傍らにしゃがんだ悟志が、身動き取れない俺を見上げた。

考えなおしなよ、ヒデ。異世界なんて行かないでくれ

英雄

おいおい、見りゃわかるだろ? もう召喚魔法が発動してんだ。考えなおしてる時間なんて――

一時間以上あるんだし

…………

俺の両手を拘束する魔法陣に身を寄せながら、悟志はしきりに俺への説得を試みる。

この世界に嫌われてなんかいないさ。ヒデにだって、よかったこと、楽しかったことがあったはずだよ。僕はね、この世界でヒデに出会えて……友達になれて本当によかったし、楽しいんだ

英雄

悟志……

中学も、高校も、ヒデと一緒だから楽しかった。ヒデと一緒だから漫画だって頑張って書けたんだ。なあヒデ、思い出してみてくれ。この世界に拒否られてるって感じるほど、ヒデにはなにもなかったのかい?

英雄

それは……

悟志は魔法陣に手をかざしながら言った。

僕はヒデがいなくなるなんて嫌だ。ヒデがいなくなったら、心に大きな穴が開いたみたいに空虚で、寒々しくて、冷たくて、芯から冷えて、鳥肌立って、震えが――

英雄

寒いのか? 寒いんだな?

魔法陣って放熱しててあったかいんだな

こいつ、神聖な魔法陣を暖房器具代わりにしてやがった。

俺は舌打ちして、冬空を見上げた。

たしかに今日は冷え込んでいる。もしかしたら数十年ぶりにホワイトクリスマスになったりするのかもしれない。

そう思ったとたん、脳裏に幼馴染の姿がよぎった。
そして嫌でも実感する。

たとえ雪が降っても、この屋上にまつわる言い伝え――【クリスマスイブ、雪の降る中、この屋上で告白すると必ず成功する】――が、実行できるわけでもない。
そんな機会はもう失われたんだってことを。

口中に苦みが広がった気がした。
数時間前、見かけた光景を思い出す。

クリスマスイブで華やかに飾り立てられた街、その中を男と一緒に歩く幼馴染の姿を。笑顔で会話を交わす彼女の姿を。

イブに一緒にいるふたりがどんな関係かなんて、バカでもわかる。
その瞬間、俺はあっけなく失恋し、この屋上で今日、彼女に告白する一世一代のイベントもなくなったわけだ。

鼻の奥がツンッとした。
鼻水がでそうで、制服のポケットの中のティッシュを取り出そうとした。が、両手は魔法陣に拘束中。

というより、左右とも手首あたりまで魔法陣の中に埋没し、この世界からすでに消失している。手先の感覚はあるのに、視認できないという妙な状況。

こうやって徐々に身体が異世界へ送られ、あと一時間ちょいで、存在すべてが異世界へ転送されるのだろう。
晴れて俺は異世界の住人、英雄王になるわけだ。

でも今はとりあえず、鼻をかみたい。

英雄

悟志

悟志は魔法陣にぬくぬくとあたりながら、目を輝かせた。

考え直したのかい?

英雄

いや違う。ポケットにティッシュが入ってる。それで俺の鼻をかんでくれ

なんでこんなときに、僕がヒデの介護を

英雄

しかたないだろ。手が動かせないっつうか。もう両手は異世界に行ってんだから

わかったよ。でもその交換条件として、この世界に残るって約束してくれるかい?

英雄

俺の異世界召喚と、鼻をかむのが等価なのか? 等価なのか?

二度繰り返すと、悟志は渋々といった様子で、俺のではなく自分のポケットからティッシュを出した。
それを数枚俺の鼻に押し付ける。

はい、ちんっして、ちんっ

英雄

う、うん

ちょっとはずかしい。なんで異世界召喚中に、こんなことしてもらってんだろ。

羞恥に耐えてると、幼女天使の声が聞こえてきた。

幼女天使

あ~、悟志とやら、もう諦めたほうがいいのよさ。青木英雄から異世界への欲求が消えることなんてない……ていうか、たとえどんな人間でも異世界の魅力には抗えないのよさ

幼女天使はふわふわと滞空しながら、俺たちを見下ろしている。

幼女天使

考えてもみるのよさ。青木英雄はこの世界では普通で、平凡で、無能な、ボウフラのごとき人生を送るしかない男なのよさ

言い過ぎじゃね?

幼女天使

でも青木英雄は、異世界では英雄王。望むものすべてが手に入る、バラ色人生を送れるのよさ

で、でもちょっと待って

悟志が幼女天使の発言に疑問を呈した。

生まれ育ったこの世界を捨てて英雄王になることが、そんなに素敵なことなのかな? ヒデにとって幸せなことなのかな?

