砂漠の朝。
昨日までは、それは静かな時間だった。朝に限らず、私とギュンツしかいなかったから。
聞こえるのはお互いの声と、ラクダの鳴き声。そして風の音。
砂漠の朝。
昨日までは、それは静かな時間だった。朝に限らず、私とギュンツしかいなかったから。
聞こえるのはお互いの声と、ラクダの鳴き声。そして風の音。
でも今朝は…
朝食は全員に行き渡りましたか?
私はいい、食べている時間がない。
食べておいた方がいいですよ。
それより、ラクダが一頭いないようです。逃げたんでしょうか?
いえ、問題ないわ。ワルダート班の方に移ったのよ、一頭。
おいっ、そろそろ天幕たたむぞ。
今朝は風が強いから、吹き飛ばされないように!
あちこちに立った天幕の、中から外から、人声のにぎやかなことこの上ない。
昨日、いっしょに来てくれたのは、ワルダートさんとハジャルさん、他数名だけだった。昨日のうちにワルダートさんが隊の残りを呼び寄せたのだ。
今ここには、三十人ほどが集まり、出発を待っている。
ねえワルダート。
元のルートを少し外れてしまっているよね。到着時間に影響するかな?
たいした遅れにはならないわ、ハジャル。予定していた日の内には、町に入れるでしょう。
私たちは、これまで通り進めば問題ないわ。問題があるのは…
そうだねえ…
あの二人、まだ話がまとまらないみたい。
これからどうするつもりかしら…
そうつぶやいて、二人同時に見やるのは、青い天幕。
視線の先には、なごやかとは言えない雰囲気の二人…私とギュンツの姿があった。
おいアイラ、話を――
話すことなんてないよ。
オレにはある!
ラクダの駝装を整える私に、ギュンツがしきりに話しかけてくる。
だけど私は、ギュンツに顔を向けず、出発準備に集中する。
何度言われても、私の考えは変わらないよ。
ギュンツの依頼からは手を引く。
旅に支障がないように、次の町で、ちゃんと別の案内人を紹介するから。
ふざけんな支障大アリだわ!
わっかんねえな。何怒ってんだ?
何も。君は悪くない。
悪いのは私だから、気にしないで。
せめて顔見て話せよ!
ラクダと話してんのかてめえ!
話はこれで終わりだよ。
ワルダートさん! 出発はいつですか?
ああ、そろそろよ。
もう隊列も組んでいるから、全員そろい次第出発ね…
……?
なんですか、ワルダートさん?
私の顔に何かついてますか?
いいえ、そうじゃないけどね…
なんだか恋人の別れ話みたいだねーって、今、ワルダートと話してたんだ。
ハジャル!
ハジャルさんが、いつもと違って少し意地悪な笑顔で言う。
私は手綱を取り落とした。
って、な、な、何言ってるんですか二人とも!?
オレを捨てるなんてひどい女だ…
さては他に依頼人が。
いないよ!
悪乗りしないでよ、ギュンツ!
なんでちょっとそれっぽくした!?
悪乗りはセレナの文化だから。
そんっな文化があってたまるか!
ワルダートさん!
お世話になりっぱなしじゃ悪いので、せめて護衛の手伝いをしたいのですが!
それなら、護衛隊長に聞いてちょうだい。
先駆け班の先頭にいるわ。
わかりました!
私は急いでラクダに飛び乗った。
おい、オレも――
ねえ、待ちなよ、ギュンツくん。
追って来ようとしたギュンツに、ハジャルさんが声をかけるのが聞こえた。
止めてくれたということだろうか。
そこから先の会話は、聞こえなかったけど…私は心の中で、ハジャルさんに感謝した。
何の用だよ?
こちとら、腕の立つ用心棒を失うっつー生命の危機に瀕してんだ。
構わないでもらおうか。
そうだね。でも彼女はこれと決めたらゆずらないタチみたいだ。
冷静になって考えるためにも、少し君と離れた方がいいんじゃない?
つまり…?
まあまあ、結論を急がずに。
ここは、僕に任せてよ。
手伝いだと?
子どもがいてもジャマなだけだ。
私の申し出に、護衛隊長は眉をひそめた。
仕事をジャマされては不愉快だ。
さあ、帰った帰った。
ジャマをするつもりはありません。
ワルダートさんの許可も取っています。
確かに私は若いですが、子どもじゃありません。
〈砂漠の戦士団〉の一員として、いくつも盗賊団を壊滅させてきました。
一人でやったわけじゃないなら、お嬢さんの手柄にはならないよ。
守られながら戦うのと、自力で戦うのとは違うんだ。
自力で戦えます!
少なくとも――
少なくとも、あなたよりは強いですよ。
はあ?
お役に立てることが、きっとあるかと。
……くはっ。
は、は、は! おれより強いって?
