デッサンや絵画の授業があるといっても、みのりが通うのは芸術学科や美術コースじゃない。
総合学科といって、たくさんの選択科目の中に、美術の専門的な授業も置かれているという高校だった。
美術だけじゃなく、英語や理科や家庭科も数多くの科目に分かれているし、商業、福祉、看護といった特殊な専門教科もあって、生徒はそれらの中から取るべき授業を選び、自分で自分の時間割を作る。

ただ、入学していきなり全部を自分で選べと言われても、みんな戸惑ってしまう。
だから一年生の間は選択科目は少しだけで、あとはクラスごとの一斉授業だ。
そして、「産業社会と人間」、略して「産社」という授業があって、そこで二年生以降の準備をする。
自分の希望や適性を見つめ直したり、さまざまな職業について調べたりして、最終的に「十年ぐらい後に自分はこうなっていたい」というビジョンを描く。そこから逆算して高校を出た後の進路を決め、それに合わせて二年と三年で取る授業を決める…それが「産社」の内容と目的だった。

絵が描きたいという他に何もなかったみのりも、この授業のおかげで、

みのり

絵を描いて…それで、どんな進路を選んでどんな人生を過ごそうかな…

と考えられるようになった。
まず、美大に行けば絵の勉強ができて、美大に入るためには、この高校で美術の専門科目をいくつも取る必要があるのを知った。
それはみのりの望むところだったが、問題はその先だった。
画家やイラストレーターといった、正面から絵を仕事にする職業は就くこと自体が難しい。就いたとしても、そのまま売れ続けていくのは大変だ。それはすぐに分かったし、みのりも薄々知ってはいた。
そこで調べる範囲を広げて、アニメーター、WEBページや印刷物のデザイン、広告業界、イベントの展示物制作などの仕事に行き当たったけれど、どれも身分が不安定か、仕事のキツさの割に賃金が低いか、あるいはその両方だというのが見えてくる。
さらに広げて、出版社やアニメ会社で編集や広報をするスタッフ。仕事がハードなのは仕方ないとして、みのりが知っているような会社で働くには、絵やデザインの力よりも勉強の方が大事なようだった。

そして、以上のどの職業や会社も、東京や大阪などの遠く離れた大都市にしか見あたらない。
会社どころか美大も、みのりが住む北陸の街から通える場所には一校もなかった。
それが、みのりにとって一番困ったことだった。なぜなら…

みのり

地元の学校に行って地元で就職して、普通のお給料もらって貯金して、そのうち一人暮らしとか…

みのりの「十年ぐらい後に自分はこうなっていたい」は、そういう内容だったからだ。
少なくとも、東京みたいな大都市に出るのは絶対に嫌だった。
みのりの両親は東京の人で、彼女が小学校に入る少し前まで一家は東京に住んでいたが、どこへ行っても人だらけで苦痛だった記憶しかない。何よりも、転勤でこの土地に来るなり父親の帰りが早くなり、顔色も良くなって口数も増えたのが彼女にとっては今も強烈な思い出だった。満員電車に長時間乗っての通勤がないだけでも、ここは最高だと親は言う。

みのり

おじいちゃん家に遊びに行くぐらいなら楽しいけど、東京なんかにずっと住むなんて考えられん

…それを抜きにしても、彼女にとってはもうこの土地が故郷で、この土地の友達がすべてだった。

では、その故郷で、彼女が考える「普通の給料」を安定してもらい続けるためには、どういう進路を取ればいいのか。みのりはそれを調べてみた。
公務員、看護師、金融機関、NTTや電力会社の地元支店…といった職や会社が候補になり、そのためには地元なら国立大学や看護学校に行くか、あるいは就職試験を受けるかだった。
いずれも猛勉強が必要で、本気で合格しようと思ったら絵の授業なんか選んでいる場合じゃなかった。

みのり

絵の勉強を選んだら、ずっと東京で暮らすしかなくなる。それは絶対に嫌。でも地元にいたかったら、今すぐ絵はあきらめなきゃいけない。けど、そんなこと絶対に考えたくない…

ぐるぐると悩み続けるみのり。事情は後で書くが、考えていることを全部打ち明けて相談できる相手が彼女にはいなかった。
そのまま来年度の授業を選ぶ期限が迫る。仮提出の期限は先月…十一月の下旬だった。

結局、地元でしっかりした仕事を、という気持ちの方が勝った。
みのりは公務員や金融機関を想定して、国立大学の受験に対応できるような科目選びをした。いわゆる受験教科ばかりだ。取る授業を正式に決めるのは年が明けてからだが、よほどの事情がない限り、仮提出の内容を大きく変更することはできない。
…しかし、みのりにとって、絵の勉強とそれを活かした進路は、あきらめるには魅力的すぎた。
あきらめなければいけないと思えば思うほど、絵画の授業がますます楽しくなっていき、美大に行ってもっと絵を描きたいという思いがどんどん募ってくる。

みのり

絵は、三月まででおしまいなんだから!もう決めちゃったでしょ!