幼女天使

素敵なことだし、幸せに決まってるのよさ

幼女天使は当然だと言わんばかりに即答した。

幼女天使

世界中の人々から崇められ、莫大な富と栄誉で満たされた人生。こっちの世界にはない幸福なのよさ

でもヒデはさっき、こう言ったよ。自分が世界を救ったりできるって。僕はそれが気になってしかたない。英雄王になるってことは、世界を救うという、危険で困難な義務を負うってことじゃないのかい?

そこに気づくとは、悟志もなかなか鋭い。

俺だって幼女天使から異世界召喚の話を聞いたときは、そこに引っ掛かった。

喜び勇んで異世界へ行ったら、悪魔とか魔王とか、そんな連中との死闘の日々だった――なんてことになれば、幸せになる前に命を落としかねない。
異世界行って人生変わるのはいいが、終わるのはまっぴらだ。

だが幼女天使は、心配ないと、前もってちゃんと説明してくれたんだ。

幼女天使

まあ、あたしのようなプリティー天使がいるくらいだから、悪魔や魔王、邪悪なモンスターだって異世界にはいるのよさ

表情を曇らせる悟志をよそに、幼女天使は続けた。

幼女天使

でもな~、異世界に召喚された青木英雄は、その瞬間、英雄王の力を得るのよさ。それが選ばれし者の理、摂理。そしてその力は、悪魔や魔王が束になっても敵わない圧倒的な力なのよさ

そう、比類なき英雄王の力が、異世界召喚と同時に俺に宿る。

幼女天使

知力、体力はもちろん、英雄王の魔法力なんて、それはもう、森羅万象を意のままに操る無敵無類の力なのよさ

だから悪魔や魔王と戦っても、ヒデは大丈夫だってことかい?

幼女天使

違うのよさ

幼女天使は頭を横に振った。

幼女天使

戦わなくていいのよさ。英雄王の力は一瞬にして世界に知れ渡り、そんな存在に抗おうとする愚か者はいなくなるのよさ

つまり俺は、悪しき者に目を光らせる絶対的抑止力となって、世界に平和をもたらすという寸法だ。

本当にそんな都合のいい異世界召喚が可能なのかな?

幼女天使

ふっふ~ん、可能だから、あたしはわざわざ別世界の人間のところにやってきたのよさ

自信満々の幼女天使に、悟志は反論できず悔しげにうなった。

そんな悟志を見てるのも、なんだかいたたまれない。

英雄

悟志、もういい。なにも心配いらない。おまえが気に病むことはない。これは俺が望んだこと。自分を必要としてくれる世界に俺が行きたい。ただそれだけだ。頼むから俺のことは、今日を最後に忘れてくれ

そう言うと、悟志はハッとして、正面から俺を見据えた。

ヒデはいちばん大事なことを忘れてる。たしかに異世界に行けばヒデは世界中のひとから必要とされて、愛されて、富も栄誉も手に入るかもしれない。皆からちやほやされて、ハーレムとか作り放題だろうね

英雄

いやそういうのはべつに

ちらっとは考えたけどな、ちらっとは。

でも……でもさ――

悟志は俺の胸ぐらをつかんだ。

異世界にはヒデの好きな子がいないんだよ! 澄川蓮華がいないんだよ!

その名前に胸が抉られた。

痛い。抉られたところがこんなにも痛いなんて。

澄川蓮華。小一のときに俺の家の隣に引越してきた女の子。
朗らかで、優しくて、ちょっと頑固で、同い年なのに姉さんぶる女の子。
家族ぐるみの付き合いの中で、ホントの兄妹みたいに親しくなった幼馴染。

