目を瞬かせれば、エルカたちは暗闇の空間に立っていた。

 視界にノイズが入る。

 奇跡の時間が終わりを迎えようとしていた。

 ここは暗闇以外の何もない。
 図書棺の残滓もない漆黒の闇だ。



 闇に浮かぶのは、一枚の扉だけ。


 それと、エルカとルイだけが現実だった。


 目に映る父親と祖父にもノイズが走る。

グラン

さて……そろそ……お別れのようだな

 名残惜しそうにグランは言う。


 言葉が聞き取りにくくなっていた。


 その言葉にエルカは顔を上げた。

エルカ

そうみたいだね……お爺様、図書棺のことを教えてくれてありがとう。この奇跡を与えてくれてありがとう

グラン

エルカ、お前は幸せか?

エルカ

うん、気付いていなかったけど、見えないフリをしていたけど……私はそれなりに幸せだった。もちろん今も幸せだよ

グラン

ならば、その幸せを手放すでないぞ

エルカ

うん、がんばってみるよ。お爺様は、ゆっくり休んでください

グラン

そうか、ならば……ゆっくり休むとしよう

 満足したように微笑むと、グランはその大きな手で孫娘の頭を撫でた。


 偉大なる魔法使いは感触まで再現させてしまえるのだ。

 二度と感じることのない感触に、エルカは眉を細める。


 泣きそうになるのを堪えながら、強い瞳をグランに向ける。

エルカ

私はお爺様の本を読むことが夢だったの。今、読ませてって言ったら、叶えてくれますか?

グラン

ダメだな。まだ読ませるわけにはいかないな。恥ずかしいことばかり書かれているだろうから

エルカ

わかりました。でも、いつかはお爺様の壮大な物語を読んでみたいです

グラン

壮大すぎて驚くでないぞ………さぁ、そろそろ本当にお別れの時間らしい

エルカ

……はい

 グランとの別れは数年前に済ませていた。


 あの時に涙は出し尽くしたはずなのに、まだ込み上がるものがあった。


 目に映る姿は幻に過ぎない。

 幻だとは理解していた。


 胸の奥が何かで締め付けられたような気がした。

 父マースのことは殺したいとまで考えていたはずなのに。


 確かな殺意を抱いていたはずなのに。

 今はその感情は消えてなくなっている。

 マースは無言のままエルカを見ていた。

 グランが静かに口を開いた。
 

マース

……

グラン

その扉を開けば、お前たちは現実の世界に帰ることができるだろう

エルカ

はい

 扉からは淡い光が溢れ出ていた。


 扉の前まで、エルカは歩み寄り、その隣にはルイが立っている。

エルカ

この扉は私が開くよ。自分が閉じ籠った殻ぐらい、自分の手で開かせて。そうしなければ、私は本当の意味で強くなれない

 自分の手で開いて、自分の足で進みたい。


 その背中にマースが言葉を投げかける。

マース

いいかい、エルカ。振り返ってはいけないよ。前に進むんだ、明日に進むために

エルカ

もう振り返ってはダメなの?

グラン

うむ、もう振り返ってはいけない。振り返れば、二人とも現実世界には二度と戻れないだろう。振り返った瞬間、そこに我々もいないだろう。暗闇の中、エルカもルイも一人きりになるかもしれない

 落ち着いた声でグランが怖いことを言う。


 その表情が気になるが、振り返ることができない。

エルカ

振り返る前に……教えてくれても良かったのに

グラン

言えば別れが辛くなるだろうからな……お前も我々も

エルカ

そうですね。せっかくの決意が壊れるところでした……

エルカ

わかりました。私は振り返りません。過去を振り返って立ち止まったままでは、ずっと前に進めませんからね。私は、私たちはこの先を生きます

 自分たちは生者で、彼らは亡者。

 生きることを選んだエルカは、振り返らないと決めた。

 これは、少しだけ強くなった自分の第一歩なのだ。

 この扉を開けば、エルカとルイは現実世界に戻ることができる。



 エルカはルイを向いて、笑みを浮かべる。


 ルイもエルカに笑みを向けた。

ルイ

もう、いいの?

エルカ

うん、待たせてしまって、ごめんなさいね

 エルカはルイに手を差し出す。

ルイ

大丈夫、そんなに待っていないよ

 ルイはその手を握り締めた。

 離れないように、しっかりと握り合う。

エルカ

行こう。はぐれないように、一緒に

ルイ

ああ

 互いの視線と視線を絡める。

 握り合う手と手に静かに力がこめられた。


 確かに繋がった温もりを感じながら、もう片方の手でドアノブを握ると、ゆっくりと回した。

 白い光が視界いっぱいに広がる。





 図書棺の扉は開かれた。


 エルカが開いた彼女の棺は、彼女の手で再び開かれる。


 まだ棺の中で眠るわけにはいかない。


 静かに前に足を踏み出す。


 現実の世界が怖い。


 ビクビクとしながら、その一歩を踏んでいた。


 片方の手をルイがしっかりと握ってくれている。





 この温もりは、自分が一人ではない証。

 きっと大丈夫だ……と、自分に言い聞かせながら静かに、静かに、二歩目を踏み出す。



 眩しさに目を細めながら二人は光の中に足を踏み入れる。



 繋がれた手をルイが強く握りしめる。


 大丈夫だと安心させるように、優しい強さで握ってくれる。


 その優しさに、エルカは身を委ねることにした。

ルイ

じゃあ、行こうか

エルカ

うん

 繫がり合った手の感触を確認しあって、二人は足を前に踏み出していた。

 一歩、一歩、進むにつれて瞼が重くなるのを感じる。



 帰ろう、現実に。

 ナイトやソル、コレットが待っている場所に。


 そんなことを考えているうちに、意識が手放されていく。


 それをエルカは感じていた。

+ + + + + +

 この世界は不公平だ。

 不条理で優しくない世界。

 こんな世界から逃げ出したかった。

 だけど、逃げてしまったら気付くことができなかった。

 私が欲しかった【優しい場所】は、すぐ側にあった。

 手を伸ばせば届く場所、触れることが出来る場所に。





 すぐ近くには、過保護すぎる人がいたし、不器用だけど本当は優しい人もいた。


 学校に行けば、手を差し伸べてくれる友達がいた。

 幼い頃は祖父が護ってくれた。

 本好きの幽霊がいつも話を聞いてくれていた。

 そして、彼女が残してくれた本は、心を落ち着かせてくれた。




 目に見えているのに、見えていなかった。

 ここは、優しくない世界なんかじゃなかった。


 それなのに……

エルカ

 私は、この世界から逃げようとした。

 目の前にあった小さな【優しさ】からも逃げようとしていた。


 そこに、そんなものはないと否定していた。

 辛さからも、幸せからも逃げていた。

 被害妄想が暴走していた。

 なんて、愚かなのだろう。

 だけど、少しだけ顔を上げてみた。

 少しだけ周囲を見渡すことができた。








 今も臆病な私は、少しだけしか踏み出せない。

 この図書棺の中で過ごすことで、変われたような気がする。


 少しだけ、強くなれた気がする。


 今まで知らなかったことを知ることが出来た。
 伝えられなかったことを、伝えることが出来た。

 ずいぶん長い時間、この図書棺で過ごしたような気がする。



 成長するのには十分すぎる時間を。

 そして、夢のような奇跡の時間は終わる。

 少しだけ強くなれたエルカ・フランは、静かに目覚めようとしていた。

第5幕 開扉される棺 Epilogue

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