そう自分を説得するのだが、説得しようとすればするほど、逆に「本当にそれでいいの?」という疑問や不安がみのりの胸を鋭くつついてくる。
そして説得を繰り返して胸の痛みを何度も味わううちに、夜も眠れなくなって、頭痛やけだるさが彼女を襲うようになったのだった。

みのり

「どっちか選ぶのがこんなに苦しいなんて…なんでこんな高校に入っちゃったんだろう」

あまりの辛さに、みのりはそんなことすら思うようになっている…。

お姉さん

…そっか。今が、将来どうなるかの瀬戸際なんだね…

みのりの話をじっと聞いていたお姉さんは、ココアを一口飲んでから、ぽつりと言った。
言ってから顔を近づけて、うれしそうな眼差しをみのりに向ける。

お姉さん

分かる分かる。やっぱり地元が一番だよね。だから私も帰ってきちゃったし

みのり

…もともと、このへんの人なんですか?

お姉さん

うん。このすぐ近所に実家があったよ。
私も子どもの頃から絵が好きでさ、みのりちゃんみたく絵が勉強できる高校に行って、で、美大に進学したの

みのり

え…?あの、絵が勉強できる高校、って…

みのりはハッとしてお姉さんを見つめた。そんな高校はこのあたりでは一つしかない。

お姉さん

そう。みのりちゃんの高校。部活もイラスト漫画部だったよ!

みのり

じゃあ、先輩じゃないですか!

お姉さん

先輩なんて言われると、なんか変な感じだけど…まあ、先輩ってことにしとくか

お姉さんは、複雑そうな照れ笑いをしながら言った。

みのり

えっと、あの…どれぐらい前の、先輩なんですか?

お姉さん

今、二十六だから…みのりちゃんと同じ学年だったのが、ちょうど十年前ね

さっき、みのりが見立てたとおりの年齢だ。

お姉さん

私も『産社』で職業のこと調べて、どうしようかなってずいぶん迷ったけど…
でも結局、好きなこと大事にしたくてね、東京の美大に行ったの

みのり

………それで、どんな感じだったんですか?

自分と同じ高校に行って、自分が捨てた道に進んだ人…みのりはお姉さんの話を聞くのが怖かったが、でも、聞いてみたかった。

お姉さん

楽しかったよぉー!大学の勉強も東京も。たしかに窮屈だけどさ、何でもあるし、いろんな友達ができたし。
それにホラ、コミケもそうだけど、大きい同人誌イベントが他にもいっぱいあるんで!

みのり

…就職とかは、どうだったんですか?

つとめて冷静な口調でみのりが聞くと、笑顔で話していたお姉さんは小さく息を吐いた。

お姉さん

やっぱ、それなのよねー。デザイン事務所希望だったけど、地元どころか北陸全部でもそんな求人なんてなくてさ。
で、『いつか見つけて帰ってやる』ってことにして、とりあえず東京で就職。まあ忙しいのは仕方ないけど、通勤は大変だし、家賃が高くてお給料いくらも残らんし…
そんなだと余計に、地元の暮らしとか友達とかが恋しくなるんだよねー

やっぱり…と、みのりは思った。
彼女のその顔をチラリと見ながら、お姉さんは話を続ける。

お姉さん

二年ぐらい我慢してから、『とにかく地元に帰っちゃおう』って思ったんだけど…
私の親が、もともと東京の人でさ。で、転勤で東京に戻って来ちゃって、一緒に住むことになって…そしたら、『なんでわざわざ今から向こうに行くの!』って反対されてさぁ…

みのりは少しドキッとする。
みのりの家も、父親の転勤で東京からこの街に来ている。転勤である以上は戻る可能性もあることに、今になって彼女は気がついた。

お姉さん

…で、一年がかりで親を説得して、去年、元の家のすぐそばに帰ってきたとこ。
やっぱりここが一番!

