三
三
女勇者が切っ先鋭い長剣を高々と掲げた。
封滅魔技――氷刃烈波っ!
剣先に青い光源が生じた瞬間、
それはおびただしい棘の付いた氷の塊となった。氷塊は四方に冷気を吐きだしつつ、氷の棘を魔王目掛けて射出した。
魔王は後方に宙返りして、それを回避。屋上の床に氷の棘がガガガッと突き刺さった。
魔法はやめんか! 下手をすれば死ぬぞ!
逃げ腰の魔王に、女勇者は凄みのある笑みで応えた。
ぞくっとするほど美しく、怖い。
あら、殺すつもりでやっているのだから、問題ないわ
ふたりの登場に目を丸くしていた悟志が小声で、しかし興奮気味に言う。
すごい。勇者と魔王のリアルガチの戦い。これ、漫画に生かすべきだと思わないかい? それが漫画家としての使命だと思うんだ
すぐにバッグの中からスケッチブックと鉛筆を取り出し、魔王と勇者を描きはじめた。
さすが封印魔剣神姫朗先生は、図太い神経をしている。
覚悟しなさい、魔王!
女勇者が叫ぶと、剣先の氷塊が変形。
一瞬で刀身全体を覆うと、おびただしい冷気を放ちながら、ぐぐぐっと伸長した。
氷の剣と化したそれは、長さも幅も元の大きさの三倍ほどもある大剣へ。
それを片手で軽々振る女勇者。
あまりの長さに、その切っ先は魔王の目と鼻の先に届いた。
ひぇっ
顔を引きつらせた魔王が、弱々しく訴える。
あれは誤解だ。ディアナが鎧を新調したいと言うから、見立ててやっただけだ。やましいことは――
そのあと呑みに行ったわね?
あ、うむ、ちょっとだけな。でも普通に呑んだだけだ。神に誓うぞ
魔王が誓う神って、邪神だろうか。
ていうか、魔王と勇者のやりとりにしては、微妙に痴話喧嘩っぽい。
夜景の綺麗なロザッタ酒場の個室を使ったそうね?
それは、ほら、我は魔王だし。目立つのを避け、個室にした
幻の酒、エルフの甘露酒を用意して?
たまたま手に入ったって、ロザッタの主人が気を利かせてくれたのだろうな
世にも珍しい竜玉の指輪をディアナにプレゼントして?
ん……した……かな?
私を口説いたときと同じじゃない!?
これ完全に痴話喧嘩。
女勇者が魔王目掛けて氷の大剣を突き出す。
その刀身は魔王の顔のすぐ近くを通り、冷気が彼の髪の一部をピキピキッと凍らせた。
お、落ち着け勇者。我の真実の愛は、常におぬしとともにフォーエバー
歯の浮くような言い訳は、あなたを滅ぼしたあとで聞くわ!
復活の呪文を唱えてくれるであろうな?
その呪文、術者の老化を早めるから絶対に使わない
我、死ぬじゃん
死ね浮気者~!
女勇者が再び大剣を振り上げたときだ。
いいかげんにするのよさ
氷の大剣を怖れもせず、女勇者と魔王の間に、幼女天使が割って入った。
それを見た女勇者と魔王が目を見張り、動きを止めた。
え?……あ、信じられない……あなたに会えるだなんて
これぞ奇跡の邂逅か。しかし、なにゆえそなたがここに?
どうやら三人、顔見知りらしい。勇者と魔王と天使。ファンタジー臭が無駄に濃くなってきた。
女勇者が氷の大剣を元の長剣に戻し、鞘に収める。胸をなでおろす魔王。
幼女天使は空中に浮かびながらため息をついた。
あんたら周りを見てみるのよさ
女勇者と魔王は素直に従い、きょろきょろと周囲を見渡す。
え? なんなのここ? どうして私たちこんなところにいるのかしら?
魔王城にいたはずなのに、いったいいつのまに?
なんだか微妙に抜けてる勇者と魔王だ。
そんなふたりに、幼女天使が不機嫌顔で言う。
ここはあたしらの世界とは別の世界。あんたたちふたり、あたしの発動した召喚魔法陣に紛れ込んできたのよさ
小首をかしげる女勇者と魔王に、幼女天使はなぜか早口で続けた。
と、とにかく今あたしはお仕事中なのよさ。いつもの大事な大事なお仕事。いい? 対象者はそこでほら、魔法陣に拘束されてる冴えない彼。あたしがなにを言いたいか、ちゃ~んと理解するのよさ
そう言って、俺の異世界召喚に至るまでの経緯を、女勇者と魔王に手短に語って聞かせた。
聞き終えた女勇者と魔王は、顔を見合わせた。
先程までの諍いなどなかったみたいに、二度、三度うなずき合い、目顔でなにかを伝え合う。
やがてふたりそろって、俺の前までやってきた。
キュー……ではなく、天使殿
魔王が幼女天使に尋ねる。
異世界召喚まであとどれほどか?
