一
一
クリスマスイブ。
場所は高校の屋上。どこからか『赤鼻のトナカイ』がかすかに聞こえてくる中――。
魔法陣に拘束されて動けない俺。しかも二時間継続予定。
なんか泣けてきた。寒いし。
すぐに異世界へ行けると思ったら二時間って……。
なあ、もっと早くならないか? 異世界召喚なんて、漫画なら一ページだぞ
空中で寝そべってる幼女天使は、やれやれとため息をついた。
漫画本とポテチの袋を放り出すが、彼女同様、それらも宙に浮かぶ。幼女天使の周りだけ、まるで無重力状態だ。
漫画の読みすぎなのよさ。そういうのはフィクション、空想、妄想。現実はそんな都合よくはいかないのよさ
いちばん空想っぽい存在が、そんなことを言う。
異世界召喚、これすなわち、別世界の異分子を取り込むことなのよさ。ありえないものをあるものにすることは、世の理を変える所業。それってとんでもない大改変なのよさ
それはそうかもだが……
異分子が新たな世界と反発でもしたら、次元間爆発だって起きかねないのよさ
それは初耳だ。よくはわからないが、やばそうな感じはする。
俺はごくりと喉を鳴らした。
でもそんなのめったに起きないんだろ? 通常は
統計的に十八パーセントなのよさ
微妙にありそうだ。
強張った俺の顔を見て、幼女天使はふふんっと鼻で笑った。
だからそうならないための二時間なのよさ。青木英雄の存在を、じっくり、少しずつ異世界へ送還して、向こうの次元になじませる。そのへんの調整はあたしに任せなさいなのよさ
そう言って、幼女天使がぺったんこの胸を叩いたときだ。
屋上の昇降口、その扉の向こうから足音が聞こえてきた。階段を駆け上がってきてるのか、それはどんどん大きくなる。
おい、誰か来るぞ!
うちの高校は今日が二学期終業日だった。
なので校内に残ってるのは部活や委員会活動中の生徒くらい。
普段からひとけのない屋上に、用があるヤツなんているとは思えないのだが。
だが足音は勢いよく屋上に近づいてくる。
まずいだろ、こんなとこ見られたら
ふたつの魔法陣に拘束中の俺と、頭上の幼女天使をどう説明しろと言うのか。下手すれば大騒ぎだ。
いったんこれ、中断できないか?
ためしに両手を魔法陣から引き離そうとする。
が、びくとも動かない。それどころか数センチほど魔法陣の中に埋まっている。
魔法陣自体に厚みはないので、普通なら裏に突き抜けるはずなのに、埋まった手の部分は消失して目に見えない。
幼女天使の言うように、こうして肉体が少しずつ異世界へ送られるのかもしれない。
中断なんて無理ぴょ~ん、なのよさ
イラッとするくらい、幼女天使はのんびりモードだ。ポテチをパリパリ食いながら言う。
その魔法陣な~、青木英雄のこの世界への未練消滅が鍵となって発動したのよさ。停止させるには、今度は青木英雄の異世界への欲求がゼロになる必要があるのよさ
異世界への欲求がゼロ? ありえんな。異世界へ行きたくてうずうずしてんだから
んじゃ、二時間そのままなのよさ
でも誰かに見られたら
心配ないのよさ。目撃者のひとりやふたり、面倒なことになりそうなら、あたしの魔法で、ちりっちりの塵にしてやるのよさ
天使のような悪魔か、こいつ。
そうこうしてるうちに、昇降口の扉が勢いよく開いた。
こんなとこにいたのかい、ヒデ
屋上に飛び込んできたのは、通学用リュックを背負った学生服姿の眼鏡男子。見知った顔だった。
悟志?
俺をヒデと呼ぶそいつの名は、大塚悟志。
中学入学時からの付き合いで、俺と同じく漫画家志望。高校からは漫研部員同士切磋琢磨してきた仲だ。
昼過ぎから何度も電話したんだ。なのに全然出ない。ショックのあまり倒れたんじゃないかって心配で心配で。捜しまわってたら、二組の松田が学校に戻ってくヒデを見たっていうから来てみたんだ
悟志は安堵の表情で、眼鏡の奥の瞳を和らげた。が、すぐにその目に怪訝な色が浮かぶ。
ヒデ……なんかありえないものが見える
ようやく俺を拘束中の魔法陣と、空中に浮かぶ幼女天使に気づいたようだ。
CG? これCGか? それとも僕の頭、漫画に侵されすぎて壊れたかな?
狼狽する悟志。
ここで騒ぎ立てられ、幼女天使の魔法が炸裂でもしたら大変だ。ちりっちりの塵になった友は、さすがに見たくない。
俺は悟志を落ちつかせようと、慎重に話しかけた。
OK悟志。なんでもないから、ちょっとだけ聞いてくれ。これにはわけが――
すごい! 天使だ! 漫画じゃないリアル天使降臨! しかも超かわいい! やばいやばい、三次元萌えなんて、僕、はじめてだ!