せいせいしたという顔で、お姉さんが過去の話を終えた。

みのり

じゃあ…今はここで、デザインの仕事を?

少し期待を込めて聞いたみのりに、お姉さんは小さく首を振る。

お姉さん

まさかぁ。ここじゃそんな会社ないって。
DTPっていう、パソコンでパンフレットやポスターのレイアウトをする仕事してるの。
そういうのを請け負う印刷屋さんなら、田舎にも結構あるのよ

その仕事を、みのりは聞いたことがある。
産社の授業で、絵やデザインに関連した仕事を探している時に見つけて調べたのだけれど、あまり労働条件は良くないようだった。

みのり

…そのお仕事って、楽しいんですか?

お姉さん

レイアウトもデザインの一種だし、パソコンで画像とか作るのも好きだったから、勉強してきたことは活かせとるよ。
それに小さい会社だから、自分がした仕事が役に立っとるのがめっちゃよく見えるんで!

みのり

へぇー…

お姉さん

でも大変。夜中まで残業するかと思えば、今日もそうなんだけど、仕事がないから急に休みになっちゃったりとか…

雪が降る窓の外から、ガタン、ゴトン…という路面電車の音が聞こえてくる。

お姉さん

あ、お休みって言ったって、お給料は引かれるのよ。小さい会社ばっかりの業界だから…
まあ、食べてはいけるし少しは貯金もできとるけど、ご覧のとおりよ

お姉さんは上げた片腕をぐるりと回して、部屋全体を指すような仕草をした。
ダイニングもない学生アパートはやはり狭くて、本棚やタンス、それに勉強机が部屋をさらに窮屈にしている。

みのり

……………

勉強机の上にはペン立ても何もなくて、使っている気配がない。
みのりはそれが気になった。

みのり

…あの机は、どうして使われないんですか?

お姉さん

あぁ。冬は炬燵で十分だから。机使っとったら、ずうっとヒーターつけてなきゃいけないでしょ?灯油って高いし…

お姉さん

あ、ゴメン!そろそろ寒いでしょ?ヒーターつけるね

みのり

いえあの、大丈夫ですから…

みのりは悪いと思って止めたけれど、お姉さんは炬燵から出てあたふたとヒーターをつけにいく。

みのり

やっぱり美術を進路にしたら、地元には帰ってこられん…

ドテラの背中を丸めてヒーターをつける後ろ姿を見ながら、みのりはそう思った。
それを見透かしたみたいなタイミングで、戻ってきたお姉さんが言う。

お姉さん

私はこんななのに、みのりちゃんは、しっかり将来のこと考えとるんだね

言う相手の顔に嫌みは少しもなくて、心底からの台詞なのがみのりにも分かる。

お姉さん

大変だろうけど、それってとっても大事だと思うよ。でも…

そこで急に、お姉さんの眼差しがキュッと鋭くなった。

お姉さん

でも、ちょっと考えすぎ。
ていうかハッキリ言って、あなたの希望は高飛車すぎる

みのり

……………

たしかに、みのりが描く「普通の給料」や「安定」はずいぶんと敷居が高い。
公務員や金融機関といえば、たとえ小さめの市役所や地方銀行でも、普通どころかトップクラスの就職先だった。

お姉さん

高飛車っていうより、なんか変な感じがするの。分かる?

みのりは小さくうなずいた。
変だと言われるのは彼女も前から分かっていて、だから希望する就職先のことまでは、今まで誰にも話せなかった。親や教師にも友達にも、
「美大に行くか地元の大学に行くか迷っている」
という程度の相談しかできていない。

お姉さん

ホントに、お給料や安定のためだけに、そんなこと考えとるの?そのために絵をやめちゃうの?

みのり

………はい

この年頃の女の子にしては、考えがシビアすぎる。
「将来、食べていけるかどうか」
ということについては、女の子だと普通はもっとあやふやだったり、好きなことの方が優先だったりする。心のどこかで、いずれ結婚するという想定に頼っている部分があるからだろう。
ましてや田舎だから、結婚するという将来像は東京で考えられている以上に当たり前になっている。昔から共稼ぎが比較的多い土地だけれど、主に稼ぐのは男の方だという発想はここでも根強い。

お姉さん

まあ、私は一人暮らしだからちょっと大変だけど、でも市役所や銀行じゃなくたって、普通に暮らしとる人は山ほどいるでしょ?

