五
五
蓮華の涙に息を呑んだ。
元気で勝気な幼馴染の泣き顔を見たのは、いつ以来だろう。
たしか……そう、あれは小六のとき。
青木家と澄川家で行った海水浴。
蓮華と一緒に遊泳中、彼女を驚かせようと、こっそり離れて岩場の陰に隠れたことがあった。
俺の不在に気づいた蓮華は血相を変え、大声で俺の名を呼び、何度も水中に潜ったりした。
その取り乱した様子にこっちが驚き、すぐに出て行ったのだが、現れた俺を見た蓮華は、わあっと声を上げて泣き出した。
ぼろぼろぼろぼろ、大粒の涙をこぼし続けた。
そっか、あのときも俺が泣かせたんだ。
目の前の蓮華と、思い出の蓮華の涙が重なり、胸が締め付けられた。
大好きな彼女に心配をかけ、悲しませ、泣かせたことへの罪悪感と後悔。それらに苛まれ、じっとしていられなくなった。
けれど相変わらず俺は魔法陣に拘束され、動けない。
蓮華、ごめん、ごめんな
謝ることしかできない自分がもどかしい。魔法陣が、今じゃもう煩わしくてしかたない。
蓮華は泣き顔をごまかすように、てへへ、と笑い、傍らに落ちていた自分のバッグを引き寄せた。
バカヒデはいつも間違ってばっかり。今回だって、きっとバカな勘違いしてんだ
バッグを開け、中から結構な大きさの箱を取り出した。それを俺の足元に置く。
それって
俺の目に“ペンタブレット”の文字が飛び込んできた。パソコンで漫画を描くには必須の周辺機器で、前から欲しかったものだ。
ヒデオ、ずっと言ってたよね。これ超欲しいって。だから、ほら、あたしからのクリスマスプレゼント
え? いや、プレゼントって、蓮華、これすげえ高かったろ?
高校生同士のプレゼントのやりとりには高価すぎる代物だ。
ものすっごく高かった。貯めてた小遣いじゃ足りなくて、だからバイトした
バイト?
そ。三木先輩の家、ケーキ屋さんだから。お願いしてみたの。稼ぎ時で忙しいでしょ、イブの今日は
すぐには理解できずにいると、今まで俺と蓮華のやりとりを黙って見ていた悟志が、口を挟んだ。
全国百二十店舗を抱える洋菓子店『さんぼんTree』。その本家本元が三木裕次郎先輩の実家だよ。ちなみに特製フルーツタルトがおススメ
貴重な情報ありがとう。
つまり……
懸命に頭を整理。
三木先輩と一緒だったのは、先輩んちのバイトに行くためだったってことか?
三日前から放課後働かせてもらってたけどね。最終日の今日もさっきまで売り子。で、終わった帰りに、これをバカな幼馴染のために買ってやったのさ
蓮華はかわいらしくドヤ顔を見せた。
大塚くんからのメールに気づいたのはそのあと。しょうもなって思ったけど、どうしても無視できなかったから
苦笑する蓮華。
それで来てみたら、こんな状況だし。パニックだよ。クリスマスイブだってのに
デートじゃなかったんだ……
蓮華は座ったまま下から睨んできた。
誰と、誰がかなあ? 試しに言ってみな。違ってたら、その髪むしる
ハゲにされたらかなわない。
俺はあわてて、なんでもないと、頭をぶんぶん振った。けれど胸中は安堵でいっぱいだ。
三木先輩と蓮華は付き合っていなかった。
ふたりを見た俺のただの勘違い。
笑えそうなくらいほっとしたけど、笑えないくらい自分がバカだったことに気がついた。
でもこんな高いもん、ちょっともらいづらいんだが……。俺、半分なら代金だせるぞ
蓮華の好意はうれしいが、さすがに物が高価すぎて気が引ける。
だが蓮華は手のひらをピシッと突き出し、拒否のポーズ。
ああ、いいのいいの。これはなんていうか……そう、鎖みたいなもんだから
鎖?
