その日の放課後、トオルはひとり廊下を歩いていた。

テクテク…

 ちょうど教室の前まで来たときだった。

 ずでん!

 なんと、靴ひもがほどけていたことに気づかず、それに足をとられて転んでしまった。

トオル

・・・いってぇ


 トオルは床にしこたま鼻を打ちつけた。

タラ~

トオル


 鼻血である。

 さらに足首もひねったらしく、ジンジンと疼き出した。

トオル

(これはやばい)


 自分一人では対処できそうもない事態になったと思ったトオルは、やむを得ず教室の前でくるりと踵を返すと、保健室へと進路を変えた。

トオル

(今日は、百人一首はお預けだな)


 いつもは帰れないことが嫌だと思っていたのに、いざ教室に居られないとなると、こんなに寂しくなるのかとトオルは不思議に思った。今は、どこよりも教室が一番遠い場所に感じた。

 それは、百人一首が学べないことに対してなのか、それとも。

 ひねった足をかばうようにしながら、保健室へと向かった。

トオル

失礼しまーす


 明かりがついていたことにほっとする。ついていなければ職員室に行かなければならないからだ。鼻血が床に落ちないようにかばいながら、保健室の戸を開く。

笹塚先生

ん? どうした?


 そこには生物教師笹塚がいた。

トオル

え? なんで?

笹塚先生

あれ? 藤原?


 鼻血を垂らしたトオルの疑問と笹塚先生のそれが重なった。

笹塚先生

なんだお前、鼻血出てるじゃねーか


 笹塚先生の驚いた顔を見て、トオルは自分の状態が思った以上に深刻だと気づいた。

笹塚先生

そこ、座ってろ

トオル

はい

トオルは、笹塚先生の声を聞いて内心ほっとしていた。 
先生は手早く怪我の処置をしてくれた。

笹塚先生

なに? 転んだ? しかも顔から?

トオル

えへへへへ


 トオルは笹塚先生の呆れ顔に笑うしかなかった。

トオル

あの、ところで先生はなぜここに?


 先生が足に貼る湿布を探している。その背中に向かってトオルは疑問に思っていたことを口にする。

笹塚先生

ああ、保健の先生な、陸上部員のケガの手当に行ってて、たまたま通りかかったら留守番頼まれたんだよ

トオル

そうだったんですか

 ーーーん? てことは。

そう、トオルが顔から転んでいなければ、今頃おうちに帰れていたことになる。

トオル

(がーん)


 トオルは不運な自分を呪った。

笹塚先生

よし。
手当も終わったし、はじめるか

トオル


 ーーーまさか。

 先生が取り出したのは、小倉百人一首だった。

 ーーーここでやるんだ。

 ますます運の悪さを呪うトオルであった。

 わたの原 八十島かけて こぎ出でぬと
 人には告げよ あまの釣船

 わたのはら やそしまかけて こぎいでぬと
 ひとにはつげよ あまのつりふね

笹塚先生

これを一言でいうと、
俺はさみしい、となる

トオル

えーと、どこらへんが?


 毎度のことながら意味が跳躍しすぎていて、トオルには全くわからない。

笹塚先生

ま、細かいことはいいだろう

トオル

(いいんだ)

笹塚先生

んー


 笹塚先生は窓の外をしばらく見て、それから鼻栓をしているトオルの顔を数秒の間、真顔で見つめた。

トオル

笹塚先生

藤原はさ、俺が明日からしばらくいなくなるって言ったら、さみしくないわけ?

トオル

えっ


 その声色があまりにも真剣だったので、トオルは先生が本当にいなくなるのだと思った。

 だが、先生のにやけ顔ですぐにそれが戯言だと知れた。

トオル

~~


 笹塚先生にからかわれたトオルは、面白くないと感じながらも、大海原を一人で流れゆく小野篁の心情に思いを馳せたのだった。 

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