二時間目から降り出した雪は、昼には足首が埋まるぐらいに積もって、まだ降り続いている。

桃乃

みのりー!

みのりが生徒玄関に向かって歩いていると、後ろから桃乃の声がした。

桃乃は追いつくと、みのりの手を引っ張って自分の方を振り向かせる。

桃乃

もう、どこ行っとったの?お弁当食べる時間なくなっちゃうよ

みのり

ゴメン。今日は早退する

桃乃

……え?どうしたん?

みのり

頭が痛くて、ちょっとフラフラする。風邪かも

答えたみのりの顔色は、たしかによくない。眼鏡の下の両目にも生気がなかった。

桃乃

えぇ?大丈夫ぅ?

桃乃は心配そうな顔を近づけながら、みのりの額に手を当てる。

桃乃

熱は、ないみたいだけど…帰れる?

みのり

うん、なんとか…

桃乃

あ。玄関まで送ったげる

そう言うと、桃乃はみのりの手をしっかりと握り直して、みのりと一緒に歩き始めた。
みのりは桃乃に手を引かれて廊下を歩き、階段を降りていく。

桃乃

あのね、みのり

生徒玄関にたどり着いたところで、桃乃が口を開いた。

桃乃

みのり、今日だけじゃなくて、最近ちょっと元気ない気がするけど…大丈夫?

みのり

……………

みのりはちょっと黙ってから、精一杯の笑顔を作って答える。

みのり

そ、そんなことないって。大丈夫。今日だけ

桃乃

そっか。じゃあ…気をつけてね

桃乃は手の力をきゅっと強めてから、みのりの手を離した。

みのり

うん。ありがと………
あ、私は大丈夫だから、桃乃、早くお弁当食べちゃいなよ

桃乃

…分かった。じゃあね

返事をした桃乃は、背中を向けて校舎内に戻っていく。
みのりは桃乃の姿が完全に見えなくなるまで見送ってから、ようやく手に持っていたコートとマフラーを身につけ始めた。

みのり

……………

門を出たみのりは、雪が積もった歩道を歩く。
まだ十二月なかばなのに、早くもこの冬三度目の本格的な雪。
でも靴は履き慣れたミドルブーツで、もっと雪が深くても平気で歩けるはずなのだが、今日のみのりの足取りはよたよたして頼りなかった。彼女の具合はよほど悪いらしい。
すぐ横の車道は、車通りと消雪パイプのおかげで雪がほとんどなかった。だから車道の端の方を歩ければ楽なのだけれど、そこには融けた雪が深い水たまりを作っている。

やがて、みのりは歩道橋へ上がった。歩道橋は道の真ん中に向かって下りていて、そこには路面電車の停留所がある。
彼女が停留所に立つと、傘を畳んでいるうちに一両きりの電車がやってきた。

電車は空いていて、みのりは肩で息をしながら空いている席を目指した。
走り出す電車の中で手袋を外す。そのまま彼女は、手袋を外した自分の手を見つめた。

みのり

あんなに心配してくれるのは…友達だから、だよね

声には出さずに、みのりはつぶやいた。桃乃の手の感触を、みのりは思い出している。

みのり

あ…

右手を少し動かすと、小指の甲に黄色い絵の具がついているのが見えた。
三、四時間目の「絵画初級」という授業で油絵を描いたから、その時についたのだろう。
みのりは目をそむけながら、右手を急いでコートのポケットにしまった。
目を閉じた彼女は、蒼白い顔をさらに辛そうにゆがめる。

路面電車は市の中心部をコの字形にめぐる。
途中の乗り降りが少なかったおかげで、みのりは二十分あまりで家の近くの停留所に着いた。

傘を開いてから、表通りと呼ばれる道を渡って、歩道に上がる。
渡ってすぐのところに駐車場付きのコンビニがあるおかげで、歩道は雪かきがされていた。
みのりは時々このコンビニに寄って菓子を買うけど、もちろん今日は寄り道どころじゃない。
コンビニの角を曲がって細い道に入ると、とたんに雪が深くなった。
痛みをこらえるような顔をしながら、みのりは一歩ずつ、足元を確かめるようにして歩いていく。ポニーテールにした長い髪が歩くたびに大きく揺れていた。

みのり

きゃあ!

いきなり強い風が吹いて、舞い踊る雪で目の前が真っ白になった。
コートがあおられてスカートと一緒に派手になびく。
前がはだけそうになるのを両手で押さえたら、傘が手から離れて表通りの方に飛んでいった。
風はすぐに止んで、みのりは道を引き返して傘を拾い上げたが、そこで大きなくしゃみが出て、ずり下がっていた丸い眼鏡が雪の中に落ちた。

みのり

もう、最低…死ねばいいのに

眼鏡を拾ってかけ直すと、みのりは住宅に囲まれた細い道を歩き出す。
道には消雪パイプも車の轍もなくて、歩くたびに足がくるぶしまで埋まる。背後にある表通りから、車の音、そして路面電車が走る音が届く。
ようやく、目指していた四つ角にたどり着いた。これを右に曲がれば、あとは家まで一本道だった。

みのり

…あれ?