漫画のことばかり考えてる漫画脳だからなのか。屋上の漫画チックな状況に、悟志はすぐさま順応した。
喜々として幼女天使の元へ駆けつける悟志。彼女を見上げ、恍惚とした表情を浮かべる。
僕は今度、天使を主人公にして漫画を描く。そうしよう。こんな可憐なリアル天使を見た経験、絶対に生かさなきゃ
その可憐な天使に、おまえ、塵にされるかもしれないんだぞ。
身動き取れない俺はハラハラしつつ、悟志の無事を祈る。
そんな中、幼女天使は翼をパタパタさせて、悟志の頭の高さまで下りてきた。満面の笑顔で、明らかに上機嫌。悟志の“かわいい”、“可憐”発言が利いたのかもしれない。
可憐か~、そうあたしは可憐。ふふん、この人間、なかなか見どころあるのよさ。青木英雄じゃなくて、こっちを異世界に召喚したかったのよさ
よしよしと悟志の頭を撫でる幼女天使。至福の表情を浮かべる悟志。蚊帳の外の俺。
まあこの様子じゃ、悟志が塵になることはなさそうだけど。
俺はホッと息を付き、それから悟志に声を掛けた。
なあ悟志、驚かずに聞いてくれ。俺……異世界へ行く
そっか
淡泊、すっげえ淡泊。
悟志は幼女天使のそばで、平然としていた。
さしずめ、その魔法陣は異世界召喚用ってところかな
漫画脳は理解が早い。ちょっと引くくらいファンタジーに順応しすぎだ。
で? 何日くらい行くんだい? ていうか、僕も連れてけよ。天使と一緒に冒険したい
ああ、なるほど、悟志は俺が異世界バカンスにでも行くと思ってるみたいだ。
いやいや、悟志よ、これはそんなお気楽なことじゃないんだ。
俺は、深刻な顔で頭を横に振った。
違う。そうじゃないんだ悟志。俺はこの世界を捨てる。ポイ捨てるって決めた
友達が現れたからといって、異世界を望む心境に変化はなかった。
ひとつも思い通りにならない世界、俺を拒否る世界なんてもういらない。今までの生活、家族、友達、すべてにさよならだ。俺は異世界で生きる。二度と戻ってこない
悟志は眉をひそめた。俺は異世界行きの決意の固さをわかってもらおうと、この世界の親友に真剣な目を向け続けた。
ヒデ……おまえ……
ようやく、異世界召喚が冗談でもバカンスでもないことを理解したのだろう。
悟志の顔色が変わった。
なに考えてんだよヒデ!? 自分が言ってることわかってるのかい!?
もう決めた。召喚魔法も発動している。止めることはできないし、そのつもりもない
待てって、落ち着けよ! ヒデは今、ショックで気が動転してるだけだ!
ショック?
そういえば悟志のヤツ、屋上に現れたときもそんなことを言っていたっけ。
俺はドキリとした。
まさかこいつ、俺の失恋を知っているのでは?
動揺する俺を尻目に、悟志は背負っていたリュックを、胸の前に持ち直した。
ヒデだって見たんじゃないの? 『週刊少年ステップ』の新人漫画大賞の結果
ああ、そっちか。
悟志の言いたいことがだいたい予想できた。
それはきっと俺の失恋についてではない。
俺に異世界召喚を決意させたもうひとつの理由。無残に散った、漫画家になる夢のほうだ。
悟志はリュックの中から一冊の漫画雑誌――『週刊少年ステップ』を取り出した。その中ほどのページを開いて見せる。
【新人漫画大賞結果発表】と大きく書かれてある。
アマチュアを対象にした、年に一度の賞で、漫画家デビューへの登竜門。その今年の結果だ。
俺はたまらず目をそむけた。
放課後すぐに、学校近くのコンビニでそれを目にした時のことを思い出す。
二次審査通過者の中にはあった自分の名が、三次通過者のリストにはなかったときの衝撃。
じとっと嫌な汗がにじむ。悔しくて、不甲斐なくて、目の前が暗くなって、叫びたくなる。
でもそれを悟志に……友人でもありライバルでもあるヤツには知られたくない。
懸命に作り笑いを浮かべた。
笑えるよな、見事に落選。そうだよ、それ見てわかったんだ。悟ったんだ。俺はこの世界には受け入れてもらえない人間だ。相性が悪い。ていうか抜群に嫌われている。たぶんこの先ずっとだ
空想や妄想ではなく、それはもうたしかな実感だった。
そんなときだ。突然、この幼女天使が現れて言ったんだ。異世界へ行かないかってな。異世界だぜ、異世界。そこに行けば英雄王ってのになれるって言うんだ。こんな俺が世界を救ったりできるらしいんだ
想像するだけで気持ちが昂ぶる。
すごくね? 嘘みたいだろ? でもリアルだ。これってリアルな……――救済だ。俺への救い。この世界に絶望した俺は、幼女天使の話に飛びついた
