身から汗が吹き出てくる。
あの薄気味悪い手に、再び両足を掴まれているような気がした。
ごめんなさい。冗談だから
いつの間にか坪倉は俺の手を握り、背中を撫でてくれていた。
俺はかなり動揺していたらしく、持っていた茶碗を取り落としたことにすら気づいていなかった。
畳には、転げた茶碗から米と煮物がぶちまけられてしまっている。
大丈夫、大丈夫
そう言われながら1分近く背中を撫でてもらい、ようやく気を落ち着かせられた。
あ、ごめん、畳が……
いいよ。大丈夫だから
坪倉はそれらをお盆に載せると、ふきんで畳を拭った。
坪倉、教えてくれ。どうして俺はここにいるんだ?
私が、引き上げたから
風呂場で聞いたものと、同じ答えが返ってきた。
引き上げたって……
海で溺れてるのが見えたから、掴んで引き上げたの。無事でよかった
少し照れたような表情をしている坪倉を、俺は呆然と見つめた。
初めて坪倉のそんな顔を見た気がするが、呆然としている理由はそれではない。
溺れてるのが見えたって……俺は海で溺れてたんだぞ? それなのに、どうして風呂に入ってた坪倉に俺が見えるんだ?
水は常世(とこよ)と繋がっているから
わけが分からない。
そもそも、常世って何だ。
全然分からん。俺にも分かるように言ってくれないか
死んだらみんな、だいたいの人が行く場所。そこと繋がってるの
何だよそれ。オカルトか……よ……
そこまで言って、溺れる寸前に見たアレを思い出した。
ぶくぶくに膨れ上がった青紫色の顔。
皮膚がこそげ落ち、ピンク色の肉が覗く腕。
どう見ても、生きている人間のそれではなかった。
オカルトだよ
坪倉は俺の手をそっと放すと、俺の足を指差した。
まだ、残ってるよ
俺は慌ててズボンの裾をめくり、絶句した。
足首には、くっきりと指の形の痣が残っていた。
しばらくは、水の中には入っちゃダメだよ。また引っ張られると思うから
引っ張られるって、あの化け物にか?
うん。たぶん、あなたのこと探してると思うから
俺は思わず頭を抱えた。
お化けだとか幽霊だとか、今までまったく信じてはいなかった。
だが、このような体験をしてしまっては、信じないほうがどうかしている。
マジかよ。俺が何をしたっていうんだ……
運が悪かったね。しばらくは、水辺に近づいちゃダメだよ
俺が顔を上げると、坪倉は微笑んでいた。
だが、優しく微笑むというよりは、嬉しくて微笑んでいるように見える。
……お前、なんか嬉しそうじゃないか?
……そんなことないよ
目を逸らしながら言う坪倉に、俺は文句を言いかけて、やめた。
どちらにせよ、今後頼りになるのは彼女だけなのだ。
先ほどの恐怖も相まって、俺は彼女の機嫌を損ねることを少し恐れていた。
今日は泊まって行く?
いや、帰るよ。一緒に行ったやつらも心配してるだろうし、急いで連絡しないと。家とか警察に電話がいってたら洒落にならん
……そう
俺がそう言うと、坪倉は少しだけ表情を曇らせた。
どうしてこいつは俺を泊めたがっているのだろう。
襲って欲しいのだろうか。
たとえそうだとしても、恐ろしすぎて襲えないけど。
じゃあ、また何かあったらうちに来て
おう、その時はお願いするわ。ホント、今日はありがとうな。服は後で返すから
俺は座ったまま深々と頭を下げると、坪倉の家を後にした。
それからが大変だった。
家には警察から俺が海で行方不明になったという連絡が届いた直後で、玄関から入ってきた俺を見て母親が卒倒した。
父親にはなぜか殴られるし、妹には呆れ顔で見られた。
一緒に旅行に行った友人に電話をすると、ものすごく驚いた様子で色々と問い詰められた。
今までどこにいたのかとも聞かれたが、何も覚えていないと嘘をついた。
坪倉の家での出来事を言っても、誰も信じてはくれないだろう。
それに、助けてくれた坪倉にも迷惑をかけてしまう。
友人たちは今から戻るのも大変だということで、予定通り宿に泊まって翌朝帰ってくるとのことだった。
不思議なことって、本当にあるんだなぁ……
自宅の湯船に浸かりながら、俺は海での出来事を思い返していた。
もう二度と、夜の海では泳がないだろう。
あんな恐ろしい思いは、もうたくさんだ。
それにしても、いったいあいつは何者なんだろうか
地元から遠く離れた海にいた俺を、一瞬で自宅の風呂場に引き上げた坪倉みさき。
まるで魔法使いだ。
空間転移術の使い手だ。
もしあの時、坪倉が風呂に入ってなかったら、俺はあのまま死んでたのかな
そんなことを言いながら、風呂場での出来事を思い出す。
……坪倉、胸小さかったな
あんな状況でも、俺は見るところは見ていた。
坪倉は顔は綺麗だし、細身でスタイルもいい。
だが、残念ながらというか、胸は控えめだった。
今度栄養のある物でも奢ってやったほうがいいかと失礼なことを考えていると、不意に足首に違和感を覚えた。
……え?
足首に目を向けた瞬間、心臓が止まりそうになった。
湯船の底には、海で見た青紫色の顔があった。
その脇からにゅっと出た両手が、俺の両足首をがっちりと掴んでいる。
っ!?
叫び声を上げるよりも早く、俺は湯船の中に引きずり込まれた。
座った状態で肩が出るほどの深さしかないはずなのに、ごぼごぼとどこまでも引きずりこまれていく。
何とかそれから逃れようと足をばたつかせるが、足首を掴む手は一向に振りほどけない。
その時、覚えのある感触が右手を掴み、俺は一気に引き上げられた。
げほっ! げほっ!
激しくむせ返りながら、必死に肺に空気を取り込む。
優しく背中を撫でられる感触に、俺は荒い息を吐きながら顔を上げた。
大丈夫?
湯船の外に、坪倉みさきがいた。
な、なんで?
たぶんこうなるだろうなって思ってたから、お風呂で待ってた
先に言ってくれ。
がっくりとうなだれる俺の頭を、坪倉はぽんぽんと撫でる。
胸、好きで小さいわけじゃないんだよ
ぎょっとして顔を上げると、坪倉はくすっと笑って立ち上がった。
着替えとタオル、置いてあるから
そう言って、静かに風呂場を出て行った。