口でなら何とでも言えるわな。
子どもの冗談に付き合っているほど、暇じゃないんだ、こっちは。
冗談じゃないですよ。
護衛隊長なんて肩書きなのに、相手の力量も測れないんですか?
そういう趣向のごっこ遊びか?
またにしな、お嬢ちゃん。休憩時間になら付き合ってやれるよ。
――ッ
クスクス、クスクス…
聞こえてくる声に振り向けば、他の護衛たちがニヤニヤ顔でこちらを見ていた。
…指差して大声で笑わないだけ、親切な人たちと思うべきか。
以前ギュンツに言われた言葉が、頭をよぎる。
ぶん殴って黙らせたら「ダメ」な場所にいるから、いつまで経っても、どちらが強いか、誰にもわかりゃしないんだ。
この人は護衛隊長だ。殴り倒したりしたら、護衛が機能しなくなる。
お世話になってるワルダートさんに、迷惑かけるわけには行かない…
ハジャル副隊商長、そちらのお客さんを連れて帰ってもらえませんか。
仕事のジャマになるんでね。
護衛隊長がそう言った。
視線の先を辿ると、ハジャルさんが来ていた。
申し訳なさそうな、困ったような笑顔。
アイラさん、戻ろう。
私は、従うしかなかった。
君が子どもだからというだけが理由じゃないよ。
後続班に戻る道すがら、ハジャルさんが言った。
私はラクダから下りて、ハジャルさんと一緒に歩いていた。
右手側を、私たちとはすれ違う方向に、隊商の列が歩いて行く。
足に鈴をつけ、荷物を満載したラクダたち。その手綱を取るラクダ使い。槍をかかげた護衛。
見ての通り、人が多いでしょう。
うちは十分な人数を雇っているから、手伝うことってあまりないんだ。
だから、気にしないでね。
…はい。
でも、隊商の護衛なら〈戦士団〉にいたころ経験がある。
全方位警戒しなければならない砂漠の旅では、人数は多いほどいい。
それを知っているから、申し出たんだけどな…
アイラさん…
ワルダートに言われたこと、まだ気にしてる?
そりゃ、まあ…
私は、昨日叱られた言葉を思い出した。
あなた、そんな甘ったれた仕事ぶりで、お金をもらっているわけ?
自覚が足りてないんじゃない?
ギュンツくんの案内人…
本当にやめるつもりかい?
ワルダートは少し、言い方がきついところがあるんだ。
アルラムル家の当主として、いつも気を張っているものだから。
アルラムルと言えば、多くの有力者と取引している商家ですよね。
そう、よく知ってるね。
彼女の取引先の多くは貴族や町の権力者だ。だけどその分、仕事で失敗すれば、一族郎党、首が飛びかねない。
僕みたいな、当主の座を息子にゆずった隠居老人とは比べ物にならないほど、日々プレッシャーにさらされてるんだと思うよ。
それもあって、彼女は自分に厳しい。そして他人にも、厳しくなってしまう。
だけど、君が意見を聞くべきは、彼女ばかりじゃないでしょう?
これまで君に守られてきた、他でもないギュンツくんが、今後も君を頼りにしてるって言ってるんだ。
彼の意見は無意味かい?
それは…
ギュンツは砂漠旅の大変さを知らないから、そんなことを言うんですよ。
一度倒れたことを、考えに入れないとは思えないけど。全部ひっくるめての判断じゃないかなあ。
それにもう一人、意見を聞くべき人がいるよね。
ハジャルさんですか?
おや、僕を数に入れてくれるとは嬉しいね。でも、そうじゃなくってさ…
君自身だよ。
君は、本当はどうしたいの?
そんなことは決まってます。
私はギュンツを守りたい。自分の手では守り切れないと判断したら、いさぎよく身を引くのも、必要なことです。
それに…私は、自分が許せないんですよ。
許せない、って?
ギュンツは私を見た目で判断せず、実力を買ってくれました。
だからこそ、裏切りたくなかった。
熱砂病は、死ぬこともある危険な病気です。それを知っていながら忠告をせず、ギュンツを危険な目に遭わせた私は、それこそ首が飛んでしかるべきです。
そんなに思いつめないで。
考え方次第だよ。
ギュンツくんは倒れたけど、君の処置が正しかったから今も生きている。
だったら、やり直せばいいよ。そうじゃないかい?
…ありがとうございます。
うん?
そのお礼は何に対して?
あ、えっと…
励まそうとしてくれてることは、わかるので…
でも納得は行ってない、っていう顔だね。
…………。
私は、しばし、黙り込んだ。
ハジャルさんの言葉は、どこまでも優しい。
だから、あまり、悪口みたいなことは言いたくないんだけど…
納得行ってないのは、本当なんだよなあ…
どうしたの、アイラさん?
ハジャルさんって…
ハジャルさんって、最適な言葉遣いをしますよね
私が思い切って言うと、ハジャルさんは首をかしげた。
……?
