お姉さん

ちょっと、どうしたん!大丈夫?!

声と一緒に肩を揺さぶられて、みのりは顔を上げた。
母親ではなく、どこかのお姉さんの顔があった。楕円形の眼鏡の下から、心配そうな色の瞳がこちらを見ている。
みのりはまだ夢心地だったけれど、答えを返す必要があると思うことはできた。

家の人が帰ってくるのを、待っとって…

みのりの答えを聞くと、お姉さんは「はぁ?」という顔をしながら目を丸くして驚く。

お姉さん

帰ってくる、って………
あなた、この家は………

そこまで言ってから、相手は急に口をつぐんだ。
少しの間だけ考えるような顔をしてから、みのりを抱き起こしにかかる。

みのり

だ、大丈夫、ですから…

みのりはそう言おうとしたが、自分で立ち上がれないほど頭がフラフラしているのに気づいて、お姉さんに体をゆだねることにした。
抱き起こされたところで、みのりの額がお姉さんの頬に触れる。

お姉さん

熱があるじゃない!

言われて初めて、みのりは異様な寒気がするのに気がついた。

お姉さん

とりあえず、私の家にいらっしゃい。
肩につかまれる?

みのりがうなずくと、お姉さんは素早く背中を向けた。その背中にみのりはもたれかかって、左腕を相手の肩の向こうへ回す。
お姉さんは投げ出してあった傘を右手で拾い、雪の中へ足を踏み出した。
みのりも懸命に歩き出す。暖かい場所に連れて行ってもらえるなら、どこでもよかった。

さっきとは別の角を曲がって、狭い道を表通りのそばまで行くと、お姉さんの住むアパートがあった。

みのり

こんなとこに、アパートあったっけ…?

ここには古い二階建ての家が建っていたような気が、みのりにはした。
でも、あまり通らない道だったし、アパートの建物は新しそうだったから、最近建て替わったんだと考えて納得した。

狭い玄関を入ると、すぐにカーペット敷きの部屋。
お姉さんに促されるまま、みのりは部屋の真ん中の炬燵に入る。

お姉さん

とりあえずこれ羽織っとってね。すぐストーブつけるから

コートを脱いだみのりの背中に、薄桃色のカーディガンが掛けられる。
お姉さんはドテラを拾って白いセーターの上に羽織り、石油ヒーターのスイッチを入れてから、流し台に向き合った。
ダイニングもなく、部屋の端がそのまま台所。
ドテラにジーンズの後ろ姿が、みのりに声をかけてくる。

お姉さん

ココアでいい?

みのり

…は、はい。すみません

遠慮がちに答えてから、みのりは深く息を吐いた。
だるさや熱っぽさが残っているものの、いつの間にか頭痛は和らいでいたし、何よりも暖かい炬燵に入れたおかげで人心地がついた。
落ち着いたところで、みのりは部屋の中を見回す。
くすみや汚れのない白の壁紙には清潔感があったが、部屋はあまり広くなく、その何分の一かを本棚やタンスや勉強机が占めている。
バスやトイレは別にして、他に部屋はなかった。炬燵を片付けないと布団も敷けないような空間。もしかすると炬燵を布団代わりにするのかもしれない。

みのり

大学生、なのかな?

あまり遠くない場所に大学があって、みのりの通学路沿いにも学生向けのアパートが何軒かある。学生の間だけ住むのなら、この広さでも十分だろう。
でもみのりには、お姉さんは大学生よりも年上に思えた。まだ落ち着いて顔を見たわけじゃないけれど、二十五、六ぐらいの人だという印象を彼女は持っている。

そこで、声がした。みのりが振り向くと、すぐそばにお姉さんの静かな笑顔があった。

みのり

……この人、どっかで見たことがある気がする

あらためて相手の顔を見た瞬間、みのりはそんな印象を持った。
お姉さんが炬燵の上にマグカップを置く。暖かそうなココアの香りが、みのりの鼻をくすぐる。

みのり

あ、ありがとうございます

お姉さん

どういたしまして

答えながらお姉さんは、みのりの向かい側にあったノートパソコンを隅の方にどける。そこへもう一つのマグカップを置くと、そのまま炬燵に足を滑り込ませて真向かいに座った。

お姉さん

寒かったねー。さ、飲んで!

マグカップを持ち上げながら、友達に言うみたいに勧めてくるお姉さん。

みのり

じゃ、いただきます

少し打ち解けたみのりが遠慮なく口をつけると、しびれるほど心地のいい熱さと甘みが口に広がった。

みのり

おいしいー!