ヒデオを漫画家になる夢に縛りつけておく鎖
蓮華に悪戯っぽい上目づかいで見つめられる。すげえかわいい。
ヒデオ、あんた最近、漫画家になる夢、諦めようか悩んでたでしょ?
なんでそれを?
どれだけ付き合い長いと思ってんの? 出来の悪い弟のことは、お姉さん、なんでもお見通しなんだから
弟……か。
蓮華にお姉さんぶられることが不満になったのは、いつからだったろう。
やっぱり俺は蓮華をひとりの女の子として好きだし、彼女にも俺をひとりの男として見てもらいたい。
諦めんの早すぎだってば。この根性なし。ヘタレ。まだまだもっともっと頑張りなさい。あたしがせっかくこんな高いもの買ってあげたんだから。最低でもあと五年、ううん十年、いや二十年は漫画家目指すこと。いい?
それでダメだったら、俺の人生悲惨だぞ
ここで夢を諦めても、あんたの人生、悲惨なことは変わらないでしょ?
なるほど…………じゃねえよ!
あまりの言いぐさに口を尖らせると、蓮華は、くっくっと笑ってから目をそらした。
まあ、どんなにあんたがみじめな人生送ることになっても、お姉さんは弟を見捨てないからさ
蓮華?
だからこのプレゼントは、その……もうひとつの鎖でもあって……
蓮華の頬が淡く染まり、声は消え入りそうなほど小さくなった。
ひとりじゃダメダメなあんたを……あたしに…………縛りつけておくための
風にさらわれるほど、か細い声。それを俺は懸命につかもうとする。
そういうこと……だよねヒデオ?……あたしと先輩が一緒なのを見て……勘違いして……ショック受けて……それで異世界行こうって
心臓がありえないくらい高鳴りだす。
姉とか弟とか言っていたくせに、これは完全に不意打ちだ。
それってつまり……そういうこと……だよね?……ヒ、ヒデオは…………あたしのことが…………違う? これってあたしの自惚れ……?
自惚れなんかじゃない。たぶん蓮華が想像している通りだ。
そりゃそうか。異世界召喚を決めた経緯を聞けば、俺の蓮華への想いはバレバレだ。蓮華はもう俺の気持ちに気づいている。
はは、なんかかっこ悪いし、めちゃくちゃはずかしい。
でも……。
奥歯を噛みしめ、心で呟いた。
でもこれ以上は蓮華に言わせない。自分の口で想いを伝える――そのためには……。
俺は幼女天使に目を向けた。空中に寝そべった幼女天使はポテチを食いながら、横目でこちらを窺っていた。
なあ、異世界召喚まで、あと何分だ?
一分なのよさ。カウントダウンしてあげてもいいのよさ
俺は頭を横に振った。
いや、悪い。本当に悪いけど……――俺、異世界には行かない
幼女天使は眉をひそめた。
またまたご冗談を、なのよさ。英雄王になって、絶対的な力を得て、夢も恋も思いのままのバラ色人生。モテモテウハウハの贅沢暮らし。それを捨てる人間なんているわけないのよさ
ここにいる。異世界人生は諦める。せっかくここまでしてくれて悪いけど――
俺は蓮華を見てから、幼女天使に視線を戻した。
こっちに未練ありまくりだった
その未練はもはや、異世界を求める欲求よりはるかに強くなっている。
俺、バカだから気づかなかったけど、さっき勇者の言ったとおりだった。異世界なんか行かなくても、俺を受け入れてくれる場所も、俺がいたいって思う場所も、こっちの世界にあったんだ
俺は蓮華の隣にいたい。そこに居続けたい。
それが俺の望む場所。
その場所をちゃんと手に入れるために、こっちで頑張る。そう決めた
幼女天使は、俺が態度を変えたことに別段怒った様子もなく、淡々と応じた。
あと三十秒ほどなのよさ。召喚魔法陣はまだ消えてない。どうするのよさ、青木英雄?
