考える必要はなかった。

 言葉と感情が同時に零れ落ちる。

 思考する暇なんてない。

 この奇跡の時間がいつ終わるかわからない。

 突然、彼らが目の前から消えてしまうかもしれない。





 だから、ルイは思うままに言葉を、思いを吐き出す。

ルイ

……っっ……わがままばかりでごめ……んなさ

ルイ

話を聞こうとしないで、いつも迷惑ばかりかけて、怒らせてばかりで……ごめんなさい!

 あの日、言えなかった言葉。

 ずっと、言わなければいけなかった言葉。

 溢れる思いは言葉になっているのか、わからなかった。

 届くことのなかった、謝罪の言葉はしっかりと彼らの元に届く。







 踏み出して駆け寄りたかったけど、なぜかそれは出来なかった。


 これは、脆くて簡単に砕けて溶けてしまいそうな奇跡だから。

 触れてしまえば、そこで終わってしまいそうな予感がしたから。

 ルイと彼らの間に、見えない分厚い壁があるような気がしたから。

 だから、ルイは彼らに届くように声を上げる。

 それは、対面する父親も同じ。

 両の拳を握りしめて、強く声を張り上げていた。

謝るな、俺も怒りすぎた。悪かった

ルイ

……で、でも、ごめんなさい。父さんには反対されたけど、僕は探偵になります

 涙声で、ルイは父親に強く宣言する。

 その言葉に、両親は苦笑した。



 探偵になる。
 このことで、何度も父親とは言い争いをしたものだ。


 それは家族を失っても曲げたくない強い夢だった。
 最初は我が道を行く叔父への憧れだった気がする。
 叔父と仲が悪かった父親への反発だった気がする。



 だけど今は違う。


 困った人を助けられる、そんな探偵になりたいと願っている。

 強すぎる息子の眼差しを受けて、諦めたように、そして少し嬉しそうに父親は息を吐く。

もう、やめろとは言わない。お前はお前の歩きたい道を進めばいい

ルイ

はい、ありがとうございます

これからは、大人に迷惑をかけないようにな

ルイ

はい。僕は、貴方たちに恥じない人間になります

探偵になるな、という父親の希望には従わないのに?

ルイ

無理。この夢は曲げられないよ。僕は弱い人に手を差しのべて救うことができる探偵になる。だから、遠くで見ていてください

 ルイは強い眼差しで、涙混じりの声で両親に誓う。


 それが、途方のない夢物語だとしても諦めたくはなかった。

とんでもない、夢物語だな

ルイ

夢物語にはしない。僕は、探偵になるんだ!

