その日の放課後、残念なことに家の鍵を学校に忘れたトオルは、しょんぼりとしながら教室へと戻っていた。
その日の放課後、残念なことに家の鍵を学校に忘れたトオルは、しょんぼりとしながら教室へと戻っていた。
やっちまった~
引き戸を開けると、キーリングを指にはめてくるくると器用に回す、生物教師笹塚の姿が見えた。
さ、やるぞー
わざとか、わざとなのか。
はーい
まんまと鍵を奪われていたらしいトオルはショックを隠せないまま返事をして、笹塚先生の前の席に着いた。
これやこの 行くも帰るも 別れては
知るも知らぬも 逢坂の関
これやこの いくもかえるも わかれては
しるもしらぬも おうさかのせき
さて、現代語訳だがな
笹塚先生はそこで言葉を切った。めずらしく神妙な面持ちで本を見つめている。
トオルは先生の言葉を待った。
汝の隣人を愛せよ
それって
ああ、聖書(福音書)の一節だ
え、先生 今回は宗教の話?
トオルは身構える。百人一首で既に手一杯だのに、宗教まで出てきたら、ついていけない。
だが先生は首を横に振る。
いや、そうじゃない
顎に人差し指の第二関節を当てながら、考えをまとめるようにゆっくりと言うと、硬い表情のまましばらく沈黙の時が流れた。
やがて覚悟を決めたようにトオルを見ると、口を開いた。
先生はな、3.11のあとで思うようになったことがあってな
それを聞いて、トオルはわかった気がした。
先生がなぜ、なかなか語ろうとしなかったかを。
たとえば
「街でふいにすれ違う人や、エレベーターで一緒になった人、そういう、それまで顔も名前も知らなかった人たちと、命を守る行動をとらなくちゃならなくなる時が、あるかもしれない」
それが
「夢物語や想像じゃなくて、現実に起こることを俺たちは知ってる」
先生はな、
「そういう、全然知らない他人様のことでも、時々大切な家族のように思えることがあるんだよ。今は特に、大変なことが世界で起きているしな」
(胸が締め付けられる。なんだろ)
もしかしたら蝉丸サンも、そう思ったのかなーって、な
逢坂の関、それは”家族”と”他人”の境、だったのかもしれない。
笹塚メモ
逢坂の関は、京都府と滋賀県の境にあった関所