そうして異世界召喚に使えそうなひとけのない場所を求められ、高校の屋上へやってきたというわけだ。
屋上は告白場所にするはずだったのに、別の目的で来ちまったな……。
俺は失恋したことだけは隠し、異世界召喚に至るまでのいきさつを悟志に話してきかせた。
悟志は最後まで聞いてから、おもむろに口を開いた。
この世界に絶望? たしかにヒデがどれだけこの新人賞に賭けていたかは知っている。中一のときから毎年応募して、毎年落ちていたことも、今年結果がでなかったら漫画家、諦めようと考えていたことも
もう高二の冬だしな。どうしたって考えるだろ? 卒業後のこと。将来のこと。でも……
俺は吐き捨てた。
考えれば考えるほど、夢も希望もなかった。つまんない将来しか浮かんでこないんだ。情けないけどな
自嘲する俺に、悟志は真摯な口ぶりで言った。
諦めちゃダメだよ。つまらない将来なんて変えればいい。もう高二の冬? 違うよ。まだ高二の冬だ。夢を諦める年じゃない。なあ、ヒデ、一緒に頑張ろう。漫画描こう。僕はヒデの漫画大好きだ。ヒデには才能がある。きっと漫画家になれる。ヒデにはこの世界でやるべきことがあるんだ
熱弁する悟志に、気持ちがわずかに揺れた。
心から説得してくれる友人がいることはありがたく、そんなヤツがいる世界にかすかな光が差した気がした。
ピシッと、異世界行きの決意に小さなひびが入る。
でも……
悟志の気持ちは嬉しい。
けれど、悟志の持つ『週刊少年ステップ』が目に入ると、決意のひびは、暗い感情によって修復されてしまった。
その感情は嫉妬だ。
なあ、悟志。今回の大賞受賞者の年齢、見たか? 俺らと同じ十六歳だぞ
新人漫画大賞受賞者――ペンネーム・封印魔剣神姫朗。
名前は中二病全開だが、年は十六だ。
同い年が大賞を取ったことは、自分が落選したのと同等か、それ以上にショックだった。
自分より年上なら、負けても言い訳ができる。でも同い年なら、それはもう完膚なきまでの敗北だ。自分の未熟さを直視しなければならない。
それってすげえつらい。
ヒデ、ひとはひと、自分は自分。封印魔剣神姫朗のことなんか気にするな
同い年の封印魔剣神姫朗と俺とじゃ、こんなにも差があるんだ。それを見せつけられたんだぞ
たまたま運がよかっただけじゃないかな、封印魔剣神姫朗は
たとえそうでも、その運を呼び込んだのは封印魔剣神姫朗の才能だろ。愛されてるんだよ、この世界の漫画の神様に。俺とは違いすぎる
才能なんてないさ、封印魔剣神姫朗に。今回の応募作だって、適当にちゃちゃっと二日で描いて送ったものだぞ
バカ、そんなわけ…………ていうか、それどこ情報だよ?
いや、僕が封印魔剣神姫朗だからだけど
…………え?
聞き間違いだろうか。聞き間違いだよな。聞き間違いであってくれ。
僕が封印魔剣神姫朗だからだけど
ご丁寧に二度言いやがった。
悟志は照れ臭そうに頭を掻いた。
ペンネームからなにから、冗談のつもりで描いた漫画だったんだ。構想なんてなくて、行き当たりばったりで。なのに大賞くれるって。ありえないよね。編集部から電話あって、連載に向けて頑張りましょうとかって。ホント運が良かったなあ。この世界、運ゲーみたいなものなのかな
…………
絶望も嫉妬も遥かに超えて、無の境地になった。般若心経でも唱えたくなった。
悟志
なんだい?
俺、もう迷わない。異世界へ行く
なんでさ!? もうあったまきた!
そこで逆ギレするおまえがなんでだよ。
とにかく俺は決めた! おまえにとって運ゲーかもしれないが、俺にとってこの世界はクソゲーだ! まさかラスボスが封印魔剣神姫朗だとは思わなかったぞ!
意味わかんないよ!
俺にもわかんねえよ! この世界の生き方がさっぱりわからねえ! だから行くんだ! ここではないわかりやすいところにな! 俺を歓迎してくれる異世界へ!
行くなヒデ!
さらばだ!……――さらばだ封印魔剣神姫朗!
芝居じみた大声で、別離を宣言した。
声は木霊し、その余韻は、やがて遠くから聞こえてきた『サンタが町にやってきた』にかき消された。
…………
が、状況に変化なし。
俺は相変わらず魔法陣に拘束されて動けないし、悟志は俺を引きとめようと、片手をこちらに伸ばした格好のまま。
そして数秒。
空中に浮かぶ幼女天使が、はふにゃあ、とかわいらしく欠伸をしながら言った。
異世界召喚まで、あと一時間半なのよさ
俺はドラマチックに別れたはずの悟志に、もう一度告げた。
さらばだ……――あと一時間半後に
つづく