えっと、それって、どういう意味かな。
つまり…
私を励まそうとしてくれてます。
そして、その目的にかなった言葉を選んで使っている。
わざとらしい、ということ?
そんなつもりじゃないですけど…
目的を優先した言葉であって、本心じゃないように聞こえるんです。
…励まそうとしてくれてる、その目的自体に、さっきはお礼を言ったわけです。
すみません、疑うようなことを言って…
ひねくれてるなって、自分でも――
いいや、君の言う通りかも。
私の言葉をさえぎって、ハジャルさんが言った。
確かに、本心よりも、どうしたら相手を納得させられるか、でしゃべっているところはあるよ。ワルダートと隊商を組んでからは特にそうだなぁ。
ワルダートって、ああでしょう?
彼女の物言いが厳しい分、僕は柔らかくいようと思ってるんだ。
本当に言いたいことを言ったことなんて、もう何年もないかもしれない。
おかげで、たいていの人は僕の言うことに耳を傾けてくれるんだけどね…
君に化けの皮をはがされた気分だ。
化けの皮だなんて。
言葉を選ぶって、大切なことですし、客商売ならなおさらでしょう?
だけど君には、本気の言葉じゃなくちゃ伝わらないみたい。
自信を失っている若者を励ますくらい、わけないと思ったのになあ。
ギュンツくんになんて言い訳しよう。
え、ギュンツの差し金だったんですか?
とんでもない! 僕の方から協力を申し出たんだよ。それというのも――
ハジャルさんは、一呼吸おいて、続けた。
君は、まだギュンツくんと旅をするべきだと思ったからね。
それは、君自身のために。
どういうことですか?
この旅で、君は何かをつかめるだろうと思ったんだ。
ギュンツくんもまた、君と旅することで、得るものがあるだろう。
だって、君たちはまるで正反対なんだもの。一緒にいることで、お互いにとって良いことになる…そう思ったんだ。
若者には成功してほしいっていう、言ってみればただの老婆心から、口出しさせてもらったわけさ。
…何かを得ることになるとしても、その前に死んだら意味がないのでは?
また同じ失敗をするかもしれない。
私は砂漠に慣れすぎていて、慣れていない人にとって何が危険かわからないんです。
死なないさ。君は彼を死なせない。
それはどうして?
砂漠のアイラさん。
僕の方が長く砂漠で生きてるんだよ? 長年の勘さ!
…勘ですか。
おや、説得力がないって顔をしているね?
君に言われて『最適な言葉遣い』を捨ててみせた結果なのに、酷いなあ。
なんにせよ、今言ったことは全て本音だからね。僕の本音なんてめったに聞けない希少品だよ!
一考する価値はあるんじゃない?
…そうかもしれませんね。
だったら、アイラさん――
言いかけて、ハジャルさんは、私の肩越しに何かを見つけたようだった。
――と、話の途中だけど、お仕事だよ。
砂漠を持たないセレナの人は、きっとアレにも慣れてない。
アレ?
私は、ハジャルさんが指差す先に目をやった。
遠くの空気が土色に染まっていた。
高さは天にも届くほど。横幅は地平線をおおうほど。
風に巻きあげられた砂が、巨大な壁となって、徐々にこちらに近づいてきているのだ。
砂嵐だ!
あの速さなら、ここに至るまで数分しか残ってないな。
ギュンツくんはワルダート班にいるよ。隊の真ん中だ、行っておやり。
はい!
さて僕も、自分の班に戻ろう。砂に巻かれる前に最後尾まで戻れるかなあ。
それなら、私のラクダに乗ってください。隊の真ん中までなら足で走れば辿り着けるし、砂嵐の中ではラクダに乗っていても意味がないですから。
おや、ありがとう。
それじゃあ、お言葉に甘えて。
ハジャルさんは私から手綱を受け取ると、ラクダにまたがり駆けて行った。
隊商の列の中ほどに、ワルダートさんが率いるグループがある。私は砂を蹴立ててそのそばに駆け寄った。
ギュンツ!
ワルダートさん!
あら、アイラさん。
戻ってくれてよかったわ。砂嵐が来るわよ。
アレがそうか。初めて見るぜ。
数分もすれば、ここは砂の中になる。通り過ぎるまで待つしかないんだ。
フードかぶって、えりまきも付けて、砂を吸わないように。
…………。
どうしたの?
砂が来たら、なるべくしゃべらない方がいいから、言いたいことがあるなら今の内に言っちゃって。
なんか、調子戻ったな?
え!?
そ、そんなことないよ…?
と、言っている間に、
視界は、砂におおわれた。
ふうん。
砂の嵐とは、面白いもんだな。
しゃ、べ、ら、な、い!!
ギュンツは呑気にも、砂漠の旅を満喫しているようだった。
砂の吸いすぎで倒れたっていう自覚、ちゃんと持ってるのかな、この人…
つづく