見ているわ。ずっと、空の上から。貴方は私たちの自慢の息子よ

ルイ

母さんの、料理は大好きだった。ありがとう

 ルイは照れたようにその言葉を伝える。


 生きていても言葉にするのが恥ずかしくて言えなかった本音。


 言葉にするだけで顔が熱くなる。

 何度か家出も考えたことがあった。

 その度に、母親の手料理が食べたくて踏みとどまっていた。

ルイは、いつも美味しそうに食べてくれるから嬉しかった

ルイ

最後に食べられなくて、ごめんなさい

 父親とケンカをして食べることが出来なかった。

 あの日の食事は何だったのだろうか。

 もう二度と食べることが出来ない。


 そんな後悔に満ちたルイの言葉を、彼女は穏やかな笑みで受け止める。

いいのよ、謝らなくても。その代わり、これからは身体に気を付けてね。叔父さんに迷惑をかけてはダメよ。叔父さんの言うことは聞くこと。食事もしっかりとること

ルイ

はい、わかっています

 彼女は、突然手元を離れてしまった息子が心配なのだろう。


 普段ならば聞き流すような小言だった。

 しかし、ルイはしっかりと聞いていた。

 小言だって、もう二度と聞くことができないのだから。

……それと、女の子を泣かせてはダメよ

ルイ

……っっ

 その言葉だけは、少しだけ低く冷たい突き刺さる響きがあった。


 鈍器で殴られたような気分になる。


 母親の目が冷たい。笑っていない。



 ルイは顔を強張らせる。


 母親はエルカとルイの間に起きたことを知っているのかもしれない。


 背中に変な汗を感じたルイは力強く頷く。

ルイ

わ、わかってます

そういえば、私も父さんには何度も泣かされたわ。父さんも情けないところがあってね、今日だって一人では息子に向き合えないから私もついてきたのよ

か、母さん、それは黙っていてくれって

 父親はそれまで、表情を崩さなかった頬を紅潮させた。

 それは、決してルイに見せなかった素顔。

 取り乱す姿に、笑みを浮かべたルイだが矛先はそのまま自分に向けられる。

 母親はルイの手元に視線を移す。

その点は、貴方も同じでしょ、ルイ? 一人で父親に向き合えないからって、女の子を困らせないの

 そのとき、ルイは自分がエルカの手を握ったままであることを思い出した。

 それも力強く、彼女が離せないように。

 何度も握り直していた。


エルカ

………

 視線を向けると、エルカは恥ずかしそうに目を伏せている。


 目を閉じていても、ルイが手を握っている以上、耳は抑えられない。

 今の話もしっかり聞かれている。


 そのことに、ようやく気付いたルイは顔を赤らめた。

ルイ

ゴメン、い、痛かったよね

エルカ

痛くはないけれど、とても居たたまれない気持ち

ルイに友達が、それも女の子の友達ができたことは嬉しいわ。仲直りはできたみたいだし、これからも息子と仲良くしてね、エルカちゃん

エルカ

は、はい

 突然、名前で呼ばれたことに驚いたエルカが頭を下げた。


 ルイは手を握ったままだ。その手が微かに震えている。


 エルカはその理由を悟った。

 目の前の二人の様子が変化していたからだ。


 ルイの両親の身体は、ゆっくりと透き通り始めていた。


 それは、別れの時が近いということ。

 ルイの両親もそれに気付いていた。


 互いに視線を交わしてからルイを見つめる。


 最後の視線が交わされた。

これ以上は名残が惜しくなってしまうわ。ルイ、お別れよ。どうか、健やかに

元気でいてくれ。探偵になっても構わないから。元気で生きていることが父さんたちの望みだ

ルイ

わかりました。今まで、ありがとうございました!

 ルイが言い終えるのと同時に、二人は姿を消してしまった。


 エルカの前から本の蟲が消えた時のように、笑顔のまま霧散する。


 一瞬だった。

 一瞬で、目の前にいた人たちはその姿を消してしまった。

 エルカは繋がっていた手を強く握りしめる。

 今のエルカには、それしか出来ない。

ルイ

言えたよ

エルカ

うん

ルイ

父さんに、謝れたよ。母さんに、ありがとうも言えた

エルカ

うん、良かったね

 それは彼の後悔だった。父親に謝罪すること、母親に感謝すること。


 それは、ずっと燻っていたであろう、彼の深い後悔。


 それが果たされた。



 だからだろうか、ルイの表情は先程より晴れ晴れとしている。

 そんなルイが羨ましいとエルカは感じていた。

 ケンカばかりしていたと聞いていた。

 だけど、ルイの両親は確かな愛を息子に向けていた。

 ルイは生前の父親から、その愛情を感じることが出来なかった。


 それを、ここで受け取ることができた。

 それが、たまらなく羨ましいと思った。



 エルカは、改めて己の父親を見上げる。
 ルイの父親と比べても威厳の欠片もない人だ。
 だけど、彼はそれで良いのかもしれない。

エルカ

ルイくんががんばったみたいに、私もがんばるよ

 繋いでいた手を握り締めて、エルカは顔を上げる。

グラン
マース
エルカ

………

 そして、その手を離して、ゆっくりとマースの前に歩み出た。

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