異世界への欲求はもうない。
なら、今俺を縛りつけてるものはなにか。異世界へ誘う魔法陣などではない。
それはただひとつ。
蓮華がくれた鎖だけ
ヒデオ?
座ったまま俺を見上げる蓮華と目が合った。まるで英雄王になったみたいに力がわく。
ちょっとだけ待っててくれ。伝えたいことがあるんだ
蓮華は、俺の両腕をほぼ呑み込んだ魔法陣に不安げな視線を向けた。が、すぐにうなずき、ぴょんっと立ち上がった。
三十秒以上は待たないからね
充分だ
俺は歯を食いしばり、両腕に、両肩に、全身に、力を込めた。
ぐ……ううっ
唸り、魔法陣から両腕を引き抜こうと、渾身の力を振り絞る。
堅牢な魔法陣は俺を捉えて離さない。
異世界に逃げかけていた俺の心が亡霊みたいにそこに宿り、俺に再び憑りつこうとしているようだった。
でも悪いが、さよならだ。
心で呟き、さらに両腕に力を込めた。
頑張れヒデオっ
大好きな子の励ましに応えないわけにはいかない。
……っ!
両腕が引きちぎられそうに痛い。
けれどかまわない。それは身勝手で安易な行動をとった俺への罰。
すべて受け止め、俺は俺の決意を実現しなければならない。
本気だと言う証を、蓮華に見てもらうために。
うおおおおおおおおっ!
雄叫びを上げ、激痛に薄れゆく意識に気合のムチを入れた。
バラバラになりそうな身体が悲鳴を上げる中――
魔法陣内に埋まっていた腕が、わずか数センチこちら側に動き、
俺はここで……この世界で――生きる!!
つぎの瞬間、一気に肩から肘、手首、両手がそこから抜けた。
勢いあまって倒れそうになった俺を、蓮華が寄り添い支えてくれる。
それとほぼ同時、空中に残された魔法陣は、ガラスが割れるように砕け散り、その光の破片も間もなく塵となって消失した。
が、その代わりというわけではないだろうが、俺の右手が煌々と輝いていた。
な、なんだこれ?
その輝きは魔法陣の光よりも青白く、冷たい炎のように揺れ動きながら、右手を覆っている。
熱くはないが、抑えきれない力を内包されたみたいに、右手全体が震えだす。
幼女天使が、おやおや、と目を丸くした。
それは魔法魂なのよさ
魔法魂?
魔法を発動させる源
幼女天使はパタパタと翼をはためかせ、目の前まで下りてきた。興味深げに俺の右手を見つめる。
あ~、つまりこれはあれなのよさ。青木英雄の腕だけはすでに異世界に召喚済みだったから、そこに英雄王の魔法力が宿ったのよさ
英雄王の力……?
俺の言葉に呼応し、右手の魔法魂の光がわずかに膨張した。その波動は妖しさと神々しさが混然一体となったものだ。
召喚されたのが腕だけだったから、宿った魔法魂は……ふむふむ、せいぜい一回の魔法発動がいいとこなのよさ
でも魔法が使えるのか、俺に?
ただの魔法じゃないのよさ。一回とはいえ、英雄王の魔法。無敵、絶大、なんでもあり。森羅万象思いのままに変化させ、世界の理を創りかえることも可能なのよさ
マジか?
訊きかえした俺に、魔王がうなずく。
たしかにその魔法魂からは、我や勇者を凌駕する莫大な力を感じる。きさまが望めば、この世界は変貌する。夢や恋がすべて叶う世界にも、美女といちゃいちゃし放題の世界にも…………超うらやましい
魔王の頭をはたいてから、女勇者が口を開いた。
めったなことはするものではないわ、青木英雄。この世界に留まると決めたあなたに、そんな力は必要ないはずよ? あなたは英雄王ではないのだから、その魔法魂もしばらくすればきっと消えるわ
なにを言ってる、もったいない。それなら我にハーレムのひとつやふたつ作って……――いや、なんでもない
女勇者に睨まれ、黙る魔王。
俺はごくりと喉を鳴らし、右手の魔法魂を見つめた。
魔法……なんでも思いのままにできる魔法……?
