森の中に、大きな木のような家がある。
そこには魔女とその弟子が住んでいる。

うー、わからない…
わからないわ…

あきらめますか、チバリ様?

いいえノーラ、私は負けないわ。
必ず見つけ出してみせる…!

乱雑した部屋の真ん中で、
魔女チバリは固く拳を握った。

どっかにポンって置いたっきり見かけてない、うちの師匠の人体書…!

掃除片付けは日頃からなさいとお師匠様が言っているのでは?

あー、あー!
死人の声なんて聞こえないわ!

耳をふさいで逃げるチバリ。
固い拳はほどけている。

ノーラは腰に手を当てて、
ため息をついた。

はあ…人体書、でしたっけ。
どうして急にその本を?

ロトフクスの願いを叶えるのに、あれば便利かと思ったんだけどねー。

ああ。

ロトフクス。
〈狼〉と恐れられた食人鬼。

彼が魔女に依頼をしたのは、
一か月ほど前のこと。

もう人間を食べたくない。
我慢する方法を教えてくれ。

あの件ですか。食人嫌いの食人鬼というのも大変ですね。

舌が好む食べ物でも体が拒否することはあるわ。その逆も当然、あり得るってことね。

味の問題じゃないと思います。

とにかく、依頼からもう一か月でしょ。そろそろ本腰入れようと思って。

ロトフクスさんも焦れてましたしね。少し前に来たときもイライラしていて、なだめるのに苦労しましたよ。

あれなだめてたの?
怒らせてんのかと思った。

不思議そうに首をかしげる
チバリだった。

さっさと片づけたい理由は他にもあるわ。怪力薬の件よ! 売っちゃダメなんて、ノーラったら酷いわ!

だってチバリ様、魔女狩りを相手するのにこの頃は怪力薬を使ってばかりでしょう? もしあの薬が流出したら、手の内の半分を明け渡すようなものです。

安全のためにも、怪力薬を人に売るのは反対ですよ。

魔女狩りや教会の手に渡っても、勝てばいいんでしょ、勝てば!
パワー百倍の魔女狩りが何人来ようと敵じゃないわ!

本当ですか~?

信じさせるわ!
そのために、ロトフクスには対価として、力比べを要求したんだもの。

まあ、怪力薬を飲んだ食人鬼に勝てるなら、文句の出ようもありませんがね。

そうそう!
めざせ、大っぴら解禁!

大っぴらを目指すということは、こっそり売ってはいるんですね。

ぎくーっ!
聞こえないわ!

再び耳をふさぐチバリ。

必要以上にたくさん作ってるなあ、とは思ってましたけど。

聞こえたわ!

都合のいい耳だことで。

バレてたんならもう隠す必要もないわよね。ちょうどよかった、それならノーラ、〈植物の魔女〉にコレ届けてくれない?

これは?

注文されてた怪力薬。

いきなり堂々としすぎでは?

さーっ、私は探し物の続きをしなくっちゃあ。

あからさまにいそいそと
ガラクタをひっくり返すチバリに、

…私が帰るまでには、足の踏み場くらい作っといてくださいよ。

はいはーい!

ノーラはまたもため息をつき、
小包を手に取った。

まったく人使い荒いんだから…
ブツブツ…

あら。

あ?

河がさらさら流れている。

橋のそばに人影を見つけ、
ノーラは足を止めた。

ようお嬢さん。この森は食人鬼が出るから一人で出歩かない方がいいぜ。

自虐って言ってて疲れません?

疲れる。

じゃあ言わなきゃいいのに。今日はあなたに用はないんです。そこをどいてくれていいですよ。

なんで上から目線なんだよ。今、魚取ってるところだ、勝手に通れ。

…………

河がさらさら流れている。

あ、もしかして俺が怖いのか?

ロトフクスが、自分のそばに
横たわる橋をちらりと見た。

まさか。

顔が青いぜ?

生まれつきです。

そんな顔色の赤子が出てきたら産婆がひっくり返るわ。馬鹿にする気はねえよ。俺は食人鬼、おまえはただの人間だろ。

ただの?
私は魔女の弟子ですよ。

弟子ったって、どこが人間と違うのか見せてくれれば納得するがな。
あのおっかない魔女はともかく、おまえは普通の女に見えるぜ。

む。普通で悪かったですね。

ノーラの不機嫌に気づかず
ロトフクスは続ける。

おまえ、なんで森に住んでんだ?
それも魔女と一緒によ。

普通の人が森にいてはいけないと?

少なくともその必要はねえな。俺は仕方ねえんだ、村では暮らせねえ。でもおまえは違うだろ。普通の奴なら、村で暮らした方が幸せだ。

…それで幸せだったら、そもそもここにいません。

何?

あなたなんか怖くない、と言ったんです。勝手に通れと言いましたね。

は?
や、確かに言ったけど――

ずんずんずん

うわっ!?

あらごめんなさい。
風邪を引かないよう気をつけて。

ふざけんなよっ!
もう少し深けりゃ溺れてたぞ!

いいですね。
次は滝つぼで会いましょう。

殺す気か!

ロトフクスの怒声を背に浴びつつ、
ノーラは足を速めた。

ふんだ。

…私はどうせ魔女じゃないって、私がいちばんわかってますよ。

九年前

チバリや、チバリ?
どこにいるんだい?

ここよ、お師匠様。

おや、机の下から声がしたぞ。
そんなところで何をしている?

お師匠様の本を見ているのよ。

ああなるほどね、私の本をね。

何もなるほどじゃないな。
机の上で読みなさいね。

ヘンな本ね。文字がなくって絵だけで、人間がたくさん描かれてる。なあにこれ?

それは人体書。
描かれているのは人間の体さ。

人間の体?

体を作る成分を、人の姿にして表したものだ。一枚目の女たちが集まって髪、二枚目の男たちは皮膚。細い管に人が詰め込まれている絵は…

わかった、血液ね! 人間ならみんな、体の中にこれだけの人たちがいるの?

たいていはそうだ。
でもみんなじゃない。

何かが足りない人もいるの?

そうだね、足りない人もいるね。

足りないときは、どうするの?

決まってるじゃないか。人間に限らず、足りないものを補うために生き物は食事をするんだよ。

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