けれど俺の方は、はじめて会った瞬間から、彼女に魅かれた。
蓮華が笑うとうれしくて、蓮華に見つめられるとこそばゆくて、蓮華に頼られると力がわいた。

それが恋だとは知らなくて――。

でも中二の夏、蓮華が先輩のイケメンから告られたことを、彼女本人から聞かされ、相談されたとき、俺ははっきり自覚した。

俺は蓮華が好きなんだ。恋をしてるんだ、と。

だから蓮華が先輩からの告白を断ったとき、どれほど安堵したことか。

それから三年。
蓮華に告白する決意を固めるまでそんな長い時間がかかったのは、俺に度胸がなかったから。

今までの関係が壊れるかもと想像したら、踏ん切りがつかなかった。マジ不甲斐ない。自分でもわかってる。

でも、そんな不安を乗り越え、ようやく蓮華への告白を決めた矢先、俺の恋は片想いのまま終わった。想いを告げる前に終了を告げられたわけだ。
はい、解散解散。

ぐずぐずしていた自分への怒りを押し殺してると、悟志は俺が異世界召喚をためらいはじめたと勘違いしたようだ。

うんうん、そうだよな。澄川さんがいない世界なんて意味がないもんね

英雄

いや、そうじゃ――

ごまかさないごまかさない。今まで触れないでいたけどさ。正直バレバレだったよ。ヒデが澄川さんに惚れてるってことは

英雄

だから違――

幼馴染との恋なんて、二次元限定だと思ってた時期もありました。このリアルギャルゲー主人公め。うぷぷのぷ~

グーで殴りたくなってきた。

身動きできない状況を恨めしく思う中、悟志は制服のポケットからスマホを取り出した。

今から澄川さん、ここに呼ぶから

英雄

はあ!?

目の前に好きな子がいたら、異世界なんか行きたくなくなるさ。きっと一瞬で異世界への欲求はゼロになる

英雄

バカ、やめろ、悟志。蓮華のことはいいんだ

唯一動く頭を激しく振って、眉根を寄せ、涙目で、鬼気迫る様子で、口角泡を飛ばして訴えた。

英雄

だからあいつを呼ぶのだけはやめてくれっ

照れるなよ

英雄

これが照れてる態度に見えんのか? 目、大丈夫か?

斬新な照れ方だなあって

英雄

頭、大丈夫か?

心配ないさ、ヒデ。いい機会だ。異世界行きをやめてからの、澄川さんへの告白って流れで

英雄

無理無理無理無理!

焦る俺をよそに、悟志はスマホを耳に当てた。

英雄

マジで待て! どうせ蓮華は今頃――

デートだ、と言おうとしたが、胸が詰まって言葉がでなかった。
クリスマスの繁華街を蓮華と男が連れだって歩く光景が再びよみがえる。

制服姿の男子には見覚えがあった。
三年の三木裕次郎。

生徒会長で、フレンチレストランや洋菓子店を全国チェーン展開する大手企業の重役の御曹司だとか。
おまけにルックスもよく、性格もいいとかで、校内では知らない者がいない有名人だ。

そんな奴と蓮華が並んで歩く姿は、血を吐きそうなくらい悔しいが、絵になっていた。

僕が見る限り、充分可能性あると思うんだ。ヒデと澄川さん、お似合いだよ

違うぞ、悟志。それは幼馴染として収まりがいいってだけのこと。カレシカノジョとしてお似合いというわけではけっしてないんだ。

あれ? 出ないなあ、澄川さん

スマホを耳に当てたまま、悟志が小首をかしげる。

そりゃそうだ。デート中だもんな。
蓮華はきっと今、カレシしか見ていない。カレシの声しか聞いていない。

ホッとしたような、残念なような、淋しいような、そんな複雑な感情が入り混じった。

しかたない。メールしとくよ。ヒデが異世界に行ってしまうって

くだらない冗談だと思われるのがオチだ。

なんだか身体から力が抜け、自然と半笑いが浮かんだ。
そのときだ。

英雄

ひょっ!?

思わず変な声が出て、左手に視線を向けた。
が、左腕はもう肘のあたりまで魔法陣に埋没し、この世界から消滅している。
ただし視認できないだけで感覚はある。肘から先を動かすことも可能だ。

その左手に今一瞬、妙な感触が……。

どうしたんだいヒデ? もしかしてトイレ?

幼女天使

オシッコ洩らしたからって、召喚は止まらないのよさ

英雄

洩らしてないから、そんな心配するな

怪訝顔のふたりに応えながらも、俺は見えない左手を凝視する。

気のせいか……。
そう思いかけた瞬間――

英雄

へはっ!?

左手指先に、生暖かく、ぬめっとした物体がくっつき、うごめく感触があった。
かすかに粘性のある液体が肌を伝い、指と指の間に垂れてる気がする。

人肌に温めたこんにゃくが這いずってるみたいだ。それが何度も、リズミカルに左手を行ったり来たりする。

英雄

こ、これは、もしかして

英雄

間違いない! なめてるなめてる! 俺、左手なめられてる!

気色悪さと、恐怖心に叫ばずにはいられない。

中身が見えない箱に手を突っ込んで、なにが入ってるか当てるゲームがあるが、たぶんこれ、それを百倍怖くしたヤツだ。
なにせ腕の先は、どんなモンスターがいるかもしれない異世界へつながってるのだから。

英雄

やべえ喰われる! マジ喰われる!

んぎゃあああっ、ヒデが喰われる喰われる! グロ注意! グロ注意!