不意に頬をつねられた。寄り添う蓮華の不審顔が目に入る。
バカヒデ、なんか変なこと考えてんじゃないでしょうね?
変なこと?
女の子だけ裸の世界にするとか
天才か!?
さらに強くつねられる。
いたたたっ。じょ、冗談だ、しねえよ、そんなこと。俺を信じろ
ようやくつねるのをやめてくれたが、蓮華の目はまだ明らかに怪しんでいる。
信用ないな。まあ、異世界行くとか行かないとかやってた俺を、信じてくれと言うほうが無理か。
苦笑して、天を仰いだ。視界の端に幼女天使が映る。
さて、どうするのよさ、青木英雄? 望めば望むだけのものが手に入る。この世界丸ごと青木英雄のものになるのよさ
俺はゆっくりとうなずいた。
ああ、わかった。俺はこの魔法魂で望みを叶える
ちょっとヒデオ、あんたなに言って――
声を上げた蓮華の肩を左手で抱きしめた。
ひょっ!? な、なにしてんのっ、離せバカッ、やめろ変態っ
じたばたする蓮華を腕の中に収めたまま、俺は魔法魂輝く右手を高々と突き上げた。
魔王と女勇者が顔色を変える。が、幼女天使がふたりを制止するように、すっと手を上げた。
青木英雄はな~、英雄王じゃなく、ただのバカなのよさ
呆れ顔で、それでも笑う。どうやら幼女天使はお見通しのようだ。
俺は掲げた右手の先、その彼方に広がる冬空を見つめながら、深く息を吸った。
いまこそ魔法を。
俺にとって最初で最後の英雄王の魔法を。
望みを叶えよ英雄魔法……――発動!!
右手の魔法魂が、光の残像を生じさせて天に上った。
猛然と、一直線に打ち上がった魔法魂。
それは頭上の白雲を貫き、その勢いで大穴を開けたとたん、
青白い光を空一面に爆発させた。
まばゆい魔法の光はけれど一瞬で消え去り、それに代わって薄い灰色が満ちた。
世界が息を止めて見守っているかのような……そんな優しい静寂を塗りこめた空の色。
そこから冷たい風が一陣吹き下ろされ、そして――
……雪?
俺の腕の中で蓮華が呟いた。
俺も蓮華も、いや、屋上にいる全員が空を見上げる中、小さな純白の綿のような雪が、ゆっくり落ちてきた。
ひとつ、
ふたつ、
みっつ……。
やがて無数の雪が舞い落ちてきて、空を、町を、俺たちがいる場所を音もなく清めていく。
蓮華
空を見上げたまま、好きな子の名を呼んだ。
それだけで心が雪のようにふわりと軽くなり、でも寒さを感じないくらい温かくなる。
この屋上の言い伝え、覚えてるか?
【クリスマスイブ、雪の降る中、この屋上で告白すれば必ず成功する】
そんな他愛のない言い伝え。
蓮華も降る雪を仰いだまま答えた。
当たり前じゃん。その言い伝え、ヒデオに教えたのあたしなんだし
ああ、だから俺、今日ここで蓮華に伝えようと思ってたんだ
なにをって訊いたほうがいい?
バレバレ……か?
まあね
蓮華が微笑む。
ん~、でも楽しみ。ヒデオのセンスのいいセリフが
ハードル上げんなよ
蓮華と目が合った。その鼻先に雪がひとかけら、落ちて溶けた。
蓮華の瞳の中に、俺が映っている。俺が望んだ場所がそこにある。
異世界に行かなくても見つけたし、これからはその場所を守るために頑張りたい。
この世界で。
そんな覚悟を胸に、俺は言った。
俺、澄川蓮華だけの“えいゆう”になりたい
蓮華は俺をじっと見つめ、雪の中でたっぷり数秒。
遠くから『ジングルベル』が聞こえてくる中――。
ださっ
はにかみながら、
俺の背中に両手を回した。
つづく