思わず、みのりは口に出す。

お姉さん

そう。よかったー

お姉さんはそう答えて優しく笑う。その笑顔が、みのりの心をさらに和らげた。
二口目を味わいながら、みのりは相手の顔をあらためて眺める。
眼鏡をかけた短い結び髪のお姉さんは、みのりの学校にいる、二十六歳だという教師と同い年ぐらいに見えた。やはり大学生ではないらしい。

みのり

でも、そんなことより…

自分のそばに戻ってきたお姉さんを見た時から、みのりは、もっと別のことを相手の顔に感じている。

みのり

やっぱりこの人、どっかで見たことあるような気が、するんだよなー…

十六歳の彼女に、十歳上の人間と顔見知りになる機会はほとんどない。だから仮に実際に見た顔だったとしても、すれ違いざまに道を譲られたとか、落とした物を拾ってもらったとか、その程度の縁だろう。
…なのに、見たことがあるような気がすると思うや、みのりはお姉さんに妙な親近感を覚え始めていた。

みのり

もしもお姉ちゃんがいたら、こんな感じかも…

ぼんやりと、そんなことすら彼女は思っている。
見ず知らずの人の家にいるという緊張感は失せていて、それは炬燵の暖かさやココアのおいしさのせいだけじゃなかった。

お姉さん

ん?どうしたん?

みのりの視線に気づいたのか、お姉さんが目を合わせてきた。

みのり

え?!あ、あの…

みのりは戸惑ったが、相手にいぶかるような気配はなくて、むしろ眼鏡越しの両目は面白い答えを期待するみたいにキョロリと見開かれている。
それを見て彼女は、思ったことを素直に言う気になれた。

みのり

あの…お姉さんのこと、どっかで見たことがあるなぁ、って思って…

お姉さん

ウソ?!ホントに?!

お姉さんはうれしそうに驚いてから、いたずらっぽい眼差しでみのりの顔を覗き込んできた。

お姉さん

私もね、さっきあなたのこと見て、どっかで見たことある顔だって思ったのよー

みのり

……へ?

意外というより、完全に想定外の反応。

みのり

…私、お姉さんと、どっかで会っとるって…ことでしょうか?

お姉さん

たぶん、そうじゃないと思うけど…

お姉さんは答えてから、ちょっと考えるような間を置いて話題を変える。

お姉さん

それよりさ、その『お姉さん』って呼び方、何かやだな………
私、みのりって言うの。みのりでいいよ!

みのり

ええ?!

みのりは驚いたが、相手は構わずに聞き返してくる。

お姉さん

で、あなたは?

みのり

…私も、『みのり』なんです。ホントです!

お姉さん

もしかして、平仮名?

みのり

はい。お姉さん…みのりさんも?

お姉さんはうなずいてから、みのりの顔を親しげな眼差しで見つめた。とてもうれしそうだった。

お姉さん

へぇー……あなた、みのりなんだ……

みのりの方でも、悪い気はしていない。このお姉さんと名前が同じことも、親しげな眼差しで見つめられていることも、何だかうれしかった。
みのりの顔を見たまま、お姉さんが、謎を掛けるみたいな顔をして言う。

お姉さん

ねえ。見たことがあると思ったら、私たち、顔もちょっと似とらん?

みのり

あ………

そうかもしれない、とみのりは思った。
朝、鏡で見る自分の顔から銀縁の丸眼鏡を取って、お姉さんが掛けている縁なしの細長いヤツに置き換えてみる。下ろしている前髪も後ろへ束ねて、お姉さんみたいに額を出してみる。そうしてみても、お姉さんの目のあたりは自分よりも少しキツい感じがするし、それに前から結び髪が見えないほどバッサリ短く切った自分なんて想像できない。
でも、目鼻も全体の雰囲気も「似てない」とは言えなかったし、それどころか見れば見るほど、

みのり

どっかで見たことがあると思ったら、私だ…

という気分が強まってくる。
そして似ていることは、相手への親近感をますます強めた。

みのり

うん。似とる………みのりさん、なんだか、私のお姉ちゃんみたい

両手でマグカップを包んで、はにかみながらみのりは答えた。

お姉さん

ふふっ。お姉ちゃんっていうか、名前も同じなんだから兄弟以上かもね

みのり

兄弟以上、って…?

お姉さん

えーっと………分からん。やっぱりお姉ちゃんでいいよ

ごまかすみたいに笑ってから、お姉さんは別の話題を差し出す。

お姉さん

そうだ。みのりちゃんも、こういうイラストとか好きじゃない?

お姉さんの手が、炬燵の脇から薄手の本を取り上げた。
B5版の表紙に、アニメかゲームのキャラクターらしきカラーイラスト。いわゆる同人誌だ。

みのり

は、はい!好きです!

みのりは思わず声を弾ませる。当てられた驚きよりも、親近感の高まりの方が勝っていた。
絵が好きな彼女はイラスト漫画部という部活で、『進撃の巨人』や『新世紀エヴァンゲリオン』などのキャラクターを楽しんで描いている。

お姉さん

私が描いたの。よかったら見て

みのり

はい!