さほど大きくない会社や店でも、そこそこに食べていくことはできた。中小企業だからといって、どこもかしこもが簡単に潰れるわけじゃない。
そして現に、たくさんの人々が地元の会社や店で働き、家族を持って暮らしている。みのりの父親の勤め先だって、たまたま東京と北陸にオフィスがあるというだけで、一流企業なんかじゃなかった。

みのり

それは、そうですけど…
あ、でも、ほら、みのりさんみたく、親がよそへ行ってしまうかも…

お姉さん

何か、隠しとるでしょう

お姉さんが静かに、でもピシャリと言った。
心の奥底を覗き込んでくるような眼。みのりはギクリとした。

みのり

いえ、あの………

お姉さんの台詞は図星で、みのりには隠そうとしていることがある。
みのりが求める「普通」の水準が高いのは、自分はずっと一人で生きていかなきゃいけない、という思いが彼女の中にあるからだった。
つまり、いずれ結婚するという想定を抱くことが彼女にはできなかった。
でも、それを言えば、なんで結婚できないと思っているのかを話さなければいけなくなる。その中身は単に
「異性と縁がないから想像できない」
といった話じゃなく、今まで誰にも話したことがない。
そして、それを話さざるを得なくなるから、今まで人に進路のことを正直に相談できなかったのだ。
お姉さんにも、そこまで話す気は毛頭なかったのだが…。

みのり

なんで進路のこと、正直に全部言っちゃったんだろ…

いまさらのように、みのりは後悔していた。
それをよそに、お姉さんは熱心に説得してくる。

お姉さん

ね。悩んどるんなら聞かせて。
誰にも言わんし、聞かせてもらえて事情が飲み込めたら、みのりちゃんが考えとることに反対なんかしないから

みのり

……………

そのまま、気まずい沈黙になった。
みのりが隠そうとしているのは、中学生の頃から、悩んだり自分を責めたりしながら必死に隠し続けてきたことだった。
お姉さんが自分のことを気遣ってくれているのは伝わってきたけれど、「この人になら」という気持ちは起こらない…。

みのり

ごめんなさい………私、そろそろ帰ります

振り切るような気持ちで、みのりは鞄を手にして立ち上がった。
が、立ち上がるや彼女の頭の中がぐるぐると回り、倒れるように尻餅をついてしまった。まだ体調は良くなっていなかったようだ。

お姉さん

ちょっと、大丈夫?!

お姉さんが飛んできて、みのりを抱き起こす。

みのり

だ、大丈夫…です…

抱き起こされながら、みのりは床に目をやった。倒れる時に何かが散らばる物音がしたからで、案の定、鞄の中にあったペンケースや携帯電話が床に落ちている。
みのりがペンケースを拾おうとすると、お姉さんの手が隣にあった携帯電話をヒョイと拾い上げた。

みのり

え?

お姉さんは、手にした携帯電話をじいっと見つめている。
珍しいような、懐かしいような、微笑ましいような…眼鏡越しの両目が、そんな色をたたえていた。みのりには、その目が潤んでいるように見えた。

お姉さん

「……………」

電話機には、ストラップがぶら下がっている。青紫色の紐の先に、手毬の形をしたかわいい鈴。
お姉さんの指先が優しく鈴に触れて、それから紐をたどるように撫でていく。
紐には白で小さくローマ字が刻まれていて、お姉さんの口が、途切れ途切れにそれを読み上げた。

お姉さん

…も、も、の

さっき、みのりが口にしていた、彼女の友達の名前。
読み終えると、お姉さんはニコッと笑ってみのりの方を見た。屈託のない、とても心地よさそうな笑顔だったけれど、みのりはドキリとした。

みのり

と、友達です。私の…

あわてて言うみのりの口を、お姉さんは人差し指で塞いだ。

お姉さん

みのりちゃんの、好きな人でしょ?

みのり

……………!

心地のいい笑顔のまま、でも、お姉さんはしっかりとみのりを見つめた。

お姉さん

私、変だなんて思わんよ。
なんで私が、すぐに分かったと思う?

みのり

…いえ、あの……

お姉さん

分かるよ。あなたも辛かったんだね。みのりちゃん

お姉さんは、目をそらさない。
みのりの見開いたままの目が潤んできて、涙がこぼれた。
すがりつくみのりを、お姉さんが抱き留める。
小さく、電車の警笛が一つ聞こえた。
雪のせいか、くぐもった感じの響きだった。

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