再び空中に寝転んだ幼女天使は、視線だけを心配そうにこちらに向けている。
そうね、あと四十分ほどなのよさ
召喚発動当初は、二時間という長さに気が遠くなった。が、その瞬間は確実に、刻一刻と近づいている。
残り四十分はあっという間に思えて、鼓動が高鳴った。
あれ? 俺、緊張してきたのか。
ごくりと喉を鳴らす俺を、女勇者と魔王が興味津々といった顔で覗き込んでくる。
異世界の大物ふたりを前に、動揺しないわけがない。なにを言えばいいのかもわからない。
助けを求めて悟志に視線を向けた。だが、
勇者の剣のディテール、すごい。すごいよ。魔王の角の色つや、クール。超クールだよ
封印魔剣神姫朗は、女勇者と魔王のスケッチに夢中だ。マジ使えない。
俺は諦めてふたりを見返した。
ちゃんとしなきゃな。異世界行ったら俺は英雄王。勇者や魔王と並び立つ……いや、それ以上の存在になるのだから。
数秒の沈黙のあと、最初に口を開いたのは魔王だった。
こういうのはどうであろうか?
得意顔で魔王はある提案を持ち出した。
きさまが我々の世界に召喚されて、英雄王になる。代りに我がこちらの世界できさま……青木英雄として生きる。どうだ? 魅力的な趣向だとは思わぬか?
すぐには理解できず、瞬きを繰り返した。
魔王には面倒事が多くてかなわない。塔のてっぺんや洞窟の最奥でふんぞり返っていられるものでもないのだ。魔族を束ね、国を富ませ、他国と関係を構築し、内政、外政に奔走せねばならない。遊ぶ暇もない
浮気する暇はあるみたいだけど
女勇者が横やりを入れ、魔王が咳き込む。
と、とにかく、そんなわけだから、もう魔王として生きるのは飽き飽きだ。きさまに代わって、我がこの世界で生きよう
冗談とは思えない口ぶりに、俺は思いのほか焦った。
そんなの無理だろ。俺とあんたじゃ見た目だって――
不意に魔王の輪郭がぶれ、高速振動が生じたように全身がぼやけた。
魔王のシルエットは一瞬で崩れ、しかしすぐに新たな形が出現した。
マジ……か?
そこに立っていたのは俺自身――制服姿の青木英雄だった。
まるで鏡を見ているかのように、瓜二つの自分。だがニヤリと浮かべた笑みは、魔王の不遜な面影がある。
姿かたちを変えることなど、魔王の我には造作もない
俺の姿、俺の声で言う魔王は、傍らの悟志に顔を向けた。
青木英雄の友人とやら、きさまの目から見てどうだ?……――オイッス。おら青木英雄
先程までスケッチブックに鉛筆を走らせていた悟志も、さすがに驚いた様子だ。
眼鏡の奥の瞳をぱちくりさせ、唸った。
ヒデは“おら”なんて言わないけど……正直、ヒデにしか見えない
お墨付きをもらい魔王は満足気にうなずいた。再び俺を見て、声を弾ませる。
問題ないな。きさまが捨てた生活、人間関係を我がそのまま継承し、我にとっての新たな人生を、十二分に楽しむことにしよう
ま、待てっ
思わず大きな声が出た。
自分でもよくわからない焦燥と苛立ちに、居ても立っても居られなくなった。
あんた魔王だろ? ホントにあんたの世界を、生き方を捨てていいのかよ?
魔王の俺は訝しげに眉をひそめた。
おかしなことを。きさまだって己の世界や生き方を捨てようとしているではないか
でも俺は魔王じゃない。なんの取り柄もない、なにも持っていない、ただの、普通の高校生だ
なおさら好都合。なにも持っていないのなら、これからいくらでも持つことができるということ。ただの人間なら、これから特別な者になれるということ。それを体験できるというのなら、これほど魅力的なことはない
魔王は生き生きと瞳を輝かせた。将来に希望を抱くその顔に、無性に腹が立つ。
やめてくれ。俺の顔でそんな表情をするな。
この世界に見切りをつけたことを責められ、否定されてる気がした。
うまくいくわけないだろっ
俺は刺々しい口調で吐き捨てた。
夢は破れるし、恋は叶わない。なにもない。あるのは悔しさと、後悔と、痛みばっかりだ。それがこの世界の青木英雄なんだぞ
今まで黙っていた女勇者が、淡々と口を挟んだ。
君が私たちの世界に来ることには反対しないわ。むしろろくでなしの魔王がいなくなるのは大歓迎なんだけど
魔王の恨めしげな視線を無視し、女勇者はため息をついてから続けた。
私は勇者で、私たちの世界ではそこそこ名が知られてるわ。頼りにされ、慕われてもいる。けどね
遠い目をする女勇者。
そんな私でも、今まで何度も夢が破れ、叶わない恋だっていくつもしてきた。フラれたり、裏切られたり……。悲しいこと、つらいこと。それこそ悔しさと後悔と痛みをたくさん味わってきたわ
勇者なのに?