俺以上に取り乱す悟志のせいで、恐怖心がさらに高まっていく。

俺は異世界にあるはずの左手を懸命に動かす。追い払おうとする。
が、何物かの舌は離れることなく、その唾液で五本の指が侵されていく。

びちゃびちゃ、びちゃびちゃと。

もういつガブリとやられるかわからない。正直、洩らしそうだ。

幼女天使

あ~あ、英雄王になるって男が、なに情けない声出してんのよさ

幼女天使が空中を滑り、顔面蒼白の俺の横に降り立った。身動き取れない俺に代わって、左腕が沈む魔法陣を覗き込む。

幼女天使

異世界召喚は安全な場所へ送還するのが基本。この有能天使のあたしが、獰猛なモンスターがいる場所へ送るわけないのよさ

幼女天使には魔法陣の向こうに異世界が見えてるのか、彼女はそこに数秒目を凝らし、やがてうなずいた。

幼女天使

モンスターなのよさ

俺、終了。

気を失いかけたが、幼女天使が続けた言葉になんとか意識を保てた。

幼女天使

モンスターはモンスターでも、草食で人懐っこいインラパという小型モンスターなのよさ。ペットとして人間に飼われてるくらいなのよさ

英雄

ほ、本当か? 危なくないのか?

幼女天使

もふもふでかわいいのよさ

心底安心した。

恐怖と緊張が解け、へたり込みそうになったが、身動き取れないのでそれもままならない。ただ深々と息を吐いた。

幼女天使

あ~らら、この英雄王様、先が思いやられるのよさ

嘲笑する幼女天使を睨んではみたものの、醜態をさらしたあとなので分が悪い。

幼女天使も俺の視線をスルーし、魔法陣に再び目を向けた。

幼女天使

インラパは賢いから心配ないけど、たま~に小物の下等生物が魔法陣に飛び込んでくることがあるのよさ

英雄

そういう小物の下等生物はどうなる?

幼女天使

逆にこっちの世界に召喚されるのよさ。蟲型モンスターが別世界に迷い込んで、新種発見騒動になった話もあるのよさ。今回はそうならないよう気を付けるのよさ

英雄

まったくだ。次元間爆発が起きたらシャレにならないしな

そう言うと、幼女天使はきょとんとした。

幼女天使

次元間爆発?

なにそれおいしいの?――と言わんばかりの表情だ。

英雄

さっき言ってたろ? それを避けるために召喚時間を二時間たっぷりとって、異分子を異世界になじませるとかって

幼女天使はハッとして、手をポンッと叩いた。

幼女天使

そうそうそう、そういうことなのよさ。次元間爆発がドカ~ンッ、ダイナマイツッ、なのよさ。怖い怖い。てへへへへへ

どこか不自然な態度が気になったが、幼女天使は素知らぬ顔で魔法陣を確認する。

幼女天使

問題ないのよさ。召喚は順調。魔法陣に飛び込むおバカな小物なんて、めったにいるわけが――

幼女天使が言い終わる前、突然、今度は右手送還中の魔法陣が強烈な光を放った。

ぶおんと不穏な音を立てて、円形の魔法陣が波打つと、光の紋様が一気に膨れ上がった。

英雄

!?

あまりのまぶしさに目をつぶる中、遠くから声が聞こえてくる。
まるで水底から浮かび上がってくるそれは男のものだ。

誤解だ誤解!

それを追いかけてくる女の声。

今日という今日は許さないわ!

声は瞬く間に大きく、はっきりと聞こえだし――。

むやみに剣を振り回すな!

そこに名折りなさい!

耳のそばで怒鳴り声が響いた。
と同時、魔法陣の光が収束したのか、まぶたの裏を染めていた明るさが消えた。

なにが起きたのかわからず、おそるおそる目を開ける。

右手の魔法陣は、先程まで同様安定した光を帯びつつ、俺の右手を呑み込んでいる。
場所ももちろん学校の屋上。傍らには幼女天使と悟志がいる。が、

ちょっとは我の話を聞かんか!

そうやって私が何度ごまかされてきたと思っているの!

屋上には見知らぬ男女が出現していた。

黒マントを羽織った男は長身痩躯、鼻筋の通った顔立ちだが、頭には黒曜石のように光る角が二本。

白銀の鎧に白マントをなびかせた女は、艶やかな髪に白磁の肌。琥珀色の瞳を今は爛々と燃やして、長剣を構えている。

幼女天使が呆気にとられた様子で、ポツリと呟いた。

幼女天使

魔法陣に飛び込むおバカがいたのよさ

男が言う。

頼むから落ち着け――勇者よ

女が応える。

あら、あなたをぶった斬れば、少しは落ち着く気がするわ――魔王

小物どころか、超大物だった。

つづく

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