角を曲がったみのりは、行く手の眺めに違和感を覚えた。
降りしきる雪の向こう、左手の少し高い場所。
そこにあったはずのものが消えていて、何もない空間がぽっかりと広がっている。

みのり

遠藤さん家の、桜の木………
切っちゃったの?

道の左手には高い板塀をめぐらせた大きな家があって、敷地の中から塀を越えて、道に覆い被さるように太い桜の枝が何本も伸びていた。
かなりの老木なので春に咲く花はやや勢いに欠けていたが、それでもみのりはその桜を見るのが好きだった。
その桜の枝が、きれいに姿を消していた。
昨日も今朝も、みのりは桜の枝を特に注意して見ていたわけじゃない。でも、なければ気づくはずだと彼女は思った。
それなら今朝、彼女が通った後に切り倒されたのか。

みのり

そんな、まさか

植木屋が足場を組んで、丸一日かけて枝の手入れをする姿を、みのりは以前から見ている。
枝の手入れに一日かかる大木が、朝から昼までの間に跡形もなく切り倒せるとは彼女には思えなかった。
しかも、こんな大雪の中でそんな大がかりな作業を決行するものだろうか…。

みのり

……………

みのりは空間を見上げたまま立ち尽くしていたが、やがて激しく咳き込み始めた。

みのり

早く、帰んなきゃ…

寒さと具合の悪さが、限界に近かった。
肩で息をしながらコートのボタンを留め、首に巻いたマフラーを口元まで引き上げてから、みのりは背中を丸めてよたよたと歩き出す。
道を埋め尽くす深い雪は、まだ誰にも踏まれていなかった。

ようやく、みのりは家に着いた。
扉のない門を入ると、すぐに玄関。庇の下で傘をたたんで、手袋を外してから、みのりは玄関の引き戸を開けようとした。
が、引き戸はビクともしない。

みのり

え?

二、三度試してみても同じで、つまり鍵がかかっていた。

みのり

今日は、お母さん仕事じゃないはずだけど…

だからみのりは今朝、鍵を持っていかなかった。
でも現に、引き戸の磨りガラスの向こう側は真っ暗で、いくら目を凝らしても家の中に明かりは見えない。

みのり

…買い物、かな

たしかに、家のすぐ横にある駐車スペースには車がなかった。
ただ、車を出した時に刻まれる轍が見あたらず、そこには道と同じ高さで雪が平たく積もっていた。駐車スペースの地面には融雪用のヒーターがあるはずで、それを動かしていないということは、雪が降り出すよりずっと前に車を出したことになる。
駐車スペースと反対側へ首を向けると、道に面した窓に雨戸がおりていた。

みのり

やだ…雨戸まで閉めて、どこまで買い物に行ったの?

みのりは変だと思ったけれど、どう思ってみても、とにかく家には入れない。
家に入れないと分かるや、みのりは体にふらつきを覚えた。
ふらつくままに、彼女は引き戸を背にして玄関の庇の下にへたり込んでしまった。

…みのりは頭痛や気分の悪さは、今日に始まったことじゃなかった。
この半月ほど、彼女はひどい頭痛やけだるさに襲われてきた。襲ってくる頻度は日ごとに高くなり、夜もよく眠れない。そのせいで、何かをしようという気力も日ごとに失せていく。
今日が特にひどいというよりは、我慢の限界という感じだった。

みのり

……………

母親の車が戻る気配はなく、寒さがじわじわと体にしみ込んでくる。
両隣の家と近所付き合いはあるし、中学時代からの友達の家もすぐ近くにあった。でも頭痛と体のだるさが強すぎて、みのりには立ち上がる気力も起きない。
母親に電話しようと思ったものの、膝に置いた鞄のジッパーを少し開けただけで手が止まってしまった。
せめて手袋をしようと思ったところで、また右手の小指についた絵の具が目に入った。
ついた絵の具を急いで隠すように、あわてて手袋をはめる。

みのり

「絵………私、これから、どうすればいいんだろ」

最近ずっと抱えている悩みを、みのりは頭にめぐらせ始めた。
彼女は絵を描くのが好きで、だからデッサンや絵画、デザインといった授業が選べる高校に入り、一年からさっそく「絵画初級」を選んだのだが、今はその絵が悩みの種になっていて、思い出すのも辛かった。
そして、その悩みを彼女は誰にも話せていない。

少し開いた鞄の中に、携帯電話が見えた。
みのりの指が、電話機についた青紫色のストラップを撫でる。

みのり

…桃乃

みのりは口に出して、さっき別れたばかりの友達の名前を小さく呼んだ。
呼んでから、組んだ両手をみぞおちに埋めて下を向く。

みのり

私、苦しい…
悩んどること桃乃に全部打ち明けて、思いっきり甘えたい。
…けど、そんな私、きっと桃乃は嫌だよね。嫌われちゃうよね。
だって、ホントに全部打ち明けたりなんかしたら…

大好きな友達の顔も救いにならない、というより、その友達との間にも何か悩ましいことがあるらしい。
くらくらするような頭痛の下で、みのりはぐるぐると考え込んでいく。
そのうちに彼女の頭の中がぼんやりと曇ってきて、半分夢を見ているような意識になった。
降り続く大粒の雪。
みのりは気づいていないが、家は、二階の窓もすべて雨戸が固く閉ざされている。

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