本の中身は漫画で、思わず息を呑むほど上手だった。絵柄もみのりの好みに合っている。
加えて、女のキャラクターが主に描かれているのが、みのりにはうれしかった。彼女も女の子を好んで描くからだ。普通は女性が描き手だと男のキャラクターがメインになり、そしてイラスト漫画部は女子ばかりだったから、通じ合える仲間がいなかった。
ただ、描かれたキャラクターたちをみのりは見たことがなかった。
もちろん創作漫画の同人誌だってあるけれど、その割には筋書きやギャグがいまいち理解しづらい。
自分が知らないアニメかゲームが元ネタになってるんだ…とみのりは感じた。

みのり

すみません。これ…何の二次ですか?

既存の作品の世界やキャラクターを借りて作った漫画を、二次創作と呼ぶ。

お姉さん

あら知らんの?!『鋼鉄の時空』のツバサとヨウコ…

お姉さんは驚きながら教えたが、みのりはその作品名を聞いたことすらなかった。
相手もそれに気づいたらしく、急に照れ笑いを見せてあたふたと話題を切り替える。

お姉さん

…あ、ゴメン!まだマイナーだから分からんよね!でも、あと十年ぐらいしたら絶対流行るから………
それより、みのりちゃんの今のお気に入りは…『進撃』のミカサかクリスタあたり?

また、当たりだった。

お姉さん

『進撃』も私、描いとったよ

みのり

ホントですか?!

みのりが身を乗り出す。
相手は横にどけてあったノートパソコンを手にして炬燵から出た。

お姉さん

部屋、もう寒くないよね

そう言ってヒーターを切ってから、お姉さんはみのりの斜め前に滑り込んでパソコンを開く。
みのりもイラストの仕上げにパソコンを使うから、絵を見せると言ってパソコンを開くことに違和感はない。
ただ、ノートパソコンだと思っていたそれは薄い蓋と細長いキーボードがついたタブレットで、現れたスタート画面も、みのりが今まで見たことがないデザインだった。

みのり

iPad?…違う。何だろ。こんなの初めて見たけど…

そう思うみのりをよそにお姉さんは手早くタブレットを操作して、やがて画面をみのりに向ける。

みのり

うわー………

PDFで作られたイラスト集に、みのりは見とれた。
上手なのはもちろん、絵柄も構図も、まるで彼女のために描いたみたいに、彼女の好みにピタリとはまっている。

みのり

みのりさん、すごい…

同じセンスを、完全に共有できている同士…みのりはお姉さんにますます親しみを覚え、そして強い信頼感を持った。
みのりがふと顔を上げると、お姉さんが視線を合わせてきた。

お姉さん

みのりちゃんも、イラスト描くんでしょ?

みのり

こんなに上手じゃ、ないですけど…

お姉さん

じゃあ、一緒に何か描こ

みのり

え………

描こう、と言われて、みのりは現実を思い出した。今、絵を描くことは悩みの種になっていて、実は部活もしばらく休んでいる。
胸がキュッと痛み出して、引いていた頭痛がぶり返す予感がした。

お姉さん

炬燵のあっち側にノートがあるの。取ってもらっていい?

みのり

は、はい…

あまり気が進まないけれど、みのりはとりあえず従う。
お姉さんがいるのと逆側の炬燵の脇を見ると、色々な物が積まれた小さな山があった。バインダー、CDのケース、書類や図面を入れるファイル、何かの専門書、紙のカバーがかかった文庫本、お菓子の箱、ティッシュペーパー…生活のすべてを炬燵で済ませているという感じだが、ともあれ山の上の方に大学ノートが見える。

みのり

一番上の、赤いノートですか?

お姉さん

そう

みのりが体を伸ばしてノートを取ってくると、お姉さんはそれを広げて、どこから持ってきたのか鉛筆をみのりに向けて置いた。

お姉さん

さて…

もう一度みのりと目を合わせたお姉さんは、眼差しだけで優しく笑いかけてきた。

お姉さん

やっぱり、今は描く気が起きんって感じかな?

みのり

…え?

またもや、当たり。
顔を少しあらためて、お姉さんはみのりをしっかりと見つめる。

お姉さん

みのりちゃん。今、何か、とっても悩んどることがあるんでしょう?

みのり

……………

お姉さん

最初に見た時から、そう思ってた。よかったら、私に聞かせて

お姉さんの声は穏やかだったけれど、瞳にはすべてを見通しているような鋭い光がある。でもそれでいて、みのりによく似たその顔はすべてを包み込むみたいに優しい。
みのりは、すがるような気持ちでうなずいた。
表通りを走る路面電車の音。少しだけ開いたカーテンの隙間から、勢いよく降り続く雪が見えている。

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