半信半疑の俺に、女勇者は微笑みながら首肯した。
勇者だからって部分もあるわね
それは英雄王になろうとしてる俺への忠告に聞こえた。
たとえ異世界に行って英雄王になったとしても、たとえ民から慕われ、豪勢な暮らしができたとしても。
生きていく以上、思い通りにいかないこと、つらいこと、後悔に苛まれることはある。
そう言われてる気がした。
まばゆいばかりの世界だった異世界。それがかすかに色褪せていく。
自分の中の決心が揺らぐのを感じ、さらに動揺した。
異世界召喚を決意してから、まだたった一時間半ほど。なのに迷いはじめたことが情けなく、自分の軽薄さが鼻についた。
で、でも……
声を絞りだし、女勇者に尋ねた。
あんたにはなかったのか? なにもうまくいかなくて……なにも得られなくて……つらくて……。そんな世界を捨てて、別の世界に行きたくなったことが。自分を受け入れてくれる異世界で生きなおしたいって思ったことがなかったのか?
女勇者は優しく瞳を細め、俺の頭にポンッと手を置いた。
あるに決まってるわ
そのひとことで、自分でも不思議なくらい心が軽くなった。
つらいこと、嫌なことだらけの場所に、我慢して居続けたっていいことないわ。時間の無駄だし、心が壊れてしまう。そんな場所はとっとと捨てて、新たな場所に向かうべきだと私は思うし、実際そうやってきたわ
それなら……
女勇者はゆっくりと頭を横に振った。
でもそういう場所は異世界に行かなくても、いくらでもあるの。自分の意志で、自分の足で行ける距離に、ね
本当だろうか。俺にもあるのだろうか。そんな場所が。この世界に。
まだ見つけていないのか。探そうとしていないのか。自分の足でその一歩を踏み出していないだけなのか。
簡単に答えが出そうにない中、女勇者は俺の頭をひとなですると、手を離した。
それに、異世界まで行ってしまったら、得るものも多いけど、きっと失うものも多いわ
吹っ切ったはずの蓮華の顔が、自然と思い浮かんだ。
胸がズキッと痛み、弱々しい言葉がもれる。
でも俺、すでに大切なもんを……大好きな彼女を失ってるし……
ああ、こんなこと言うなんてみじめだ。とてつもなくかっこ悪い。
ぶざまな自分に自己嫌悪。
そんな俺に追い打ちをかけるように、魔王が鼻で笑った。相変わらず姿かたちは俺のままだ。
失った、か。それはますます面白い
小馬鹿にした口ぶりに、ムッとした。
なにが面白いんだよ。おまえになにがわかる? こっちは真剣だったんだ。マジであいつのこと好きだったんだ
怒気をぶつける俺を、愉快そうに見つめる魔王。
いやすまぬ。きさまと入れ替わったときの楽しみが増えたことがうれしくてな
楽しみ?
魔王の目が嗜虐的に煌めく。
青木英雄が失ったという、その想い人。我が手に入れようと思ってな
!?
舌なめずりをする魔王の俺。
得ることが困難なものほど、魅力的だ。そしてそれを得たときの愉悦はなにものにも代えがたい。うむ、決めたぞ。その“大好きな彼女”とやらを必ず我の物にしよう
ちょ、ちょっと待て。蓮華はもう――
ほう、蓮華というのか
蓮華は……もうほかに好きな奴がいるんだ
だから?
いや、だからって……
そんなものは諦める理由にはならぬ
……む、むちゃくちゃだ
解せぬ解せぬ。少なくとも、己の想いを相手にぶつけ、その心を振り向かせる努力をしてはいけない理由には、けっしてならない
魔王の断言になかば呆れつつ、けれど心の半分は激しく揺れた。
蓮華に想いをぶつけることも、彼女の心を振り向かせる努力も、俺はなにひとつしていなかった。
そのことに気づかされたからだ。
蓮華がカレシらしき男と歩いていた。ただそれだけで、俺は彼女への告白を諦め、恋を捨て、そして……――異世界へ逃げようとしている。
そんなことで、本当に、真剣に、蓮華のことが好きだと言えるのか?
狼狽する俺の肩を、魔王が軽く叩く。
これからきさまは、異世界で唯一無二の英雄王となり、世界から必要とされる存在になる。そして我は……
もったいぶった間を開けてから、魔王は俺の声で言った。
この世界で、蓮華から必要とされる青木英雄になる
!?
よいな?
身体が熱くなった。怒りがわいた。
けれどそれが誰に対してのものかわからない。
行き場の失った感情は、ただ激烈な衝動となって腹の底から声を上げさせた。
いいわけない!
怒声は屋上に響き渡り、やがて冬の寒空に溶けて消えた。
そのときだ。
屋上昇降口の扉が大きな音を立てて開き、そこからつんのめるような勢いで、人影がひとつ現れた。
制服姿で通学バッグを肩にかけた少女は、膝に両手を付いた格好で、荒い息を吐いている。
すぐにこちらに視線を向けた。
メ、メール……。異世界行くって、あのメール、いったいなんなのよヒデオ!?
澄川蓮華が俺の名を呼んだ。
空中の幼女天使が口を開いた。
異世界召喚まで、あと二十分なのよさ
つづく